リバイバル上映にて映画 レ・ミゼラブルを観てきました。
主人公ジャンバルジャンにヒュー・ジャックマン、ジャンバルジャンを追い詰める警部ジャベールにラッセル・クロウ、ジャンバルジャンが引き取り育てた娘コゼットの母親フォンティーヌにアン・ハサウェイetc.皆いい役者ですね。脇役の方々も一人一人が役にぴったりでした。原作が大変良
く出来ているので、色々なテーマが物語りの中に現れて、それらが重なり合って、様々な場面で様々な想いにかられ、幾重にも涙が頬を伝いました。正にカタルシスです。
このキャストは全てオーディションで決めたそうで、上記の有名スターも脇役も全てオーディションをして、落選したスターも色々と居たらしいです。
中でもアン・ハサウェイは、自分の母親がかつて、このレ・ミゼラブルの全米公演に出演していたこともあり、並々ならぬ意欲で取り
組んだと伝えられていますが、劇中で自分の髪をバッサリと切りおとし、迫真の演技を見せてくれました。娘コゼットを想いながら、孤独の淵に天に召されてゆ
く場面は想い出すだけでもうるうるしてしまいます。
どの場面もとても印象深く、とてもすべてを文字で語る事は出来ないのですが、革命戦士マリウスを密か慕い、マリウスの腕の中でエポニーヌが「雨はいつも花を育てるわ」と歌い、身代わりとなって息絶えて行く姿に涙を止めることが出来ず、
革命を熱く語り、権力の前に散って行く若者達の姿にも、青春時代の記憶が重なり、若き魂の美しさと儚さが満ち、心が震えっぱなしでした。
また自分の行いが正しく、神の意に沿うものと信じてジャンバルジャンを執拗なまでに追っていたジャヴェール警部が、最後に自らの生き方を迷い、信じるものを失って、河に身を投げてしまう場面には、一言で表せない深い想いが沸き起こりました。
色々な場面が本当に沢山有り、とても書き切れませんが、人間社会の善とは、悪とは、法とは、愛とは、真実とは、生きるとは・・・・・。ギリシャ神話のアンティゴネーの話にも通じるものがあると思いました。でもまだまだ想いが溢れてきて、とても自分で制御する事は出来ません。
そして何よりも、自分の運命に翻弄されているのではなく、自らの運命を見据え、迷い戸惑いながらも自分の想う真実にしたがって生き抜こうとするジャンバルジャンの姿からは、大きな共感と勇気をもらいました。
最後に、美しく成長したコゼットの結婚を見届け、誰にも告げず修道院に身を寄せていたジャンバルジャンが、コゼットの母フォンティーヌの霊に導かれ召されてゆくラストシーンでは、涙で画面もかすむほどでしたが、人間の素晴らしさを胸いっぱいに感じられ、さわやかで、本当に美しいものを観た想いがし
ました。
物に、情報に振り回され、欲望に視野のほとんどが支配され、自分の姿をすら見失っているかのような現代人にとって、この作品は是非必要なものだろうと思いました。
社会の中で生きるしかない人間は、実際にはなかなか相容れることが出来ず、解り合えず苦しい時の方が多いかもしれません。それでも人間は本来美しい心を持ち、且つ愛し合える存在のはず。「愛を語り、届ける」事は人間の使命であり、深き想いは受け継がれてゆく・・・。映画を観て、そう思わずにはいられませんでした。
現代は世界中が混迷の中に有り、私自身も未だ業火の中を彷徨っていますが、もう一度自らの原点を振り返り、これからの生き方を考えてみようと思いました。
素晴らしい作品に出逢えて幸せでした。
冬の気配がなくなり、まだ肌寒いながらも春の陽気を感じるようになりましたね。春には春の音色を感じます。雅楽で言えば春は双調という調子になるのですが、さわやかで明るい春の調べは、こころをほっこりとさせてくれますね。花が開く様を見ていると、そこから音楽が聞こえてきそうで嬉しくなります。

私は琵琶を弾きだした最初から、チェロ・フルート・尺八・横笛など、色々なジャンルや楽器の人と器楽としてのアンサンブルをやっていたせいか、声よりも琵琶の音色やタッチという事が大変に気になります。ギターの影響もあると思いますが、音色に無頓着な演奏だけは聴いていられないのです。そんなものが世にあまりにも多いと思うのは私だけではないと思います。あくまで私の考えでしかありませんが、音色よりも目の前の「上手」を追いかけしまうという事は、音楽に対して想いがまだ薄いのだと思います。また音楽を突き詰めて行けば、音色に至るとも私は考えています。
往年のジャズギタリスト達を聴くと、皆タッチが強く、
ほとんどの音をフォルテで弾いてます。私はどうしてもこれが好きになれなかった。音はブチブチとつぶれ、伸びも無くなり、フレージングだけが達者で、表情が薄くペカペカとしたつぶれた汚い品の無い音が我慢ならないのです。勿論飛び抜けて優れたギタリスト、例えばジェフベック、ジョージベンソン、ラルフタウナー等々・・これらの人達は皆タッチのコントロールが随所に効いて、その音色は実にすばらしく魅力的なものがありますね。特にジェフ・ベックはそのコントロールの巧みさでは群を抜いると思います。実に表情豊かな音楽をいつも感じます。しかしながら目の前のテクニックに走り、フレーズを上手に弾こうとして、音色がないがしろになっているようなプレイヤーが未だに多いのが残念ですね。
ラルフタウナー「Solo Concert」
時々書いているクラシックギタリストのデビッドラッセルなどは、もう音色の魔術師のようで、心底惚れ込んでしまうのですが、ジャズ系でしたら、ぜひラルフタウナーの80年録音の「Solo Concert」のライブ録音を聴いていただきたいものです。ただ音色が良いだけではないのです。どんな音を、どんな表現の為に出したいのか、という音楽全体のヴィジョンがかなり明確なのです。クラシックギタリストからすれば、荒っぽい所もありますが、音楽が実に明確なのです。あの音楽はあのタッチでなければ実現しないでしょう。音楽を生み出す美的感性というものがしっかりと土台に有って、自分が思い描く音楽の姿を表現する為に最適なタッチ、音色を実現しているということです。作曲という事も含めて、彼の音楽そのものがとても大きく豊かに響き渡っていて、彼の紡ぎだす音色の全ては、神秘性さえも感じる魅力ある音楽として結実しています。
ギターでもヴァイオリンでも皆さんタッチに関しては、セゴビアの例を出すまでもなく、たった一音の音色の為に何日でも何年でもかけて追及を惜しまない。私はこれが音楽家の真の姿だと思います。
琵琶では残念ながらタッチの良い方は本当に少ないのです・・・。本当に残念。タッチのコントロールというのは音楽家にとって命だと思います。どんなセンスを持っているかというのはタッチを聴けば一瞬で判ってしまう。先日聴いたベテランの方も強い力で全てを弾いていて、その表現は強いか弱いの二種類程度しかなく、音が全部つぶれていました。クラシックがお好きな方だと聞いていたので、あのタッチと音色にはがっかりでした。技術が無いのか、感性が無いのか、ただの無神経なのか???。
どんなジャンルでも、素晴らしい音色が溢れている現代に於いては、つぶれた音でベンベン力任せに弾いているようでは誰も評価してはくれません。琵琶などはただ珍しいだけです。「民族音楽はこんなもの、琵琶というのはこういうものだ」と言われていて良いのでしょうか?。私にはそこに洗練も美しさも全く感じる事は出来ない。私はそれでは納得がいきませんし、もし琵琶がそんな程度のものだったら、とても人生はかけられないのです。
また琵琶では、音色を作るのには柱の調整も大変重要な要素です。弦と柱の間が「弦の振幅」より狭いと、弦がすぐ下の柱に当たってしまいますので、そこで音がつぶれて、ベコベコ、ベンベンしたあの表情も品格も無い音がしてしまいます。音をしっかり響かせたいのであれば、振幅の幅を小さくするように弾くか、もしくは弦が柱に当たらないように、弦と柱の間を広く取る選択をしないと、まともな音は出て来ません。つまりどう調整するかも感性なのです。
語り物の伴奏楽器として発展してきたこともあるかと思いますが、語りさえ良い感じならば、後はベンベン合いの手を取っていればよい、というのでは魅力ある音として聴いてもらえないのは当たり前です。現代には他に素敵なものがいっぱいあるのです。琵琶は元々魅力ある音を持っているの楽器ですから、それを充分に、存分に響かせることをしないのは実にもったいない。琵琶弾きとしての使命を全うしていないと言えませんか?
このままではその魅力ある古の音色も消えてなくなってしまいます。琵琶楽が魅力あるものとして受け入れられてゆくには、歌も結構ですが、音色の追及がぜひとも必要なのではないでしょうか。
音色というものはすべての音楽の根幹というだけでなく、感性の根幹でもあります。文化といっても良いでしょう。感性というものがそこに集約されているです。だから人工の音でも自然の音でも、人々は先ず音色に惹かれ、そこから洗練を経て音楽となって行くのです。つまり音色という根本を忘れては良い音楽は生まれようがないのです。それは土着的な民族音楽にも言えることで、ただしわがれた声が渋いだとか、荒削りな音がエキゾチックとかいうのは、あくまで現代の文明社会に生きる我々が勝手に思っているだけで、どの国に行っても、真摯な気持ちで聴いてみれば、長い間愛されている音色には素晴らしい美しさをきっと感じることが出来るでしょう。美の形や色は違えども、美の核となるものは何れも同じだと思います。そうでなければ、異文化の美は受け入れられません。
邦楽でも、三味線や筝の方々は皆さん大変に音色に気を遣い、一緒に演奏してていても、どの弾き方が曲にふさわしいか常に質問をしてきます。表現するという事に大変熱心で、音色には特に気を遣ってくれます。私の作品を弾く時には、出来る限りの沢山のディスカッションをしながらあらゆるタッチを試して、そこに何が宿り、何を表現すべきか話し合い、考え、一緒になって音楽を創り上げ演奏してくれます。琵琶人も是非頑張って欲しいものです。
薩摩琵琶は江戸時代(中期~末期が発祥と言われています)からありますが、筑前琵琶と共に一般に知れてからはまだ100年程。特に私が錦琵琶で元にしているスタイルは、鶴田錦史が形を作ってからまだ50年も経っていません。歴史はこれから始まって行くのです。その為にも魅力ある音色を出して行くべきだと思います。日本の琵琶楽は奈良平安の樂琵琶の時代から、千数百年という時間を経て豊かな文化を奏でているのです。目の前の「上手」に執心せず、是非この豊饒で魅力的な文化としての琵琶の音色を次世代に伝えて行きたいものです。
今年もルーテルむさしの教会にて行われた、和久内明先生主催による、3.11哀悼・追悼・支援集会にて演奏してきました。今回も大柴牧師による話を聞いたのですが、どんなことがあっても暖かく迎え入れてくれるコミュニティーというものの大切さについて素晴らしいお話を頂きました。単なる団体や村ではなく、想いを共有し、支え合う仲間が居る事はどれだけ素晴らしいか、改めて心を馳せることが出来、充実したひと時となりました。
また今年も心新たにこの日を迎えました。この春が穏やかな季節となってくれることを願うばかりです。そして春には梅や
桜が咲き、華やかな季節になると共に、毎年春の音色というものを感じずにはいられません。鳥の声も街の賑わいもそうですが、明るい日差しを感じるような音
が聞こえて来るようです。この音色が毎年響いて欲しいものです。
今回もクリスタルデュオブレイズのお二人、声楽の折田真樹先生率いるオーソドックス合唱団、尺八と筝の吉岡龍之介・景子夫妻、ギターの山口亮志君他も加わって、素敵な仲間達が集まってくれました。特にクリスタルボウルの音色はいつになく静かに教会内に響き渡っていましたね。お二人のけれん味の無いピュアな精神から紡ぎだされる音色は、会場の皆さんの心にしっかりと満ちたと思います。私にも沁み渡りました。
クリスタルデュオブレイズ http://www.happy-blaze.com/profile.html
私は昨年が樂琵琶でしたので、今年は薩摩琵琶で「風の宴」を演奏しました。和久内先生の「祈りの波」という詩と合わせ、先人の想いが現代に受け継がれ、そして次代へとまた受け継がれて行く、そんな様と想いを表現した独奏曲です。和久内先生の詩は、いつもリアルであり、且つ過去を見つめ、未来へと視線が投げかけられています。今回は特にリハーサルも無くやってみたのですが、あまりにぴったりと来たので、お互いにびっくりしてしまいました。
3年が経ち、世の中ではもうこの震災を忘れかけているような日々も見受けられます。しかしこれを忘れたら、日本はもう再生はおろか、心が荒んで行ってしまうような気がしてなりません。祈りを忘れ、先人の轍を見失い、痛みを感じなくなった時、人は人であり続けることが出来るでしょうか。地震の被害はもちろんの事、原発事故、今後の日本の舵取り等々、多くの事がこの3.11には含まれます。日本にとって、世界にとって大きな意味のある日だったのではないでしょうか。この日を忘れてはいけないのです。
音楽には祈りがあります。悲しいものだけでなく、楽しい曲にも。祈りというと重い感じですが、想いという風に言い方を変えれば解っていただけるでしょうか。例えば、自然界の音、お寺の鐘の音にさえ、人間は想いを持って聴くことが出来ます。その想いは時に激しい怒りの発散だったりするし、けっして膝まづいて祈っているようなものだけではないと思いますが、格好良さだけでは音楽は成り立ちません。音楽から祈りや想いが無くなった時、そうはもう、今まで私たちが言う所の音楽ではなくなるのでしょう。そういうものが出現するのも又時代の流れなのかもしれませんが、私はやはり、祈りも想いも満ち溢れた音楽をやって行きたいのです。
今年も梅や桜が咲き、華やかな春の音色が世に満ちますように。
先月フラメンコギターのパコ・デ・ルシア氏が亡くなった事は大きな衝撃でした。少し自分の中で色々想い出したり、整理してからブログに書こうと思って、今になってしまいました。
パコ・デ・ルシアには「偉大」という言葉すら物足りない、正に不世出のギタリストでした。66歳ではあまりにも早過ぎると思ったのは私だけではないと思います。思えば高校生の頃、「Mediterranean sun Dance~地中海の舞踏」という曲を聴いた事は、確実に私の中の何かを変えました。私にとっての一大事件でした。今はただただ同じ時代を生きることが出来たことに心から感謝するのみです。
フラメンコという音楽を世界に紹介し、アンダルシアの民俗音楽を世界に向けた芸術音楽にまで持って行った彼の活動は、単にフラメンコの世界という事でなく、音楽界全てにおいてあまりにも大きな仕事だったと思います。またアコースティックによる演奏の素晴らしさを、世界中のギタリストに再認識させてくれたのも彼の大きな大きな功績でしょう。彼に触発されて、アル・ディメオラやジョン・マクラフリン、ラリーコリエルその他多くのギターレジェンド達がこぞってアコースティックギターに開眼し、その演奏が世界中に瞬く間に広がって、ギターの世界を大きく塗り替えたことは、ギターファンには一大革命として永遠に記憶されたことでしょう。パコの世界デビュー自体が、音楽業界だけでなく楽器業界をも巻き込んだ衝撃的な事件でした。
私は若かりし頃ジャズをやりながら、何か物足りないものを感じていました。パターンをなぞり、その中に埋没する形骸化したジャズではなく、もっと自分の中から湧き上がる音楽をやりたいという想いが募り、自分のやるべき音楽の姿を求めて日々右往左往していたのです。その時に高校生の頃聞いたあのパコ・デ・ルシアの演奏がまた蘇り、フラメンコの師に出逢い自分で演奏してみて、ギターの原点に立ち返った想いがしました。そして大好きなフラメンコギターがいかに自分には合わないか、自分がやるべきものでないかもよく判りました。つまり自分と真逆の性質を持ったフラメンコを通して自分の姿が見えてきたのです。憧れだけで追いかけていても何も成就しない。本当に自分自身になりきって自分がやるべき道を歩まねば、何時まで経っても低レベルの物まねでしかないという事がよく判ったのです。その認識から私は本格的な作曲を始め、琵琶へと独自の道を歩み始めました。あの頃パコ・デ・ルシアに出逢わなかったら、今琵琶も弾いていなかったでしょう。きっと私のような人が世界中にいっぱい居たのではないでしょうか。
パコ・デ・ルシアの存在は、私に色々な事を考えさせてくれました。どんな分野に於いても同じだと思いますが、新たな地平を目指すには、自分を乗り越え、あらゆる枠組みから脱し、
異文化へ飛び込んで行く勇気と技量と知識と感性が必要なのです。ハートやソウルだけでは届かない。凡人は自分が築いた小さな城を守ろうとし、自分の得た少しばかりの知識と経験を土台にして、自分の小さな小さな器と感性で、全ての物事を図ろうとしてしま
う。そんな自分の小ささも、彼の音楽から学ばされました。
宮城道雄、アストル・ピアソラ、そしてパコ・デ・ルシア、こういう天才達が次の時代をみせてくれたからこそ現代があるのです。それまでの慣習・因習を超えて、新たなものを作り出す天才たちは皆、ずば抜けた技術を持っていますが、技術だけでは、新たな世界は切り開けない、感性だけでも具体化することは出来ない。両方共に持ち合
わせている事が天才の絶対条件です。
新たな地平を目指すのは芸術家の宿命。自分と違うものと手を取り合い、貧欲なまでに物事を追い求め、その領域に自らの手と足で入って行かなければ、新たな世界は現れません。それが実現できるのが天才です。天才はいつの時代も必ず越境して行く存在なのです。新たな世界を世に現すのは、選ばれし者だけに与えられた仕事です。
パコ・デ・ルシアは垣根も時代も乗り越えた。そして全世界の人に向けて、その音楽を知らしめた。後に残された我々は彼の残した何を受け継ぐべきなのか・・・・?。
けっして上手云々という事ではないと思います。技術レベルは新しい世代がどんどん乗り越えて行くでしょう。感性は時代と共に刻一刻と変わって行きます。じゃあ何を受け継ぐのか。やはり志ではないでしょうか。私はそう思っています。それは宮城道雄、永田錦心の後に続く邦楽人も同じ事。新時代を切り開き、新たな世界を見せてくれた先人の後をなぞり、憧れ寄りかかっているだけでは、残された者としてあまりに申し訳ない、情けない!。天才のように大きな事は出来なくとも、その志を受け取り、音楽に取り組んで行くことは出来るはず。そう思って精進したいですね。
昨年末ジム・ホール氏が亡くなり、邦楽の世界でも最近、山本邦山さん、村岡実さんなど越境を実現した先輩達が次々に亡くなっています。世の中は止まることが無い、正にパンタレイなのです。この変わり行く今、我々はどんなヴィジョンを持って生きて行くべきなのか?それぞれの器を問われているのだと感じてならないのです。
春の気配になってきましたね。しかしながら私はどうも毎年春は体調がすぐれず、本当はのんびりと梅を愛でてぶらぶらしたいのですが、今年は既に花粉も飛び交かっていますし、この所色々なコンサートや舞台を頻繁に観に行って出歩いていたせいか、少々お疲れ気味なので、少し心と体を癒すために、何時も琵琶樂人倶楽部でお世話になっている名曲喫茶ヴィオロンに行って、たっぷりいい音を聴いてきました。すぐ近所にこういう所があるというのは良いですね。
ヴィオロンのスピーカーやアンプは全てマスターの手作り。レコードプレイヤーは知る人ぞ知るガラード。普段はLPレコードのみですが、毎月のSPコンサートではあの伝説の名器クレデンザを聞かせてくれます。ヴィオロンのシステムは、マスターが厳選する音楽に本当に良くマッチしているので、楽友協会を模したというアンティークな店内の空間に身を任せていると、ふわふわっととその豊饒な音に包まれまれていきます。古い盤が多いので、盤によっては音が歪んでしまったりするものもあるのですが、その音はあくまで自然体。けっして押し付けるような迫力サウンドではなく、とても甘く、時に目の前で演奏しているよう。今回もお勧めのレコードを色々と聞かせてくれたのですが、最後に聞いたクーレンカンプという往年の名ヴァイオリニストの盤が素晴らしかったです。曲はモーツァルトのPとViのソナタだったでしょうか、フルトベングラーがこよなく愛したと言われるその音色は、現代のヴィオリニストとは違う質を持ったものでした。
クーレンカンプ
どの分野でもビッグトーン、ハイテクニック&ダイナミックというのが現代の演奏家の共通したスタイルですが、それは大きなホールなどでの演奏が主体になってきたからでしょう。Aの音も443位に上がっているものもあります。時代が移り変わる以上、時代の求める音が常に変わって行くのは必然ですが、50年前に比べるとかなり変化しているように思います。
またヴァイオリンに限らず洋楽器は、サロンからホールへと演奏する場所の変化に伴って改良されてきました。名器とされるストラディヴァリも19世紀にかなりの改造をされ、現在に伝えられています。勿論改造に失敗してしまった楽器もあったでしょうし、往年の名器でも改良に耐えられないものもあったことでしょう。時代が求める音の為には出来るだけのことをするのが西洋のやり方。1300年前の楽器そのまま、糸巻一つ変えずに使い続けている日本とは感性が随分違いますね。
さて、クーレンカンプさんの演奏ですが、音の響き方、響かせ方がとても端正で落ち着いた印象を受けました。大きく鳴らし、遠くに届く音が素晴らしいとしている現代の演奏と違い、艶やかな響きを何よりも大事にして、何処までも音色に拘りぬいたような美しい演奏が聞けました。情感がすぐ表に出て、音色よりも情が先行してしまう現代の演奏とは基本的に考え方が違うのだな、と思いました。
当時は本当に選ばれた人だけがレコーディング出来たのだと思いますので、演奏は選りすぐりの素晴らしいものだけが残っていると思いますが、昔の録音、特にSPなんかのものは、迫力という事ではなく、生々しく身に迫るものが多いのは確かなのです。やり直しが効かない一発録音だったせいもあるでしょう。秘めた静かな気迫のようなものを感じる演奏が多いですね。この日一緒に聞いたシゲティのバッハも凄かった。
物事の良し悪しや、良いと思う感性というのはどんどん変わります。勿論良い音という概念も変わって行きます。それでも残ってきたものが古典となって行くと思いますが、忘れ去られようとしているものの中には大きな気付きをもたらしてくれるものも少なくありません。昔良いとされていたものをもう一度見つめ直すことは、今の自分の姿を自分で知るためにも大切だと思います。自分がこれだ!と思ってやってきた事を別の角度から見る事で、何故現代がこういう感性になったのか、時代はどうの方向に動いているのか、色々な事を考えさせられます。そして今自分が追い求めているものが、実は周りに振り回されているだけの見当違いである、なんてことも気付かせてくれます。邦楽だったら単に流派のやり方に囚われていたり、古典でも何でもないものを古典だ、伝統だと思い込んでいたり・・・。
我々は時代という大きな生き物の中に暮しています。しかしなかなか自分では時代というものを捉えることは出来ない。その中で泳がされ生きるしかないのは宿命とも言えます。常識、習慣などもその一つでしょう。そういった現実・事実に気が付くか、気が付かないか、これは芸術に携わる者にとって大変重要なポイントとなると思います。そこを乗り越えた選ばれし者だけが次の時代を作って行くとも思います。
クーレンカンプさんの演奏からは、楽器本来の音が響いてくるようで、虚飾やけれんというものを感じませんでした。その音色と演奏は、私の音楽の根本を、もう一度見つめ直す良いきっかけとなりました。
素晴らしい癒しとなった一日でした。