先日の第194回琵琶樂人倶楽部は大変盛り上がって終える事が出来ました。
皆独自に演奏活動を始めている方ばかり4人に演奏してもらいましたが、それぞれに個性があり頼もしい限りでした。これからもじっくりと取り組んで琵琶樂をもっと広い世界に届けて行ってくれることを期待しています。

コロナ禍を経て、本当に世の中が変わってきたことを常々実感していますが、コロナの間、どういう訳か琵琶を習いたいという人が若手を中心に集まって来ました。私は教室の看板を上げている訳ではないので生徒募集もしていなかったのですが、縁というものは不思議なものですね。
私は流派の曲を教える訳ではないし、生徒はオリジナルを作って持って来る人も居るので、他の教室とは随分稽古の中身が違うと思います。私が教えられるのは、撥さばきや左手の効果的な動き等の演奏技術、そのほか重心骨格などの体の使い方、呼吸、古典の知識位です。結局これらは生徒本人が自分で体得して行くのもですので、私は後押しする程度の事。あとはこれ迄経験してきた事ですね。現場でないと知り得ない対処の方法など色々ありますし、琵琶はギターのように安定した楽器ではないので、普段のメンテナンスをしっかりやってあげないと、本番で思わぬ事態になってしまう事が多々あります。特にサワリの調整や柱の位置や高さの調整、絃、糸巻の調整等は教わらないと判りませんし、自分でそれらの調整が出来ない限り、いつまで経っても自分の音色は出せません。だからメンテナンスの方法もレベルに合わせて教えます。音楽的な部分に於いては、色んな話をしながら、生徒が何を目指しているか、そんな部分を引き出すようにして、皆自分なりに色々と考え勉強してもらってます。私は少しだけ後押ししているだけです。

旧い邦楽の稽古では、コブシ回し一つに至るまで先生と同じ色に染めるというやり方でしたが、私はそういう稽古の在り方には最初から大反対でしたし、村社会の中での優等生=ティーチャーズペットを作り出しても音楽家は育たないと確信しているので、旧来の稽古のやり方とは自ずと変わってきます。
習った通りにしか出来ず、別の表現を考えたこともないという様では既に音楽家・芸術家ではありません。それはただの技芸であり、もう音楽ではないと私は思っています。そういうお稽古事や旦那芸はいい加減に脱しないともう琵琶樂は消滅してしまうかもしれないと思うのは私だけではないでしょう。
わび茶の創始者である村田珠光は「和漢の境をまぎらかす」と言いましたが、大陸から伝わったそのままではなく、そこに工夫を加え、新たなものとして創造した所に大きな意味があり、それこそが日本独自の文化だと私は思っています。
太古の鉄器、漢字、仏教、儒教等の伝来もそうだったろうし、明治以降の西洋文化も皆大きな影響を日本に与えたと思いますが、それをそのままではなく、ひらがなや音読み訓読みを創り出し、自分たちで消化・昇華して独自のものにしていったからこそ、日本文化はどこにもない独自のスタイルとセンスを現在持っているのではないでしょうか。もっと言えば人類に文字が誕生した時も紙が発明された時も、皆シンギュラリティーです。そこをどう超えて行ったかで、その国の特有の文化が形成されて行ったのです。
習ったことをそのままでやっていたのでは、そこに文化はありません。かのゲーテは「ひとつの外国語を知らざる者は、母国語を知らず」と言いましたが、文化とは自分以外の者との出会いによって自分の中に在る文化を深く確認し、その影響があってこそ深まって行くのです。村の中に留まっていては文化は生まれない。
他のジャンルや現代のセンスも加えながら「創る」という事を出来る人を育て、その為の技を教え、導き、生徒の創造性を刺激し応援するのが、教える側の務めではないでしょうか。けっして技芸を仕込むのがその務めではない。生死のかかっている武道だったら、習った事しか出来ない武芸者は簡単にやられてしまうでしょう。

川崎アートフェスにて ダンス:牧瀬茜 Asax:SOON・KIM 映像ヒグマ春夫
世の中は驚くべき速さで変化して行きます。新たなセンスと形を持った琵琶樂が出てきて当然だし、そうでなければ琵琶樂は過去の遺物、骨董品となって歴史を終えてしまいます。次世代が次世代の感性で、次世代の琵琶樂を創って行く。それを応援するのが旧世代の役割。我々が先生と呼んでいる永田錦心、、水藤錦穰、鶴田錦史など皆、最先端を創り、次世代にもそれを期待したのではないでしょうか。残念ながらその志を現在受け継いでいる人を私は知りません。
私も微力ながら常に最先端のものを創ってきました。それは大して評価もされないかもしれないかもしれませんが、それでもこれからもどんどん創ります。技も自分でどんどん開発して行く事が出来なければ音楽は創れません。それはクラシックでもジャズでも、その歴史は最先端を走る者による技術革新でもあるのです。カザルス、パガニーニは勿論の事、ピア
ソラ、パコ・デ・ルシア、ジミヘン、ヴァンヘイレンなど、音楽を創る人は技も同時に創り出してきました。当然その音楽は今迄にない独自の形を持って現れ、次の時代へと導いてくれたのです。
旧来と同じものを同じようにやるのが伝承だなどと刷り込み、それが出来る優等生だけを面倒見て賞や流派の名前を与えたりしておだてているようでは衰退するのは当たり前。そんなものを看板にしていること自体がもう創造の正反対に位置しているという事です。それは企業でも老舗のお店でも同じ事ではないでしょうか。忠君愛国の曲を上手にコブシ回して歌えるようにするのが稽古だと思っているようだとしたら、もう琵琶樂は終わったと言われてもしょうがないでしょう。先月御一緒させてもらった尾上墨雪先生は「創作と古典は伝統の両輪、創造の無い伝統はない」と言っていますが、琵琶樂はどうでしょうか。
村の中に閉じこもらず、世の中で個として自立して生きていたら、この激動の世の中の様子は日々感じる事でしょう。その日々の生活の中でセンスは目まぐるしい程に変化し、それに伴って技術も変化する。出て来る音楽も変化する。だからそこに生命が宿るのです。この風土に育てられたものを「根理」としてしっかり土台に持ち、そこからどんどん最先端の琵琶樂を創って世界に飛び出して行って欲しいですね。
超えて行く人がどんどん出て来る事を期待しています。








世阿弥は父観阿弥の最後の駿河浅間神社(よく子供の頃行ってました)での演能の姿を「まことに得たりし花」としています。芸の物数を尽くすという方面は若手にゆずり、「安きところを少々(すくなすくな)と色へてせしかども、花は弥増しに見えにしなり、これ、誠に得たりし花なるが故に、能は枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり」と書いていますね。また脇の為手に花を持たせて」とも書いていて、自分の演技を少々(すくなすくな)と抑制し、助演者の芸の花を持たせることが、場を華やかに彩どるとも言っています。そうしながら、一身に場をまとめ上げてしまう。老木でありながら技巧も狙わず、物数を見せる芸(よそ目の花)が無くなった後にこそ、「まことの花」を持っているかどうかが見えてくる。そんな父観阿弥の姿を理想としたのだと思います。



先日の伊藤さんも全く硬さを感じませんでした。私は朗読や語りをする人とは随分仕事をしてきましたが、まだまだ力を入れる事で表現している、頑張っているという意識になる人が多いですね。力を入れて身体を硬くさせると、出てくるものはかえって単純で薄っぺらいものになってしまいます。大声出して何かやっている気分になるというのは、あまりに素人っぽいという事に気づいていないという事です。特に少し経験や技術がある人、またはあると思い込んでいる人は、その硬さがなかなか取れないように思います。初心の人はこだわりもプライドも無いので、アドバイスをするとすぐ取れるのですが、妙に自信があり、私はプロだなどとプライドを持っている人はなかなか取れませんね。
伊藤さんは黒澤映画や伊丹十三監督の作品などに出演し、舞台では蜷川幸雄、井上ひさしのこまつ座、前進座、他TVドラマなどで活躍してきたベテラン俳優で、自身も琵琶を弾き、一人語りで「耳なし芳一」を随分とやっていますので、ご存じの方も多いかと思います。私は伊藤さんとはもう長いお付き合いで、本当に色々と勉強させてもらいました。「この部分は誰が喋っている?。主人公を知っている人か、それとも後世の主人公を慕う人か」「カメラの位置はどこにある」「ここは近くからのアップなのか、引いて撮っているのか」、「人物のキャラ設定は」等々場面を映像的に捉える手法をしっかりと教えてもらいました。私はあまり弾き語りはやりませんが、私の弾き語りスタイルは完全に伊藤メソッドです。「敦盛~月下の笛」なんかは、伊藤さんのアドバイスがあってこそオリジナル作品として成立したと思っています。


私は宮本武蔵に結構興味があって、このブログでも色々と書いていますが、ご存じのように武蔵は孤高
