都内の桜はもう満開を過ぎて散り始めていますね。先日も近くに花見に出かけましたが、花びらが風に舞って、桜吹雪のような場面に何度も出逢いました。
善福寺緑地
私は元々植物好きなので、狭苦しいベランダですが、ずっと前から花やハーブや野菜など色々と育てています。樹木や花があると何しろ落ち着くのですよ。山の中にすぐ行きたがるのもそういう所から来るのでしょうね。
桜の開花の少し前に、かねてから行ってみたかった牧野富太郎記念庭園に行ってきました。
牧野先生は文久2年(1862)土佐の生まれ。植物学の先生として御存じの方が多いかと思います。没後には勲章を贈られているような方ですが、大学には行っておらず、何と小学校中退だそうです。
自分で研究を重ね、日本人として最初の本格的な植物図鑑を出すなど、その功績は飛び抜けていて、命名した植物は何と2500種類以上に上るそうです。更に先生の書いた植物画が素晴らしく、私は絵の方から先生の存在を知りました。退色するのが嫌だったそうで、モノク
ロでしか書いていませんが、それが却って本物を感じさせる要因にもなっているみたいです。
右の絵は1900年発行の大日本植物誌のものですが、先生の丁寧で几帳面な性格が見えて来るようです。
大学で長い間講師として務めたそうですが、一方で自らが平凡になったと残念に思う気持ちもあったそうで、最後は自ら大学に辞表を提出し、それまで以上に植物へ情熱を注ぎ、日本全国を飛び回り、誰かが止めないと、何時間でも地面に身をかがめて観察してたという位、その情熱は亡くなる前年の93歳まで、衰えが無かったそうです。肩書きを求め追いかけ、その小さな幻想の中で右往左往してしまう人が多い中、これぞ正に真の探究者の姿ですね。
このあくなき探究心、衰えという事を知らないその姿には、肉体を超えた精神のみずみずしさが常にあったのでしょう。誰しも経験を重ねていくと、間違いのない安定した事をやろうとします。皆ギリギリの崖っぷちを歩くことをしなくなる。それはけっして悪い事ではないですが、その姿勢では新たなものは生まれない。そしてそれは洗練というものからも程遠い所にある姿勢であります。
善福寺緑地
研究でも音楽でも新しいものは、不完全さというものが付きまといます。未熟な部分もあるでしょう。しかしだからこそ次の時代へとつながる新たな技術が生まれたり、今までとは違う時代を予感させる感性が育まれたりするのです。その未熟さをあげつらったり、確証が無いものを排斥したりする風潮は、創造性に対する一番の敵というべきものです。にもかかわらず、未だにそんな硬直したアカデミズムが日本には蔓延している。昨今の事件を見聞きしていても、情けなくて仕方がないと思うのは、私だけではないと思います。日本が低迷するこの時代に於いて、まだそんなところで権威を振りかざしたり、硬直した頭で若者を押さえつけ、もの事を捉えていたら、日本は有能な人材をどんどん失い、ほどなく国力というものを失ってしまうでしょう。
新しいものは何があるか判らないからこそエネルギーが溢れて来るのです。偶然から生まれるものもあるだろうし、そもそも推論や挑戦という事が許されないのだったら、新しいしいものは生まれ出て来ない。
皆多様な感性が自由に羽ばたける、無限に広がる土壌があってこそ、音楽も学問も生まれてきたのです。本気で若者を育てたいのなら、その未熟さも危うさも丸抱えで、サポートすべきだと思います。大学や流派などの組織は年配者が肩書き頂いて安住できる場であってはならないのです。常に創造の場でなければ!!
新宿御苑
牧野先生のように自分の思う所をぶれずに突き進んで行くのはなかなか難しい。生きて行くためには稼がなくてはいけないし、崖っぷちを渡るような生活が長く続けば、安定したゆとりが恋しくなるのは当たり前です。
安定は確かに必要です。安定の中に創造性を絶やさず、溢れているという状態にするのは、大変難しいですが、そこまで行くときっと洗練というものが生まれて来ると思います。しかし残念ながら安定は人から往々にして創造性を奪ってしまう。安定と創造性を両立できた人間だけが、飛び抜けた仕事をしていくのでしょう。それを選ばれし人というのだと思います。
牧野記念館では植物への興味以上に、色々な想いが溢れてきて、人生の指針を頂いたような気分になりました。人間、本筋以外の所に欲を求めたら魂も薄らいでしまうものです。良き春の一日となりました。
都内はもう桜が八分咲きになりましたね。所によっては既に満開という所も出て来ました。我が家の近く、善福寺緑地には桜・桃・モクレン・ハナカイドウ・ハナズオウ・ユキヤナギetc.正に春の息吹が溢れかえり、花の饗宴状態です。春は就職や進学で人生が展開して行く人も多いせいか、世の中にエネルギーというものが満ちてくるような気がします。人の顔も華やいでいるように見えますね。
善福寺緑地
吉野梅郷
今年も吉野梅郷に行ってきました。毎年のように行くのですが、あの景観はいつ行っても素晴らしいです。吉野梅郷周辺は大変穏やかで品性の良い落ち着きのある所で、街全体に風情を感じます。こういう所はぜひとも大事にしたいですね。しかし残念ながら、吉野梅郷の梅はここ数年ウイルスに蝕まれてしまって、4月からすべての木が伐採されてしまうのです。つまり今年が見納め。3年後をめどに再生を図るそうですが、あれだけの景観はそう簡単には蘇らないでしょう。大変だと思いますが、また新しい時代が来ることを期待しています。
自然に溢れ、四季の花々に囲まれている日本の魅力はどんどんなくなって来ていると、毎年実感します。更に桜の花に想いを馳せ、歌にその美と儚さを詠い、詩に表わしてきた、誇るべき日本の感性というものも最近あまり感じませんね。日本の文化も音楽も、その豊かな自然からの授かりものだという事を、今の日本人は忘れているかのようです。梅や桜があったからこそ、日本独特の詩情というものが生まれ、感性が育まれ、それが深化して、わび・さびにも繋がり、他にはどこにも無い類まれなる文化が生まれたことは、まともな日本人なら誰もが判る事だと思うのですが・・・。
吉野梅郷
昨今の世の有様を見ていると、この現代日本が、花を愛でて、歌を詠み、詩を吟じ、音楽を奏でるような環境にあるとはとても思えません。邦楽が、今を生きる日本人になかなか受け入れられないのも判りますね。演じ手も売れる事ばかりを考え、見た目の派手さや目先の話題性に走り、梅や桜を見ても歌の一つも詠めないようになってしまった。残念です。これからの日本人に、この豊饒な自然と文化を再認識させることは出来ないのでしょうか。繊細な感性に裏打ちされた、この奥深い日本の感性はもう過去のものになってしまったのでしょうか・・・。

世の中の動きに合わない人間は淘汰されてゆくのが運命なのでしょう。私のように山の中でゆっり暮らしたい、などという人間はおよそ現代社会=都会には向かないのかもしれません。都会は確かに色々な出会いもあるし、旺盛な芸術家の活気に満ちた仕事に触れることも出来るし、音楽家としてのレベルも確かに上がりますが、刺激的ではあるものの、日常を流されるように生きていると思う事もしばしば。そこには自然の息吹というものが無く、詩情を育む場所もない。
そして皆が一方向に走って行く姿はやはりまともではないです。色々な考え方、様々な生き方、感じ方が共存し得ない社会はやはりどこかおかしい。
タレントやTV番組の事など知らなくても良いのです。スマホから目を離さず四六時中投稿している人が、どうして野に咲く花の美しさに目を向けることが出来るのでしょう?。それが普通で、今の当たり前ですか?そ
れで本当に良いのですか?。私は電車の中でも、食事をしていても、スマホやタブレットPCが気になってしょうがない人を見ると、精神的に異常な状態にあるとしか思えてなりません。
マスコミがちゃんと報道しないと言いながら、また他の情報をネットで探し、どんどん情報の罠にはまり、振り回されて行く様子は変だと思いませんか?。自分には知らないことが沢山ある、という事を自覚する事の方がまとものように思いますが、如何でしょう?。

吉野梅郷
梅や桜のように物言わずとも、自らに与えられた運命を真摯に、そして旺盛に生きているような現代人はどれだけいるのでしょう。
いつの世も有象無象渦巻くものですが、詩情に溢れ、美を語り、芸術に身を挺する人がもっといて欲しいですね。文化そして国家が衰退して行くとはこういう事なのでしょうか・・・。
野に咲く花に日本の姿を感じました。
「テート美術館の至宝 ラファエル前派展」に行ってきました。一昨年観たエドワード・バーンジョーンズもこの一派に当たりますがバーンジョーンズは第二世代。今回は一派を立ち上げたミレイ、ハント、ロセッティを中心とした魅力いっぱいの展示でした。
キャッチコピーがそそりますね。「それは懐古か反逆か?」私には正にぴったりです。何と言ってもこのオフィーリア(下画像)が有名ですが、今回もこの絵を目指して行ってきました。
ラファエル前派は1848年、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントを中心として結成された芸術結社。彼らは盛期ルネサンスの巨匠ラファエロの形式だけを踏襲する当時のアカデミズムに反発し、ラファエロ以前の素直で誠実な初期ルネサンス絵画を理想として、この名前になったそうです。自然をありのままに見つめその姿を写しだすべく、明るい色彩でリアリズムに徹したのが特徴です。こうしたラファエル前派の運動は周りの作家たちも巻き込み、広い影響を与えたのは想像に難くないですね。芸術が形骸化したアカデミズムに陥った時、芸術はその魂を失い、芸術で無くなります。ラファエル前派の作品にも賛同と批判が渦巻いたそうですが、彼らの純粋な感性が結局受け入れられて行ったのです。それは芸術の真実だったからではないでしょうか。
この志と魂が後の世に繋がり、その後も芸術の世界は止まること無き発展をしてゆくのは皆さんご存じの通り。私は印象派の後のフォービズムやキュビズム、ダダ、シュール辺りから美術の世界に興味を持ち、だんだん時代をさかのぼって観るようになって行きましたが、単なる作品というだけでなく、それらを生み出してきた息吹というものにとても興味があります。
人間にはあらゆる可能性が満ちています。あらゆる感性が飛翔し、様々な種が溢れているのが世の中というもの。何か一つのカテゴリーやイデオロギーで限定されればされる程、そこからの解放に向かって行く力も強くなって行くのは歴史が証明しています。彼らの活動は短い間ではありましたが、彼らの活動が芸術の世界に残したものは大変に大きかった。其々の作品も勿論レベルが高く素晴らしいですが、その志や視野を次世代の新たな感性が受け継いで行った事が素晴らしいですね。
私はアカデミズムを否定している訳ではありません。大学も流派も基本は知の宝庫だと思います。素晴らしい研究機関であるはずです。しかしそこに閉塞感があり、形骸化がはびこり権威に凝り固まると始末に負えない。本来自由な発想を育み、幅広い見識と知性が集まる場であるはずなのに、「こうでなくてはならない」「○○はこういうものだ」等と情けない事を言いだし、そこに中身やレベル関係なく所属していることがステイタスとなってしまう。結果、○○大卒だの、○○流師範だのと、そのステイタスに寄りかかろうとする輩が跋扈し、芸術の魂を見失い、形骸化と閉塞感を煽る姿は見ていられません。
残念ながら人間はすぐ権威や名誉という「形」を求めたがり、本質を見失うものです。ずっとアウトサイドで頑張ってきた人が、ある時急に○○流なんて看板を出して、リサイタルなんか開く例も時折見かけます。しかしこうしたものに対し、公然と反旗を翻すラファエル前派の若者達のような、熱き血潮は止む事無くいつの時代にも溢れ出るのです。純粋に芸術を求める心を阻止する事はどんな人にも出来ません。レジスタンスの闘士はどこの国でもいつの時代でも必ず現れ、それによって時代というものが前に進んで行きます。人間は自らの作りだしたものに執着し、自らの得たちっぽけな知識や経験に囚われ、今度はそこからものを観ようとする。価値観の固定化は正に芸術家にとって精神の貧困!。琵琶楽に於いて、改めて永田錦心の偉大さが身に沁みて来ます。
枠にはまった感性は芸術の対極にあるものです。優等生ほど時代に翻弄され、真実から遠ざかるものは無いのです。時代が変われば、「良い」という感性も変わってしまうのですから・・・。
永田錦心の創り出した琵琶楽は素晴らしい。しかし演奏や作品ばかり見ていては、その中身は見えてこない。彼らの残した作品がどこから生まれ、何処を目指していたのか、その志の部分を見つめ継がない限り、形を追いかけるだけでは何も受け継ぐことは出来ないのではないでしょうか。技ではなく、永田錦心の志を次世代へと受け継ぐ人材が今必要なのです。そして新た時代が訪れた時に、改めて永田錦心はもっと大きく評価されるでしょう。
作品も勿論素晴らしかったのですが、彼らの純粋なる芸術の魂に触れ、大いに感じるものを得たひと時でした。
衛星中継による英国ロイヤルバレエの公演「The Sleeping Beauty」を観てきました。
毎度同じ事を書くようですが、世界の超一流は本当に素晴らしい。幸せな気分というのはこの事です。
今回の配役は、オーロラ姫にサラ・ラム、フロリムント王子にスティーブン・マックレー、魔女のカラボスにクリステン・マックナリー、リラの精にローラ・マッカロク、フロリナ王女に崔由姫という布陣。
とにかく素人の私が見てもそのレベルの高さには驚きます。特に主役の二人の技術たるや・・・さすがはロイヤルバレエ。バレエをやっている人が観たら、きっと腰抜かすよ
うなテクニックではないでしょうか。この演目では高く飛ぶような華やかなテクニックばかりでなく、片足ポワント(爪先立ち)でぴたりと静止する場面が何度もあり、ダンサーの真の実力が試されるものとして知れているようですが、正にその基礎のしっかりとした高い技術に驚いてしまいました。特に4人の王子と片足ポワントでゆっくり回るシーン(ローズ・アダージョという有名な場面)
の安定した確実な技術には驚きでしたね。
カラボス役のクリステン・マックナリー
勿論主役以外の人のレベルもかなりのものでした。魔女カラボスとリラの精はさすがの存在感。カラボス役は男性がやる場合も多いらしいですが、ロイヤルバレエでは必ず女性がやる伝統があるそうです。以前Metのオペラでジョイス・ディドナートがど迫力の魔女をやっていて、あれにも感激しましたが、こういう美しげな魔女というのも良いですね。
一方、善と知性の象徴とされるリラの精も、確かにリラの精という雰囲気が漂っていて、とても自然な感じがしました。脇がこれだけ高いレベルだ
と舞台全体が輝きますね。今回はセットもなかなか凝っていて、場面を盛り上げていました。
この「眠れる森の美女」は戦後ロイヤルバレエが復活するきっかけとなった記念碑的作品でもあるそうですので、演出・制作にも世界最高のレベルを自負しているのでしょうね。
レベルが高いという事は、舞台全体が語り出すという事です。一人一人が技術を超えた所で与えられた役柄を徹底して描き切るので、物語が豊かに伝わって来るのです。先日観た「レ・ミゼラブル」もそうでしたが、個々が輝き、そして全体が語り出す舞台は本当に魅力的です。
そして今回も崔由姫(左写真)さんが大活躍でした。ダンスは勿論、彼女は表情といい姿といい申し分ないですね。きっともう間もなくプリンシパルとして更なる活躍をする事でしょう。本人の意気込みも凄いです。雑誌のインタビューでは「昇進したり、主役を頂いたりするタイミングを引き寄せるのは、自分自身の努力だと思う。チャンスはいつ訪れるか判りません。だから一年中スタンバイしておくことが大切なのです」
と答えています。
今これだけの事を言えて、且つ実践し、結果を出せている邦楽人がどれだけいるだろうか。目の前に振り回され、つまらない意地を張って、勘違いしたプライドに囚われて、小さな枠の中で右往左往している人を沢山見かけるな~、と思うのは私だけでしょうか??

サラ・ラム&スティーブン・マックレー
こういうハイレベルな芸術舞台を観ると、人生が豊かに花開くようで、世界が華やいで見えてきます。世界中の若き才能がハイレベルで相対し、世界最高のプライドをかけて展開する素晴らしい舞台は、私に大きな大きな活力を与えてくれます。自分は及ばずながらも、あのプライドとレベルを目指したい、と思います。
是非日本からも日本独自のものを発信して行きたいですね。日本の素晴らしい芸術を一番良い形で表現したいと思います。それには今迄のやり方では伝えられないでしょう。何よりも先ず視野を世界に向ける所から変えなくてはいけません。肩書きやら格みたいな邦楽村だけにしか通用しないもんはさっぱりと捨てて、ただ実力のみで舞台に挑まなければ誰も認めてはくれません。
世界を舞台に勝負をかけている若き才能が日本からも沢山出ているというのに、我々自国の音楽に携わる人間が、流派だの協会だのというこじんまりした所に納まっていては何とも情けない。たとえ規模は小さくても、芸術性・音楽性は勿論の事、技術だって世界と渡り合える一流のものを持って、世界を納得させるんだという、まともなプライドを持ってやりたいものです。
日本に、世界にもっともっと芸術が溢れるようになったらいいですね。それはきっと国境を超え、手を取り合って行く事に繋がって行く事でしょう。人の心も豊かになって行くでしょう。現在ロイヤルバレエには崔由姫はじめ、小林ひかる、高田茜などが頑張っています。先輩にはかの熊川哲也、吉田都というトップを極めた方々も居ました。今回のオーロラ姫役のサラ・ラムはアメリカ、王子のスティーブン・マックレーはオーストラリア、前回観たジゼルを演じたナタリア・オシポワはロシアの出身です。世界中に観客が居て、世界中にその日のうちに配信される。そこには何の制約も無く世界中の人が集う事が出来るのです。最高レベルの芸術舞台に国境なんかないのです。
君は誰に向かって舞台に立つのか?おさらい会で褒め合って喜んでいる仲間内か?それとも世界のオーディエンスか?
大感激の一夜でした。
春感じる日が多くなりましたね。春一番も吹き、梅も満開。桜、桃を始め、華やかな春の息吹が楽しみです。
先日、国立劇場で行われた、地唄舞花崎会の公演を観てきました。伴奏も私の知人がやっていましたので、久しぶりに彼らの演奏も聞くことが出来ました。
代表の花崎杜季女さんとの出会いは、ちょっと面白いのです。もう10年程前、私が渋谷のクラシックスというライブハウスで演奏していた時に花崎さんが来てくれて、初対面にも拘らずその場で「私のリサイタルで演奏して欲しい」という事を言われ、それからお付き合いが始まりました。それ以来、お互いの舞台に行き来しているのですが、必ずチケットを買ってきてくれて、高野山の演奏会にも足を運んでくれました。仲間と言ってはおこがましいのですが、こういうまともにお付き合い出来る舞台人はそう居るものではありません。招待状を送り合って、褒め言葉しか言わないような邦楽の世界で、しっかりと話が出来る貴重な方なのです。
花崎さんの舞台は日舞とはまた一味違って、もっと具象を超えて、能に近いような風情があります。例えば雪が舞い散る情景を表現するのに、手をひらひらさせるのではなく、舞い散る雪を見る人の心の情景を表現する、とでも言ったらよいでしょうか。それでいて心情をそのまま動きに出すのでなく、もっと秘めて行くので、その様は抽象性を帯び、どこか能に近くなって行くのだと思います。私は舞踊に詳しい訳でも何でもないのですが、その姿には余計なものが無く、実に凛とした佇まいを感じるのです。
今回は花崎流の精鋭5人が舞いましたが、なかなかにレベルが高く、古典から新作までじっくりと味わえる内容でした。花崎さんの美意識が全体に貫かれ、日本の美が溢れていました。花崎さん自身は海外公演にも積極的に出かけている
し、異ジャンルの方と組んで創作舞台にも挑戦している。こうしてどんどん自分なりの活動を展開している方は、たとえ目指す所が違っても、どこかに共感出来るものが必ずあります。嬉しいですね。
邦楽の保守的な世界の中で自ら代表となって、一派を立てているのは大変な事だと思います。時に色々と言われることもあるかもしれません。しかし何があろうと我々はとにかくこの身を晒してナンボです。周りには良いという人もあれば、今一つという感想の人もある。賛否両論あって良いし、またそうでなければならないのです。逆に何か言う限りはしっかりとした哲学や論理を持っていなければなりません。好き嫌いのような個人的感情でものを言っているようでは、自分のレベルの低さを披露しているようなものです。閉ざされた村の中ではいざ知らず、大きな世界では相手にもされません。表現活動をするという事は厳しいものです。
クラシックのトップクラスでは、たった一音間違えただけで下手と言われ、タッチを一つでもミスると未熟と言われます。間違えずに弾いたとしても、そこに独自の深い解釈が無ければ評価はされません。それは相手がバーンスタインだろうが、カラヤンだろうが容赦ない。演奏会翌日の新聞には辛辣な批評がでかでかと載ります。世界のトッププロはそれ位厳しい世界でやっているから一流の質を持っているのです。日本ではまだまだ当たり障りのない事しか言い合わないですね。自分の痛い所をつつかれるのが嫌だから、他人のそういう部分を見ても何も言わない、という何ともネガティブな状態が背景にあるのも確かです。海外では堂々と批判を論文で展開します。ブーレーズのシェーンベルク批判などは有名ですが、好き嫌いのようなレベルでなく、哲学や論理を持って議論を交わして行く、こういうハイレベルな所で話が出来るプロの世界が、邦楽にも成り立ってゆくと良いですね。
変わり行く世の中で「伝統」に携わって行くには、旺盛な創造力が必要です。現代という時代を感じ、この現代という中で、伝承されたものをどうやって舞台に表わしてゆくべきか、過去を学び、現代を知り、次世代を感じながらとことん考え実行出来なければ、魅力的な舞台は作れません。常に創造する事が継承に繋がって行くのです。近現代の音楽である薩摩琵琶も、今一番「創造力」が問われているのではないでしょうか。
私の周りにはジャンル問わず、花崎さんのように創造的で前向きな人がどんどん集まって来ます。
勿論離れて行く人も居ます。それでいいのです。ぬるま湯の中で慣れあっているようではいけません。クラシックでもジャズでも邦楽でも、トップを目指している人は黙っていないし、旺盛に活動しています。またしっかりとした哲学も持っているからその行動にブレが無い。人の意見もしっかり聴いて、変わるべき所があれば、即座に変えて行く柔軟な感性も持ち合わせています。プロとしてやっていれば、神経磨り減るような戦いも結構あると思いますが、そういうものをクリアして前に進んで行ける人だけが舞台に立てるのです。
是非日本の魅力ある文化を、良い形で次世代に伝えたいですね。それは我々世代の一番大事な仕事かもしれません。
これからの花崎さんの活動に、大いに期待したいと思います。日本の美しさを堪能し、日本の芸術舞台に想いを馳せた一夜でした。