響き合う季節2014-Ⅱ

昨日、地元のルーテルむさしの教会で行われた、イースターコンサートに行ってきました。

イースターコンサート2014

私は昨年から聴きに行っているのですが、このイースターコンサートはもう45回続いていて、第一回目から東京バッハアンサンブルがやっているそうです。バッハアンサンブルはもう50年以上の歴史があるので、メンバーも3世代に渡って世代交代が進んでいて、今回ソリストとしても演奏したヴィオラの方は子供の頃、この武蔵野教会の客席で演奏を聴いていたそうです。しっかりと受け継がれてゆく感じが微笑ましいですね。
今回はオーボエ、ソプラノをゲストに迎え、バッハを中心にヴィヴァルディやモーツァルト、ヘンデルなど後期バロックの音楽をたっぷり聞かせてもらいました。
演奏はどれもなかなかのものでしたが、声楽好きとしては歌の曲が何と言ってもぐっときました。バッハのクリスマスオラトリオやモーツァルトの「アレルヤ」
などは本当に素晴らしかった。何と言えばよいのか、とにかくケレンが無いのです。正に「愛を語り、届ける」という感じで、変な自己顕示欲が無くて、音楽が
素直に満ちて来る。宗教曲ですから当たり前といえば当たり前なのですが、邦楽にはあまり感じない雰囲気ですね。

11-s昨年の3,11追悼集会にて
この武蔵野教会は、キャパが100人ちょっと程ですので、音楽を聴くにはちょうど良い大きさです。声も楽器の音もそのままの音がしっかりと届くのです。特に響きが抜群という訳ではないのですが、とてもナチュラルな感じが気に入っています。昨年より、3,11のイベントやこのイースターコンサートなど、武蔵野教会には何かと縁が出来て、身近な場所になりました。お寺は私にとってどこか修行の場という感じが常にあるのですが、教会はいつでもどうぞ、という迎え入れる雰囲気があって何だかほっこりします。お寺もそんな所がもっと増えて行くといいですね。

ルーテル武蔵野教会

武蔵野教会

仏教が根底にある邦楽は多分に哲学的な要素が強く、愛より先に哲学が来る感じがします。だからどうしてもどこか威圧的な感も否めません。私はそういう凛とした感じの音楽は好きなのですが、美なるものに身を任せ、殉じて至福の時を迎えるような、そんな曲があっても良いと思います。仏教でも「慈愛」や「はからい」というものは重要な要素だと思うので、少なくとも「哀れ」や「悲しい」というような、喜怒哀楽という人間感情の部分で語るようなものだけでなく、もっと大きな概念や視野を根底とした新しい邦楽も積極的に作って行くべきだと思います。
芸術はその先に何を表現するか、そこを問われています。合戦ものや人情ものも結構ですが、目先の楽しさを提供するエンタテイメントで終わるのはあまりにもったいない。琵琶のあの深い音色をもってすれば、日常を超えたもっともっと深遠な世界を表現できると私は思っています。

大柴牧師大柴牧師 武蔵野教会HPより
そしてこの武蔵野教会で、いつも楽しみなのは大柴牧師のお話です。何故かこの方の話は私にす~と入ってくる。同郷という事もあるのですが、こういうのを波長が合うというのでしょうか・・・。聴くだけで浄化されます。今回はイースター(復活祭)ですから、それにちなんだお話として、「死は終わりではない」という事を話してくれました。沁みましたね~~。

現代人は、命と言うと有機的・生物的な命という事ばかりを考えてしまいますが、私は、よくここでも書いているように音楽も芸術も命だと思いますし、日本がこれまで辿ってきた歴史も命だと思うのです。だからこそ上っ面をお稽古しただけの邦楽には納得が出来ないのです。
また受け継ぐ過程に於いて、形を変えながら受け継ぐのは当たり前なのではないでしょうか。技を真似た所で、それは単なる保存。むしろ技は常に新しく作るべきなのだと思います。世間では何かというとDNAなどとよくいいます。確かに血筋も大事だと思うのですが、いくら血の繋がった親子でも志や想いを継がない限り、稼業でも家風でも継承はありえない。むしろ受け継ぐべきはその志や想いの方だと思います。形だけ真似ても意味は無い。

私が良く弾く「啄木」は日本にもたらされてからもう1200年経ちます。1作曲されたのはいったい何時なんだろう??と弾く度に思いますが、最初に日本で弾いた藤原貞敏の演奏もどんな風だったかは今となっては解りません。しかしそれは変遷を経ながらも、受け継ぎたいという想いを持った人がどの時代にも居たからこそ、ここまで来たのです。権威あるものとして形だけの継承だったら、とうに消えていたでしょう。伝承者はきっとこの曲に何かしらのロマンを持って伝えたのだと思います。私もこの曲には一つのロマンというか、風景のようなものを感じています。この風景がとても素晴らしい。他には無い魅力に溢れています。これこそが、私が「啄木」をやりたいと思う理由なのです。
1200年という時間を考えると、今に至るまで演奏スタイルや形は相応の変化もしてきていると思いますが、それで良いのです。私は再現をしている訳ではなく、受け継いでいるのですから・・。一度でもその命の連鎖が途絶えてしまったら、今は存在しない。その長きに渡る命を思うと、頭が下がりますね。

ルーテルルーテル市ヶ谷教会

藤原貞敏も永田錦心も、まさかこんな奴がこの平成の世に琵琶を弾いて、世間を周っているとは思わなかったでしょう。縁は異なもの。私には残念ながら神や仏の事は解りませんが、そのはからいの中に生かされているような気がしてならないのです。

手を差し伸べて

オペラシティー内の近江楽堂で「Light of the Ancient 」と題された演奏会に行ってきました。

kei live

Perのクリストファー・ハーディー、アイリッシュハープの彩愛玲のコンビに、いつもの笛の相方 大浦典子(松尾慧)さんが加わったアンサンブルでした。国籍も様々なら、その音楽も無国籍。キャッチコピーが「いつかどこかと、今ここを繋ぐ音世界」という、正にその通りの演奏会でした。
メンバー皆さん大変高い技術を持っていることもあって、即興的なスタイルを多分に交えながら、音楽が自由に流れだし、会場に柔らかく満ちていました。中でも「Cantigas de Santa Maria」という古いスペインの曲をオリジナルのアレンジで演奏した曲が素敵でした。
現代ではこうした多国籍なアンサンブルも全く違和感が無いですね。音楽も国や民族を軽々超えて演奏出来るのが現代ならでは。そこにはかつてのよう
な欧米への憧れで、ろくに言葉も判らず物まねを繰り返していた陳腐さもなければ、偏狭とも感じられるような民族的こだわりも無い。どこまでも自然に世界中の音楽と会話しているさわやかな風が吹いていました。

326 (3)音楽には確かに民族性というものが背景にあります。それゆえ一時の薩摩琵琶のような軍国主義に走ってしまうような素地も、それぞれが持っているでしょう。しかし現代の生活を見ても判るように、人間はかなり柔軟に、自分たちに無かったもの、無かった感覚を取り入れて昇華することが出来ます。雅楽もそうなのですが、ゆっくりと時間をかけて自分たちに無かったものを取り入れて、新たに自分たちのものとして創り上げて行くその行為こそ、文化というのではないでしょうか。こうした事は、衣食住すべてに渡り、人間にとって日常的なごく自然な行為なのだと思います。

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グローバリズムで何でも薄まってしまうのは、私も歓迎しませんが、文化とは常に他と接触する事で、生み出されて来るものです。その生み出されたものを、国でも地域でも、そこに居る人々が「美」と感じる事によって、その地域に感性というものが生まれ、そこから色々なコンテンツが生まれて、固有の文化と成って行きます。そしてそれは日々どんどんと生まれ、また消え、取捨選択されて常に続く営みとして続いているのです。その営みが続く中で、独自の感性が磨かれ、洗練された美意識へと更に昇華して行くのです。その営みが止まってしまったら、感性もくすんで行きます。この感性を共同体の皆が共有・共感するという事がそのまま文化に繋がって行きます。分かち合うと言った方がより判り易いでしょうか。有名な本居宣長の「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」というような歌も、心を分かち合い、日本の感性となっていったからこそ、詠まれたのです。

「嬉しい」でも「悲しい」でも自分だけの感情になってしまって、個人的な所で完結していては文化は育ちません。是非舞台で多くの人と「楽しさ」も「嬉しさ」も「悲しさ」も分かち合いたいものです。音楽でも何でも皆と分かち合ってこそ、ではないでしょうか。

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グルジアのルスタベリ劇場演奏会

音楽・芸術は本来、人と人の心を繋ぐもの。愛を語り、届ける事無く、自分がやっている事で満足するようなお稽古事に陥り、イデオロギーや偏狭なプライドが優先するようでは、その素晴らしさも魅力も分かち合えません。分かち合うことが出来ないという事は、相手に音楽が響かないという事です。先ずは素敵な音楽を聴衆に届け、手を差し伸べる姿勢が大事だと思います。美的感性を皆が持ってこそ文化となるのです。マニアの為のものではありません。文化に誇りを持ち、守り受け継いで行く事と、組織を維持する事は全く違うのです。伝統芸能に携わる私達は今、そのやり方についてよくよく考える必要があるのではないでしょうか。

色々なものと接触し、新たなものを生み出し、育んで行く人間の「営み」は正に命の源泉だと思います。今回の演奏会のように、今まで出会う事のなかった色々な楽器が共に奏し、気負いなく様々な音楽を奏でる事は大いに結構な事だと思います。売らんが為に聴衆に媚びている訳ではないのです。純粋に創造性の営みとして、高いレベルで音楽をアンサンブルするのだったら、どんどんやるべきです。逆に七五調の都節による弾き語りしかやらないというのでは、世界の人と手を繋ぐ事は難しいですね。

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郡司敦作品個展演奏会

色んな歌を歌い、この素敵な琵琶の音色で様々な音楽を奏で、色々な形のアンサンブルを聞かせることが出来たら、琵琶の音色を世界中に届けることが出来る。「Light of the Ancient 」のように、多くの音楽とつながり、多くの人とつながることが出来る。素晴らしいと思いませんか。
私は毎年オーケストラとやったり、舞踊とやったり、筝や尺八、笛等々色々なものと一緒に演奏しています。琵琶はその気になれば結構幅広く色々なものに対応が効いて、色々なジャンルの中で曲が弾けるのですよ。出来ないと思い込んでいるだけです。ようはどれだけ頭が柔らかくするか、そこです!

劉リサイタル葉書劉リサイタルパンフ1

このチラシは、台湾の琵琶奏者 劉さんと笛の方(字が難しい)のジョイントリサイタルのものです。この時、私の作品「SIROCCO」が二人によって台湾で演奏されました。ちょっと視点を変え、頭を柔らかくすれば、こうして音楽は海を、国境を超えて繋がって行くのです。

音楽に喜びが溢れ、その喜びを届け、愛を語り、人の手と心を繋いで、分かち合い、響き合う。音楽はそういうものであって欲しいですね。

ヴォツェック

先日、新国立劇場にてアルバンベルク作曲のオペラ「ヴォツェック」を観てきました。

ヴォツェック

この所オペラはLive Viewingばかりだったので、久しぶりにフルオケと生の声を堪能して、気持ち良かったです。しかしアルバンベルクの作品ですから、一筋縄ではいきません。シェーンベルクの愛弟子にして、現代音楽をウェーベルンと共に牽引した人物ですから、この作品もほぼ無調で書かれています。一部には12音技法で書かれているところもあるようですが、作曲されたのがもう90年前だそうです。

ベルクの音楽は無調と言えども、どこか調性感が感じられ、いわゆる現代音楽のように刺激的な不協和音が続いたりはしないのです。同じシェーンべルク門下のウェーベルンの作品がかなり前衛チックに聞こえるのに対し、ベルクの音楽はどこかに抒情があり、聴きやすい。解り易い無調と言ったらおかしいですが、今回も違和感なく入ってきました。

       

このオペラは何時もMetで観ているようなエンタテイメント満載のものとは随分違います。何しろキャッチーなメロディーが出て来る訳でなし、豪華な衣装で目を楽しませてくれる訳でもありません。衣装は皆簡素で、舞台も暗く陰鬱、アンダーグランドな感じすらあります。またヴェルディのような愛憎極まったドラマというものとも違う。アリアをたっぷり聞かせるような所も少ない。出演者は社会の下層の人達であり、主人公以外はゾンビのような恰好をして出て来ます。最後は主役の二人とも死んでしまい、何処にも救いや解決というものが無い。舞台の解説にも「社会に蔓延する貧しさと暴力が、世代から世代へと連鎖する様を鋭く描き出す」「破滅へと突き進むヴォツェックの狂気」という具合ですから、グランドオペラみたいな豪華なものが好きなオペラファンには、全くつまらない作品かも知れません。

主役のヴォツェックにゲオルク・ニグル 妻マリーにエレナ・ツィトコーワ。二人ともかなりの実力派です。stage39030_1他、日本の方も出ていましたが、歌手というよりは皆が役者という感じで演出されていて、シュプレヒゲザングと呼ばれる語りのような部分も多いので、オペラというよりは現代演劇を見ているような感じがしました。
私は細部に渡って理解が出来た訳ではないし、後からやっと意味が判ったような所も多かったです。したがって作品に対する感想はとても書けませんので、この作品に接してみて湧き上がった想いを書いてみたいと思います。

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新しいものを作り、最先端を突き進むのは人間の運命です。芸術でも経済でも、世界の動きが現状維持で止まる事はありえない。人間は常に何かを求める宿命を負っている存在です。それゆえに芸術を創造し、文化・文明を作り上げ、社会を構築してきたのです。ですから発展しないという事は、現状維持ではなく、衰退して行く事を意味します。残念ながら、のんびりと休んでいる事は人間には出来ないようですね。少なくとも芸術は社会の中に有って初めて生まれ出るものですので、常に「生み出す」ことが宿命でしょう。だからこの間観たラファエル前派のような若者達がいつの時代にも出て来るのです。

140408-miura-002大体、古典作品というものは現代作品があってこそ古典となりえるし、文化となって行くものです。新しいものが出て来てこそ、過去の遺産への認識も深まり、研究も進み、そこにまた新たな創造性が向けられ、更なる魅力が輝きだすのです。
観る方もやる方も、さして考えることも必要とせず、目の前の楽しさが優先するエンタテイメントというものに溺れたら、新しい概念や哲学を生み出すことが出来ない。新しいものを生み出せない社会は、見事なまでに滅んで行きます。それは歴史を観れば明らかでしょう。エンタテイメントは人間にとって重要な要素ではありますが、楽しいだけでは芸術や音楽に命は宿らない。ヴェルディやプッチーニも勿論素晴らしく芸術的であるけれど、楽しさが優先して、新たなものを生み出さなくなったら、どれだけ素晴らしい作品も瞬く間に淀み、腐って行ってしまいます。
社会や生活はどんどんと変化し、個人もどんどんと年を取って、時代の感性も恐ろしい速さで変わって行くのに、芸術・音楽だけが変わらない訳にはいかないのです。確かに最先端の芸術に人々はついて行けないけれども、そんな最先端が時代を導いて、どんな時代にも、どうしても、新しい芸術・音楽を人は求めるのです。

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個人の枠内だったら、眼の前の充実感だけを求めて、のんびり楽しく生きていても何ら支障はないでしょう。しかし社会がそういう状態にあったら、残念ながら明日は無いのです。芸術でも社会でも生活でも、溢れんばかりの創造が無くては人間は生きては行けない。だから各国、どの時代にも新しい哲学を持って、新しい形を創る人が次々に現れます。日本では世阿弥、利休、八橋検校、宮城道雄、永田錦心・・。そういう人達は世の中から天才と呼ばれます。私達はその天才が創り出した道を更に先へと進めて行けるか?ただ乗せられて終点にも辿りつけず、うろうろするだけか?!

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この所、春の逍遥よろしく、楽しくて豪華で夢のような世界に遊んでばかり居た私に、このヴォツェックはかなり強い刺激を与えてくれました。作曲されてから90年という時間が経っても、私のような凡人の頭ではまだよくその魅力は判らないですが、次の世代にはきっとヴェルディやプッチーニのような古典となって行くでしょう。実際シェーンベルクやバルトークが「現代音楽の古典」という言われ方もそろそろされているのですから・・。
あらためて芸術の在り方に想いを馳せた舞台でした。

The cross-borders

この所演奏会続きで、先日の北鎌倉建長寺に続き、お江戸日本橋亭の「半月の会」、琵琶樂人倶楽部「文人の愛した絃楽器」と続けてやってきました。

3「さざなみの別れ」演奏中

今年の「半月の会」は、一の谷をテーマとした古澤錦城さんによる企画構成で、私は古澤さんの作った、平知盛・知章親子の事を描いた新作「さざなみの別れ」の伴奏をやってきました。
2014お江戸日本橋亭「半月の会」こちらは平曲を語っている古澤さん。益々良い姿になってきましたね。古典をやりながらも常に色々な人と交流して創造性を失わない古澤さんの姿勢は素晴らしいと思います。

そして次の日は桜井真樹子さんを迎えて、琵琶樂人倶楽部第77回「文人の愛した絃楽器」というお題でレクチャーと演奏をやってきました。

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毎年桜井さんには面白いテーマを投げかけて、彼女の幅広い見識を総動員してレクチャーをやってもらってます。また桜井さんとは毎年やる度に何度も打ち合わせをし、練習をしてやっているので、毎回かなり充実した内容になるのですが、そろそろここ何年かでやってきた事をライブなり、講座なりの形にして行こうという事で、画策しています。乞うご期待!
またお客様には、以前よく一緒にやっていたマルチフルーティストの吉田一夫君も来てくれて、打ち上げでは古澤・塩高・桜井・吉田のチームに、ブルースマンのホセ有海さんも参戦して、邦楽・雅楽・ジャズ・デスメタル・パンク・ブルース・プログレ・フォークと、ジャンルを超えて話が盛り上がり、激しい化学反応を起こしていました。新しい音楽が生まれそうな予感??!

私は琵琶奏者ではありますが、アンテナは常にIMG_7914sノンジャンルなので、私の周りには同じように広くアンテナを張り巡らせた方々がどんどん集まってきます。音楽家は勿論の事、舞踊家、美術系の作家、語り部、物書き、役者、学者…もうキリが無いのですが、皆さん実に話が面白い。桜井さんも音大出の作曲家として出発し、今ではユダヤ~アラブ~雅楽・声明・白拍子などその知識は百科事典並だし、フルートの吉田君もクラシックやジャズだけでなく、フリー系からアイリッシュ、ボッサなど私とはまた違う分野に豊富な経験と知識をいっぱい持っている。皆自分の確かなホームグランドは持っていながらも、どんどん越境して行くので色々な方向に話が飛んで、いくら話しても尽きることがありません。皆さん実に感度が高いのです。

どんなジャンルでも何かを作り出そうという人は、先ず自分の立つべき位置がぶれない。それでいながらあらゆる分野に渡って、有り余るほどの引き出し、知識、経験を皆一様に持っていますね。これは年を追うごとにそう思う事が多くなりました。永田錦心や鶴田錦史も正にそうです。天才は、たとえ閉鎖的な世界にあっても、そこに流されることなく、自由自在にcross-border~越境して行くのです。

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さて、今年も「良寛」の舞台がやってきます。今回再演にあたり和久内明先生が脚本を改訂されて、キャストも変わりました。主演の津村禮次郎先生はそのまま。黄泉の国の風は、蜷川幸雄の舞台や黒澤組の一員としても知れる伊藤哲哉さんにお願いする事になりました。伊藤さんは琵琶を弾きながらの一人芝居なども積極的にやっている事もあって、もうずいぶん長いお付き合いをさせてもらってます。これまでも琵琶樂人倶楽部にも出ていただいたし、何かとアドヴァイスを頂いている良き先輩なのです。そしてもう一人、前回の国語教師に変わって、不運なダンサーという役で木原丹さんが入ります。皆さん確固たる自分のスタイルを持ち、且つcross-borderな方々。ここに私の琵琶と大浦典子さんの笛が加わります。勿論作曲は今回も私が担当します。是非是非お越しくださいませ。5月23日座高円寺2でお待ち申し上げております。

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こうして色々とお仕事させてもらうのは大変ありがたい事です。いつまでもcrosss-border~越境する音楽家でありたいものですね。

北鎌倉へ2014

先日、建長寺の応真閣にて催された、版画家の井上員男先生の平家物語展にて演奏してきました。

建長寺

井上先生の作品は六曲屏風に飾られた12作品で、緻密で且つ壮大なその世界は観る者を虜にするような魅力があります。以前、練馬の光が丘美術館で展示された時も演奏しているのですが、鎌倉という場の持つ力なのでしょうか、大広間いっぱいに展示された姿は、以前とはまた違った迫力に満ちていました。建長寺1
会場は200人を超えるお客様で超満杯。やっぱりこういう所で聴きたいという人が多いのでしょうね。ホールのように響く訳ではありませんでしたが、気持ち良く演奏出来ました。後方からの写真で小さいですが、こんな感じでした。

鎌倉は私にとって何かと縁のある所で、毎年恒例の古民家ミュージアムでのReflectionsの演奏会をはじめ、昨年も魯山人の築いた窯で作陶している河村喜史さんのサロンで演奏したりして、これまで色々な場所で演奏をしてきました。私の弾き語り作品の作詞をしてくれている森田亨先生も鎌倉在住ですので、鎌倉では何かと飲み歩いたり、打ち合わせをしたり、身近な場所でもあります。緑も多く、歴史も深いこういう所はいつ行っても良いですね。ここ数年更に縁が深くなって来ている感じがしています。

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琵琶のような古くからある楽器は、おのずと歴史というものを背負っています。薩摩琵琶自体は近現代のものですので、古典という訳ではありませんが、歴史ものを題材としていることもあって、琵琶楽全体という大きなくくりで考えると、ロマンの部分だけは時代を遡って行きます。樂琵琶や平家琵琶は正に平安・鎌倉そのものなので、日本の歴史がそのまま楽器に宿っていると言っても良いかと思います。
そういった歴史を背負う琵琶という楽器に携わっている者として、この平成の時代まで続く歴史を、次代へとつなげて行く事は、おこがましくも何処か使命のようなものを感じます。どうやってやって行くべきか、大いに悩むところでもありますが、少なくとも形をや歴史をなぞるだけでは何か片手落ちのような気がしています。

例えば、古代の遺物は何の目的で使われていたのかも判りません。銅鐸や埴輪が良い例です。神社などでも何の神様を祭ってあるのかも判らなくなって、まるで別物になっている例もあります。つまり過去を過去の形のまま伝えた所で、その意味を伝えなければ、時代によって考え方も価値観も変わってしまうので、物体としての形しか残らないのです。

蓮如上人坐像
親鸞聖人の教えも数百年の後には衰退していましたが、蓮如上人が室町時代に、当時の人々に、当時の感性と言葉で、真宗の教えを生き生きと輝くものとして説いたからこそ今があるのです。私達は、過去のものを命あるものとして現代の感性に訴え、伝える事こそがその役割であり、仕事ではないでしょうか。

先ずは歴史をしっかりと正視して、創造性の光を当てなければ、現代にそして次代にも響きません。伝えるべきものに創造性を持って接し、今自分は古典の何を伝えたいのか、その為には現代に於いてどういう表現をすべきなのか、何を変えて行ったらよいのか等々、多くの事を勉強し、考えなくてはなりません。古典をやるという事は、そのものだけを見ていても何も見えてきません。当時の社会、歴史の変遷、宗教いろいろなことが関わっていますので、そういう事もしっかり勉強しなければいけません。また、現代という社会・時代についても明晰な視座を持って見つめていなければ、何も表現できません。かなりの知識と知性、幅広い感性が要求されるのです。
新しいものをどんどんと作り、時代を突き進んで行くのは良いと思いますが、中には何十年しか経っていないものを古典と称して何のはばかりも無く宣伝しているもの等を目にしる事も多々あります。本当に情けなく思います。私にはそうしたものは自己顕示欲の塊のように見えるのです。上っ面の和風文化が今後も残ると思う人は少ないのではないでしょうか。「伝統」というものに少しでも携わる人は深く考えて欲しいものです。

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私はいつでも自分で作った作品を演奏します。樂琵琶では古典をそのままやる曲もありますが、それを今、現代に於いて演奏する意味を充分に考え、自分で納得いかなければ、とても舞台にはかえられません。今回演奏した「平敦盛~月下の笛」も現代に於ける敦盛の物語を語るべく、新しく作った作品であると紹介させて頂きましたが、何よりも古典から続くこの日本文化の道程の最先端として、自分の新作を発表出来るという事が私にとっての喜びなのです。私の作品の前には永田錦心が居て、宮城道雄が居て、世阿弥が居て、源博雅も秦河勝も居るのです。先人の残したものが何かしら脈々と伝えられているから、今私が琵琶で新作を発表するという活動をしていられるのです。私自身は、この道程に於いてたとえ取るに足らない末端の存在であっても、このような歴史の大きな流れの中に私の音楽が響いていることは、嬉しいし、ありがたいし、誇りでもあります。

古典は何よりも大事にしなければなりません。同時に古典に寄りかかってもいけません。古典に携わる事で偉くなったように思い込む態度は、奢り以外の何物でもないし、単にそれは勉強が足りないからそうなるのです。やればやるほどに謙虚な姿勢になって行くものではないでしょうか。常に心新たに取り組みたいものですね。

鎌倉の地で、大いに想いを馳せた一日でした。

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