この所雨が続き、急に寒くなりましたね。
秋の雨は詩情もたっぷりありますが、なんとなく寂しい気分にもなります。鬱々とした雨は心のどこかの部分にうったえるようで、静かであってもなかなか心
が落ち着かない事も多いものです。様々な事が沸き起こる日々の営みの中にあって、自分の行くべき道を迷わず淡々と進む事はなかなか難しいですね。
そんな日々ですが、先週は毎年恒例の北鎌倉古民家ミュージアムで、樂琵琶と笛の演奏会をやってきました。こういう時期はつくづく絹糸というものの繊細さに気が滅入りますが、倍音もテトロンと絹ではその豊かさがまるで違うので、やっぱりいくら大変でも絹糸を選んでしまいます。
湿気は天敵とはいえ、こういう時にこそ私の腕の見せ所。それに色々なヴァリエーションの曲を聞かせるのが、このチームREFLECTIONSの持ち味ですので、これからもめげずにどんどん演奏していきますよ。多分今後は薩摩琵琶より樂琵琶の演奏の方が増えてゆくと思います。ぜひご贔屓に願います。
そして次の日曜日には屋形船での演奏でした。残念ながら十六夜の月は見えませんでしたが、
三遊亭鳳楽師匠が司会をしてくれたおかげで、いい感じで盛り上がりました。この会はもう30年も続く「日本の酒と食の文化を守る会」が主催するものでして、老舗の蔵元の方々がご自慢のお酒を持ってきてくれましたので、私もあまり固い事を考えずに楽しむつもりで演奏してきました。勿論旨い日本酒をたっぷり頂いてきましたよ。たまにはこういうのも良いものですね。



今秋は詩情を感じる間もなく飛び回っています。今週末は新潟のお寺 雲洞庵で演奏会。上杉景勝 直江兼続にゆかりの古刹でたっぷりと語ってきます。更に月末は、和久内明先生脚本による戯曲公演「越の良寛」。能シテ方の津村禮次郎先生との共演です。そして月空けすぐには、フラメンコの川崎さとみさんの芸歴30周年のリサイタルがあり、新宿のエルフラメンコで「Sirocco」を弾いてきます。その間にも定例の両国の楽琵会、地元での琵琶樂人倶楽部、そして江戸手妻と相変わらずめまぐるしく仕事をして参ります。
こうして考えている暇なく、演奏して回っているのが私の人生。私は今自分がここに在るという事は色々な縁に囲まれているからこそでしょう。生かされているなどというと優等生的ですが、私も年を取ったのか、そんな言葉を想い、吐くようになりました。
生前H氏が言っていたような「愛を語り、届ける」程の人間には、私は到底成れそうにないですが、少なくとも私を取り巻いている縁に対し感謝を忘れないようにしたいものです。
さて、感傷に浸っている暇はありません。ヴォルテージ上げて行ってきます。
紀州ツアー第二弾。
今回は玉津島神社での演奏の前に、久しぶりに子供の寺 童楽寺にも伺いました。
以前より高野山での演奏会の前後にここに寄って、子供達や地域の人に琵琶を聴いてもらっていたのですが、高野山公演をお休みしてからはちょっとご無沙汰していました。
この童楽寺には大変志の高いご住職が居て、色々な事情で親元では暮らせない子供たちを預かっているお寺なのです。これまでにもここでは様々な子供たちに出逢いました。以前仏画の得意な子が私に書いてくれた弁財天の絵は、今でも我が家に飾ってあります。彼はどうしているかな~~。小さな、民家を改造して作ったようなお寺なんですが、笑顔の溢れるあったかいお寺なのです。
今回はこの童楽寺を卒業した若者も駆け付けてくれて3年ぶりの再会を祝いました。元気な姿でまた会えるというのは本当に嬉しいものです。今は職業訓練校に通って仕事を探しているようです。頑張れ!!
こういう場所があるというのはとても嬉しいです。またぜひ伺いたいと思っています。
玉津島神社奉納演奏の後には、先月に続き再びのアートキューブホール。玉津島でも演奏した日本書紀の衣通姫の歌と允恭天皇の歌の二曲をやってきました。途中は質問コーナーなどもあり、演奏会というよりはレクチャーコンサートという趣で、おしゃべりしながらのコンサートでした。ちょっと調子に乗り過ぎて雑学をしゃべりすぎたかな??
コンサートが全部終わってからは、海南市の山中にある蒲公英工房で一晩泊まってきました。まあ新潟の十日町の古民家も素晴らしかったですが、ここは上行きますね。山の中ではあります
が、玄関から前面がど~~んと開けていて、茅葺屋根の別棟もあるという素晴らしい環境。大変明るく、絶景なのです。夜は星々が無数に輝いて、空が近くに感じるほど。それに野生の熟し切った柿の甘い事!!



私の撮影ですので、この素晴らしさを表現するのは難しいのですが、将来はぜひこういう所に住みたいですね。
夜は動物の鳴き声や、虫の声、木々がざわつく音などに囲まれ、周りは街灯も何もないので、全くの闇に包まれます。この闇が何ともいいんですよ。都会には絶対無いのが、このまっさらな闇なのです。
昔の人はこの闇があったからこそ、星を、月を眺め、虫の声を聴き、木々のざわめきを肌で感じて、詩情を掻き立て、感性豊かに暮していたことでしょう。闇の中に居ると五感が鋭敏になって、動植物は勿論の事、山そのものが生きている事を実感できます。その中で我々人間は生かされている。そんなことを想わずにはいられませんん。
私がやっている音楽は、自然であることが大きなテーマです。だからマイクやアンプは極力使いません。場の響きと相まって音楽が鳴ると思っていますので、演奏する場にもこだわります。お寺や、雰囲気と響きの良いホール・サロンなどを狙って演奏会をやっているのも、琵琶の音がよりよく響き、聴いている人にしっかりと音楽が届くように考えているからです。場と音楽がおだやかに共鳴し合う事が、私の音楽の大前提なのです。それには音楽を演奏する場というものも大切な要素です。場に溶け合い、陽光にも闇にも溶け合い、聴きに来ている人皆に溶け合い、それでやっと音楽は音楽となります。どうだとばかりに肩書き並べて吐き出すような音楽では、何ものとも溶け合わないのです。
先月からの紀州ツアーでは、何処で弾いても琵琶の音が響き、届きました。音響的にはホールが一番でしたが、その他の所も、場に居る人々と共鳴し、琵琶の音はしっかりと鳴り響きました。
音楽を届けるというのは、いい仕事です。これからもいい仕事をしていきたいですね。
先月末と先週、続けて和歌山に行ってきました。先月は和歌山が地元の尺八奏者 田中黎山君のリサイタル。田中君と若手の筝奏者 中島裕康君と私と合わせて三人で演奏してきました。
演奏会は、和歌浦という万葉集にも出て来る、古い歴史を持つ場所にあるアートキューブホールでの演奏でした。海がすぐ目の前で、東照宮、玉津島神社が隣という、奈良時代の文献にもみられる名勝の地域でしたが、場所の持つ雰囲気や力というものが、演奏会にいい感じで働いていたように思います。私も何だか、穏やか~な気分に浸ってしまいました。
演奏会では私の作品を何曲かやってもらいましたが、田中君、中島君共に熱演でした。特に田中君は地元での初の本格的な演奏会でもあり、地元の仲間の熱い応援もあって、気合の入った演奏を聞かせてくれました。筝の中島君には、曲についてのレクチャーを何度もやって、曲に描かれている内容を事細かく説明したのですが、彼なりにしっかりと考え、新鮮な感じで演奏してくれました。響きの良いホールであった事もあり、演奏は全体に流れといいクォリティーといい大変良かったと思います。またお客様の反応も素晴らしく、演奏していて、ひしひしと伝わってきました。
邦楽というと、老成した魅力ばかりに比重が置かれてしまいがちですが、若さが持つ新鮮な感性も素晴らしいのです。私の作品も、彼らの手にかかると実に新鮮に響きだし、発想がどんどんと飛び出してきます。この自由で品性の高い感覚は、限られたレベルの高い若者しか持ちえないものですね。邦楽は、若さを大事にする環境をおざなりにしてしまったから、勢いを失ったのかもしれません。若い才能を生かし、そして導く。邦楽の未来は、ポップスでエンタテイメントをやる事よりも、こういう若者への眼差しを持つ事の方が先決ではないでしょうか。田中君、中島君にはこれからに大いに期待したいですね。
実はこの公演の実現するずっと前に、先日亡くなったH氏を田中君を引き合わせたことがありました。その際H氏は「地元の和歌山を大事にした方が良い」と田中君にアドヴァイスをし、その一言がずっと田中君の心に響いていて、その一言がきっかけで、今回のリサイタルを企画・実現したとのこと。縁というものは素晴らしいですね。こうして縁がつながって行き、想いもまたつながって行くのですね。
そして先週は、ホール隣の玉津島神社での奉納演奏をやりました。実は日本書紀の中の和歌を研究している佐藤溯芳さんと数か月前よりやり取りをしていまして、その研究成果を私の唄でやって欲しいということで、今回の演奏が実現しました。
当時、和歌を声に出すという事がいかに大事な事であったのか。それこそが音魂・言霊という事だったのではないだろうか、という部分に想いを巡らせながら取り組んでみました。
奉納演奏の風景
玉津島神社は、藤原定家をはじめ、和歌の上達を願う人が平安時代より祈願に訪れる神社として大変有名な所です。ここは衣通姫を祭ってある所でもありますので、今回は衣通姫の和歌を唄ってきました。衣通姫は、衣を通してその美しさが透けて見えるとまで言われた方で、允恭天皇との和歌のやり取りが有名です。
曲の感じとしては朗詠や催馬楽なのですが、現在では使われていない母音をどのようにすれば良いのか、まだまだ私自身がしっかりつかんでおりません。鼻濁音をはじめ鼻にかけるような発音がカギのようです。今回の演奏は全然完成型ではないので、また機会がありましたら、チャレンジしてみたいと思います。
地方公演も色々とやっていますが、毎回思うのは、地方の自然の豊かさです。震災以降、便利な生活を見直そうという機運は全国的に高いようですが、こと都会に於いては、全く見直そうという人を見かけません。もう原発事故の事も喉元過ぎて、何も変わらず、日々に流されているような暮らしが、果たして正常なのでしょうか。私は豊かな自然に囲まれていると、都会生活の歪みが気になって仕方がないのです。
蒲公英工房からの風景
この他今回の和歌山ツアーでは、子どもの寺 童楽寺や、海南市の山の中にある蒲公英工房での集い等、まだまだいっぱい楽しい事がありました。
日本は素晴らしい国ですね。
先日のH氏急逝はかなりショックな出来事ではありましたが、やっと少しづつ普段のペースに戻りつつあります。実はここ一週間で3回も本番があったのですが、H氏に背中を押されているようで、しっかり演奏が出来ました。それに私の周りには本当に素晴らしい仲間達が沢山居て、そんな仲間たちと会ったり話をしたりすることで随分と気分が軽くなりました。人生色々なことがあるんですね。今回は仲間のありがたみを身に沁みて感じました。人間はやっぱり触れ合い、語り合ってこそ生きて行けるのですね。H氏に「今頃判ったか!」と言われているようです。
氏からは色々な事を教わりましたが、一番受け継ぐべきはやはり心ですね。物でも地位でも知識でもないです。H氏の物事を深く見つめてゆく、その眼差しは私を常に導いてくれましたが、それは今一番大きな財産として私の中に受け継がせてもらってます。
H氏がよく弾いていた琵琶
とにかくやっと気持ちが落ち着いてみると、H氏が亡くなったことで、改めて気付かせられた事、もたらされた事が沢山ありました。また、それまで会った事はあっても、あまり交流のなかったH氏のお弟子さんやお仲間と、今回色々とやり取りをさせて頂きましたが、まるでH氏が自分の代わりとして、その方々に縁をつないでくれたかのようです。その中のお一人から素敵なメッセージを頂きました。
「誰かが亡くなるということは、
その人からのギフトがやってくる、ということでもあったりします。 それは、その方が持っていた素晴らしいエッセンスが自分に統合される時です。それを生かしていくことがその方への供養になると思いませんか?」
私は確かにH氏からギフトを受け取りました。それを今後どう受け継いでゆけるか、私の器にかかっていると思いますが、何しろ私なりに、そのギフトを生かしてゆきたいと思います。
昨日は定例の琵琶樂人倶楽部でした。永田錦心の特集をしたのですが、私はやはり永田錦心から、その精神を受け継がせてもらったと思っています。永田錦心は弾かれたレールの上には乗らなかったし、技で勝負しようとしたいわゆる「名人」とは全く次元が違う所で活動しました。あくまで独自のセンスで時代を切り開き、自分でレールを引き、その類まれなセンスで時代をリードしました。だから肩書きや権威を誇示し、組織や体制の中で虚勢を張っている音楽家を、永田錦心は徹底的に嫌いました。余計な衣は要らない。純粋に何処までも音楽で表現するもの、という永田錦心の潔癖な芸術的精神を、私はこれからも大事にしたいと思います。永田錦心の志と活動は永遠に語り継がれる事と思いますが、それこそが永田錦心からのギフトだと私は思っています。
H氏も「技はもういい、上手なのは判ってるよ。そんなことをひけらかしても意味はない」とよく言っていました。そして、ちょっと気恥ずかしい言葉ではありますが、逢う度に「愛を語り、届ける人であってほしい」と常に何度も何度も私に向かって言っていたのを想い出します。
私はH氏から確かにギフトを受け取りました。それを今後の人生で生かしてゆくことが使命だと思います。しかしそのギフトを次の世代に受け渡してゆくことも、また大きな使命として私に与えられたのだと思うのです。
私の良きアドヴァイザーだったH氏が亡くなりました。ちょっと突然でしたので、心の整理がつかぬまま、先週末お通夜に行ってきました。
この琵琶は、氏が我家に来ると必ずお気に入りで弾いていた琵琶です。私が普段弾いているものよりちょっと小ぶりで、小柄な氏にはちょうど良かったようです。これからは私が弾いてあげようと思っています。H氏は私の樂琵琶のCDを最初に、熱狂的に支持してくれた人でした。演奏会にも何度となく駆けつけてくれて、時に厳しい意見も頂いたりしました。最後に聴いてくれたのは、先月9.11のイベントの演奏だったと思います。
樂琵琶をもっと弾くように勧めてくれたのは、正にH氏であり、琵琶で何を伝えるべきなのかを考えさせられ、そして行くべき道を示してくれた人でもあります。今の私のスタイルはH氏とのご縁があればこそだと思えてならないのです。
プライベートなことはほとんど話をしなかったので、氏がどんな状況にあったのか、私には全く見当がつかないまま、あまりにも急に、今生に私だけが残されてしまいました。
H氏といつも話していたのは、精神世界の話でした。私の知らない事をよく知っていて、チベット仏教、密教などに詳しく、上座部仏教の事を教えてくれたのもH氏でした。知識は勿論ですが、何よりも自分を見つめるという事の大切さを、とくとくと教えてもらったことが今私の財産になっています。
私は世間的に見れば、のんびり生きているような部類の人間かもしれませんが、それでも日々葛藤があり、失敗があり、迷い悩み…程度はどうあれ色々と世間の人並みに俗世の荒波の中に居ます。氏と出会うまでは、そういった日々沸き起こる感情・事象に振り回されてしまう事が多かったのですが、何年かお付き合いを頂いてからは、
潜在意識の存在や、身の回りに起こる事の本質的な意味、日々の感情がどこから来て、どんな意味を持っているのか、そういう心の深層の部分を見つめる事を教えてもらいました。心の中を一つ一つ解きほぐしていくような会話に癒されましたね。私にとってはある意味導師のような方でした。氏とお付き合い頂いたここ数年は、私にとって精神面で大きな変化があり、与えられるべくして与えられたな時期でもあったと思っています。その時期に出逢い、縁を頂き、導かれたというのは、正に運命なのでしょうね。
自分らしく、自分なりに生きる。それは誰にも約束されている事です。しかしなかなかその道を見出すのは難しい。それには自分の人生を大きな視野で深く見つめて、行くべき道を、行くべき姿を自らの手でつかんで行かなくてはいけない。生きるとはそういう事なのだと、今、自分に語りかけられているようでなりません。
もう私のような年になれば、死に向かって生きていると言っても過言ではないでしょう。亡くなる時期というのも、その人に与えられた一つの運命なのかもしれません。氏にとっては今がその時期だったのでしょう。
氏の人生を私が判る筈もないですが、きっと自分の使命を全うし、運命を受け入れ、行くべき時に旅立って行ったのだと思っています。私はまだ今生で生きる縁があり、使命があるようです。それを果たすまではもう少し、自分の行くべき道を歩まねばなりません。
お通夜の日は朝から一日中霧雨のような雨が降り、止む気配はなく、そのまま氏を悼むように静かに、とても静かに音も無く真夜中迄降り続いていました。
「止まぬ雨はない」とはよく言われることですが、正直な所、悲しみは時間が癒しても、心の中に突然空いてしまったこの空虚な感覚は、未だ埋める事が出来ません。私の中では、まだしばらくは静かな雨が降り続く事でしょう。しかし私も私の人生をしっかりと歩んで行かなくてはいけません。氏の、からりと晴れた空のようなさわやかな眼差しと、共に語り合った想い出は、ずっとこれからの私の今生の人生を照らしてくれることと思います。短い間でしたが、本当に充実した時間を頂き、ただただ感謝の気持ちが募るばかりです。
来世ではどこかでまた出会う事もあるでしょう。やすらかに・・・・・。