熱狂的声楽愛好のススメXVII~Met 「ラ・チェネレントラ」

この所、MetのLIve viewingにずっと行けていなくて、今シーズンはこの作品が最初でした。しかもこの作品が今シーズンの最後作。忙しいのは結構な事ですが、芸術に関わる者として、一流の舞台を観に行けてないというのは情けない限り。今作はジョイス・ディドナート主演なので、何としても行きたかったのです。勿論期待を大きく超える素晴らしい作品でした。

原作はシンデレラ。これをイタリア語で読むとチェネレントラ。ストーリーはおなじみのものなのですが、ロッシーニ作曲だけあって、声楽の部分がなかなか面白い。合唱・輪唱に加え、かなりの早口言葉で歌うシーンが随所にあって、並の歌い手では歌えない超の付く難しい作品です。そしてこの作品の面白さは、そのコミカルな演出ですね。Metはこういう所も抜かり無い!私は歌舞伎を観ているような楽しさを感じました。見終わった後の充実感、満足感もたっぷり!勿論世界最高レベルの歌唱があってこその話なのですが、極上のエンタテイメントです。

特に今回は男性陣が素晴らしく、王子役のフアン・ディエゴ・フローレスはチェネ5もう惚れ惚れするような、「これぞテノール」と言わんばかりの実力。鳴って鳴って、何処までも鳴り響くその声、声質は実に魅力的でした。脇も、もう何度も観ているルカ・ピザローニ、他アレッサンドロ・コルベッリ、ピアトロ・スパニョーリ。其々が素晴らしい歌唱で脇を固めていました。コミカルな中にも、確かな実力に支えられた様々な表情が、演技と共に舞台を十二分に盛り上げているのです。さすがはMet。エンターテインという事にかけてはやっぱり世界一です!ただただ素晴らしい。

 

チェネ2でも何と言ってもディドナート!!!。素晴らしい共演者もさることながら、ディドナートの為にこの舞台があると言っても良い程、彼女でなければ成り立たない舞台だと感じました。彼女はこの作品をこれまで自分の中の重要なレパートリーとしていたのですが、今回を最後にこの役から降りるそうです。ラストシーンでは目に涙が見えたのは私の錯覚でしょうか。ラストのアリアなんて、ディドナート以外に誰が歌えるのだろうと思える程。超絶な技巧を駆使しながらも、その先の心情を見事に描き出す実力は、まさにTopとしか言いようがないですね。
一番最初にディドナートを観たのは、「エンチャンテッド・アイランド」での魔女の役でした。ジョイスディドナートど迫力の歌唱と、怪物になってしまった我が子を守ろうとする母親の想いを歌い分けていたのが印象的でした。その後はこのブログでも書いた、圧巻の「マリア・ストゥアルダ」。感動を通り越して震えが来るような魔力で、ディドナートが紛れもなく世界のトップにあることを認識した舞台でした。そして今回のこの「ラ・チェネレントラ」は、「マダムストゥアルダ」に並ぶ充実の作品でした。この難しい歌唱、演技の中で余裕さえ感じるような、彼女の歌手としての実力と大きさを感じました。

チェネ7

一流の演奏、舞台をに接すると、本当に幸せな気持ちになります。もう10年以上前に、コントラルトのナタリー・シュトゥッツマンのコンサートに行った時にも、同じように幸福感に包まれたのを想い出します。
芸術は哲学でもあり、また学問でもあり、エンターテイメントでもあるのですが、やはりその根本は喜びではないでしょうか。喜びに溢れ、愛を語り届けるのが芸術家の役目なのだと、一流の舞台に接するたびに思います。

こういうものに出逢うのも縁。己の世界に閉じこもっていたら何も入って来ない。何も見えない。つまらないプライドに凝り固まっていたら、白いものも黒く見える。常に多くのものを受け入れるキャパというものが無ければ・・。そして同時にぶれない事。自分の外の世界のものとの距離を取れない人は、ただ振り回されてしまうだけ。多くのものに触れ、吸収しながらも、物事を冷静に見つめ接する事が出来なくては、一流の舞台に立つ事は出来ないのです。色々な世界を見せてくれる芸術家、そして仲間達に感謝ですね。

15

一流の舞台は人生の糧です。こんなちっぽけで取るに足らない我が身も幸福感で満たされるのです。
足元にも及ばずとも、私もそんな舞台が出来るよう、志だけは大きく持って精進したいものです。

音楽の喜びⅤ

先日、大塚のライブハウスWellcome Backにて、フルートの吉田一夫君が参加しているバンド「Qui」のライブを観てきました。吉田君とはもう12,3年ほど前はよく一緒にやっていて、1st 2nd アルバムにも参加してくれていたのですが、最近またひょんなことで再会したこともあって、是非最近の彼の音を聞きたいな、と思ってライブに足を運びました。この所妙に忙しく、スケジュールは目一杯詰まっていたのですが、何とか開演時間には滑り込むことが出来て良かった。ばっちりと堪能してきました。

oriental2
若かりし頃。中央の左側が吉田君

  Qui オフィシャルサイト http://quisounds.wix.com/quisounds

サウンドはプログレ~ちょっとジャズという感じ。ジェフベックやフランク・ギャンバレ、アラン・ホールズワースバンドみたいなインストのスタイルで、私の好みにもぴったり。ベースとドラムがとにかく素晴らしく、抜群のリズム感でガンガンドライブして、そこに吉田君のご機嫌なアドリブが乗っかるという、何ともいい感じの音でした。吉田君のフルートは相変わらずクオリティー高いし、何しろあの柔軟な発想が彼の持ち味ですね。是非更にブラッシュアップして、世に出て行って欲しいものです。

seingakubiwa

私は実はかなりの数のライブに普段から行っていて、ジャンル問わず時間があれば色々と聞いて廻っているのです。今迄このブログに紹介したものは、文句なく素晴らしいと思ったものしか書いていないので、お勧めのものばかりなんですが、時にはこれでお金を取るのか???と思いたくなるようなものも少なくないのです。特に邦楽のライブはお稽古事の発表会と勘違いしているようなものが多いですね・・・・・・・。

ルーテル音楽をやっていると、誰しも上手に弾きたいと思うものです。しかしリスナーは上手な演奏ではなくて、素敵な音楽を聴きたいのです。やっている側は、しばしばそれを忘れて上手に弾くことに執心してしまいますね。勿論お金を取る以上、下手は論外ですが、お上手に壇ノ浦を弾いても、お稽古した上手さを人前で聴かせているようでは、ただのアマチュア。お金は取れません。アーティストとしての矜持と気概を持っているのなら、自分の身から湧き出でたオリジナルな音楽をやるべきでしょう。自分にしか表現できないバッハや壇ノ浦をやって初めてプロとして舞台に立てるというものです。

考えて考えて、研究して勉強して、技術を磨いて、人生を音楽にささげ、明快な哲学が自分に得られるまでとことんやってこそ音楽は響きだすものです。良い方向を向いていれば、音楽以外の多くの見聞、素養、知識経験等々色々なものがおのずと身に付いて、また必要にもなってきます。勘に頼ったような浅い考えで、自分の目の前の満足に浮かれているようでは、音楽は聴き手の心には届かない。一流の方は皆とことんやってますよ。是非広い世界に飛び出して頑張ってほしいものです。

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琵琶樂人倶楽部の看板絵

さて、6月は毎年きりきり舞いで忙しくなる月。今年も色々と演奏して回ります。ICJCのイベントや授業、毎年恒例の光が丘美術館、静岡の八千代寿司さん企画の演奏会、社会保険協会主催のえびす大学での講演等々、色々入ってます。
そして今月の琵琶樂人倶楽部は、若手演奏家を3人ゲストに呼んで、「次代を担う若者達」と題して演奏してもらいます。普段まだ演奏の機会の少ない彼らを応援するという気持ちも含め期待したいと思います。出演は

筑前    平野多美恵 「安宅の関」
錦心流   佐々木史加 「大楠公」
薩摩五弦  青山藍子  「朝の雨」

というラインナップです。是非是非明日の琵琶楽を担う若手を応援して下さいませ
6月11日水曜日 夜7時30分開演です。場所は何時もの阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロン。お問い合わせは私の所にお願いします。orientaleyes40@yahoo.co.jp

悟りの窓2011-11-1

源光庵の悟りの窓

音楽は実に正直なもので、その人が何を考えているか、全部音になって出て来るものです。喜びを感じて音楽接している人は、喜びの音が出て来るし、そのレベルが高ければ、聞いている人に感動をもたらすでしょう。逆に売れたい、有名になりたいと、音楽以外の所に意識が行っている人は、自然とそういう姿と音楽に成る。
現実と対峙して、時に戦い、時に敗れて、それでも芸術・音楽を求め、身を捧げて生きて行く姿からは、それなりの舞台や作品が立ち現れます。吐き出しているようなレベルでは、何も為すことは出来ない。どこに視点を当てているか、どのくらい人生賭けているか、ありありと姿となって見えてきます。

常に我が身を振り返り、この道でやって行きたい。それしかないですね。

黄泉の国から~戯曲公演「良寛」終了

座高円寺にて行われた戯曲公演「良寛」無事終わりました。黄泉の国での出来事の芝居でしたので、やっと現世に戻ってきた気分です。

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今回は、津村禮次郎先生、伊藤哲哉さんという二人のベテランの味わい深い実力を痛感した舞台でもありました。その道のベテランと呼ばれる方の舞台はやっぱり素晴らしいですね。
今年はスタッフ、キャストががらりと変わり、脚本も大分洗練されたこともあって、昨年の公演とは全くの別物になりました。私自身も作品に対する理解が深まりましたし、津村禮次郎先生も更に磨きがかかって、正に良寛さんそのもの!。また今回は役者3人が随所にアドリブをかますなど、余裕のある舞台となりました。若手の木原丹君もいい芝居をしていました。

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音楽でも演劇でもどんなジャンルでも言える事ですが、ベテランとして評価されている方々には「けれん」が無いのです。私は邦楽の分野に関わってから、この「けれん」という事が常に気にかかっていました。私に「けれん」という言葉を教えてくれたのは、さ一番最初に琵琶を習った錦心流琵琶の高田栄水先生ですが、先生も若い頃はコブシ回しで有名な演奏家の後にくっついて廻っていたとの事です。しかし年を重ねるにしたがって魅力を感じなくなってしまった、と言っていました。やはりけれん味というものは飽きが来る。必要無いのです。

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尺八も似た所が有りますが、琵琶は個人芸であるせいか、はったりやこけおどしの類に走る人が実に多い。youtubeなどを色々観ていると、琵琶って大道芸なの?と思うようなスタイルの人が目立ちます。人それぞれで良いと思いますし、様々なスタイルがある事は好ましい事ですが、パフォーマンス系ばかりになってしまうのは悲しいですね。しっかりと音楽を聞かせられる人ももっと出て良いと思います。

等身大そのものになって舞台に挑んで行ける人は、そのままで存在感もあるし、何も足す必要が無いのです。中身がまともなら、売れっ子になるかどうかは別としても、まともな評価は付いてゆくものです。「けれん」が目につくというのは、色々と飾り立てて自分を誇示しようとしている事。言い換えれば、技術も器もまだまだという事です。まあ肩書き並べ、看板ぶら下げているような姿勢からは「けれん」しか生まないだろうと思いますし、そんなものを掲げている事自体が正に「けれん」そのものといえますね。

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私がいつも書いている永田錦心の演奏にはそういうものがありませんでした。私はそこに共感するのです。何事も技や「けれん」など小細工が見えるようでは、まだ表現に至らないという事です。そういったものの先にある世界を現してこそ、音楽であり、舞台です。舞台にも音楽にも小賢しい細工は必要無いのです。

ryokan2一昨年、和久内明先生と出逢い、縁に導かれ、昨年より良寛を追いかけることになり、舞台を務めましたが、昨年はまだまだ自分の中の思い入れだけが空回りして、舞台に結晶していませんでした。今年も細かな反省は多々有るものの、更に一歩進んで務めることが出来たのは良かったと思います。

今年も、エンディングの津村先生と私の樂琵琶独奏のデュエットは、しっかりと記憶に刻まれました。津村先生は今年も良寛という個人を超えた、存在としての良寛となり舞われていました。その時私が弾いた「春陽」という曲は、やる度に新たな命を頂くようで、私の中で、どんどんと育ってゆくようです。

関わった皆様に感謝。御縁に感謝。

What are you doing the rest of your life

この所、戯曲公演「良寛」の稽古が連日入っているので、何かと連絡等滞り気味で、ご迷惑をかけております。

水の女そんな最中ではありますが、先週はドイツ文化会館で行われた、桜井真樹子さん企画の「水の女」を観に行きました。折口信夫の原作をドイツ語の朗読に乗せて舞台構成して行くもので、地唄舞の花崎杜季女さんも加わって、独自の世界を現していました。観ていて、民族性と洗練されたグローバルな感性のバランスというものを感じました。

桜井さんは以前にもブログで紹介しましたが、クラシックから始まって、日本の古典に戻り、雅楽や声明、白拍子などを研鑽研究し、更にそのルーツであるユダヤ、アラブにまで至る活動を展開しています。一方花崎さんも地唄舞を土台にして、海外に積極的に飛び出して行っています。私も洋楽から始まり、邦楽・雅楽に至り、また邦楽を離れシルクロードを辿り、外側に目を向けている。こうして見ていると、何かしら共通する仲間というものは自然と集まってくるのだな、とつくづく思いました。

日の出2

今年の新年のテーマは「洗練」と書きましたが、民族性と洗練は時に相対するものでもありますね。単にどちらかに舵を切るという単純なものではないとも思います。世界が繋がって来ている現代で、この風土と歴史がもたらした類まれなる日本人の美の感性を、世界の人に感じてもらえるような表現をする事こそ、日本の芸術家の仕事だと私は思ってます。これからは微力ながらも、こうした事に残りの人生を費やして行きたいですね。

世界の中の日本という意識は、現代に於いて大変重要なキーワードになると思いますが、世界中に物事が発信され、また世界の情報が一瞬にして入ってくる、この現代に生きる人々の感性を考えれば、表現者側も当然意識は変わってくると思います。以前と同じ感覚ややり方をやっていたのでは、日本国内でも相手にされなくなるのは当たり前です。既にマーケットは国内に留まらないのだし、私ですら世界の人がネットで観て聴いて感想を送ってくる時代です。そんな時代だからこそ、私は自分の音楽を単なる珍しい民族音楽ではなく、世界に数ある素晴らしい音楽の一つとして届けたい。桜井さんや花崎さんも同じ想いだと思います。

高橋竹山1かつて高橋竹山はアメリカの聴衆を魅了しました。それは彼が即興演奏に秀でた能力があった事と、海外のオーディエンスを対象にしてプロデューサーが売り込んだから成功したのです。
結局は「眼差し」がどこを向いているか、そこに行きつきます。竹山の三味線も民謡の名人と言うだけで売り込んでいたら、アメリカ人は感応しなかったでしょう。ジミヘンやコルトレーンにも勝るエモーショナルな音楽として紹介したからこそ、彼の音楽は、まるで霊魂探知機でもあるかのように、我々の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」

と評されたのです。そのように評されるには、そのように魅せる事が必要なのです。竹山の音楽に、海外の人を魅了する魅力と可能性を、プロデューサーが見抜いていたのでしょう。

では今、どうやったら日本から世界へと音楽を届ける事が出来るのでしょうか?様々なアプローチがあるでしょう。様々なアプローチをする人が居るべきです。

中でも、言葉や語りが命とも言える邦楽では、言葉の問題は、今後世界に向けた音楽をやって行く時に、大きな問題になると思います。竹山の三味線も尺八古典本曲も歌や言葉の無い器楽だったからこそ、ダイレクトにその音楽が浸透して行ったのは間違いない事実でしょう。勿論日本人とは違った感じ方とは思いますが、何かを感じ取ってくれたのは間違いないと思います。
これからは従来のやり方ではない、新たな声の表現、言葉の在り方というものを突き詰め、言葉の根底にある日本独自の感性を表現するような人が、邦楽の分野に是非現れて欲しいと思います。

huji2

私は常に自分に「問いかける」という事をしています。「自分の音楽は何なのか」「何故それをやるのか」etc. 様々な「問いかけ」があるからこそ、色々なものに触れようとし、吸収も出来る。「問いかけ」が無くなった時には形骸化が起こり、輝きを失い、アーティストとしては存在できなくなるでしょう。「琵琶はこういうものだ」「こうでなくてはいけない」というような硬直した感性では、その輝きは、とてもじゃないけど保つことは出来ません。何物にも囚われない無垢な精神があってこそ、音楽や芸術はその命を育んで行く事が出来るのです。邦楽が今、どんどん衰退しているのは、その原因が演者側の意識に問題があるのではないでしょうか。

2012-5色々なものが存在し、広く間口があるのは良い事だと思います。しかし私は邦楽器でポップスをやったからといって、洗練されたとも思いませんし、世界に出て行けるとも思っていません。多少話題になって、演奏する機会も多少は増えるでしょう。また従来の邦楽関係者からすると、ポップスやアニメソングをやるのは画期的かもしれません。しかし外側から見ると別に何の楽器でやってもポップスはポップス。同じ事なのです。しかも音楽ではなくパフォーマンスとしてしか映らない。
リスナーが求めているのは「楽器」「技」ではないのです。皆、日本の魅力ある「音楽」を聴きたいのではないでしょうか。琵琶でも三味線でもサックスでもピアノでも、楽器を見せる聞かせるのではなく、むしろ楽器は洋楽器でも、そこに日本独自の感性があるかどうか。どんな魅力的な音楽をやってくれるのか、それを期待しているのではないでしょうか。

話題性も必要だし、過程の一つとしてそういうものも大事かもしれません。しかしそれらも明確なヴィジョンありきで動いて行かないと、ただの賑やかしで終わってしまいます。少なくともこれからの私の人生で、そういう一過性のエンタテイメントをやってる時間は無いのです。
私は日本の音楽、それも形骸化したものではない現在進行形の日本音楽。リアルな日本の音楽、そして私独自の音楽を届けたいのです。

What are you doing the rest of your life

What are you doing the rest of your life

この所、戯曲公演「良寛」の稽古が連日入っているので、何かと連絡等滞り気味で、ご迷惑をかけております。

水の女そんな最中ではありますが、先週はドイツ文化会館で行われた、桜井真樹子さん企画の「水の女」を観に行きました。折口信夫の原作をドイツ語の朗読に乗せて舞台構成して行くもので、地唄舞の花崎杜季女さんも加わって、独自の世界を現していました。観ていて、民族性と洗練されたグローバルな感性のバランスというものを感じました。

桜井さんは以前にもブログで紹介しましたが、クラシックから始まって、日本の古典に戻り、雅楽や声明、白拍子などを研鑽研究し、更にそのルーツであるユダヤ、アラブにまで至る活動を展開しています。一方花崎さんも地唄舞を土台にして、海外に積極的に飛び出して行っています。私も洋楽から始まり、邦楽・雅楽に至り、また邦楽を離れシルクロードを辿り、外側に目を向けている。こうして見ていると、何かしら共通する仲間というものは自然と集まってくるのだな、とつくづく思いました。

日の出2

今年の新年のテーマは「洗練」と書きましたが、民族性と洗練は時に相対するものでもありますね。単にどちらかに舵を切るという単純なものではないとも思います。世界が繋がって来ている現代で、この風土と歴史がもたらした類まれなる日本人の美の感性を、世界の人に感じてもらえるような表現をする事こそ、日本の芸術家の仕事だと私は思ってます。これからは微力ながらも、こうした事に残りの人生を費やして行きたいですね。

世界の中の日本という意識は、現代に於いて大変重要なキーワードになると思いますが、世界中に物事が発信され、また世界の情報が一瞬にして入ってくる、この現代に生きる人々の感性を考えれば、表現者側も当然意識は変わってくると思います。以前と同じ感覚ややり方をやっていたのでは、日本国内でも相手にされなくなるのは当たり前です。既にマーケットは国内に留まらないのだし、私ですら世界の人がネットで観て聴いて感想を送ってくる時代です。そんな時代だからこそ、私は自分の音楽を単なる珍しい民族音楽ではなく、世界に数ある素晴らしい音楽の一つとして届けたい。桜井さんや花崎さんも同じ想いだと思います。

高橋竹山1かつて高橋竹山はアメリカの聴衆を魅了しました。それは彼が即興演奏に秀でた能力があった事と、海外のオーディエンスを対象にしてプロデューサーが売り込んだから成功したのです。
結局は「眼差し」がどこを向いているか、そこに行きつきます。竹山の三味線も民謡の名人と言うだけで売り込んでいたら、アメリカ人は感応しなかったでしょう。ジミヘンやコルトレーンにも勝るエモーショナルな音楽として紹介したからこそ、彼の音楽は、まるで霊魂探知機でもあるかのように、我々の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」

と評されたのです。そのように評されるには、そのように魅せる事が必要なのです。竹山の音楽に、海外の人を魅了する魅力と可能性を、プロデューサーが見抜いていたのでしょう。

では今、どうやったら日本から世界へと音楽を届ける事が出来るのでしょうか?様々なアプローチがあるでしょう。様々なアプローチをする人が居るべきです。

中でも、言葉や語りが命とも言える邦楽では、言葉の問題は、今後世界に向けた音楽をやって行く時に、大きな問題になると思います。竹山の三味線も尺八古典本曲も歌や言葉の無い器楽だったからこそ、ダイレクトにその音楽が浸透して行ったのは間違いない事実でしょう。勿論日本人とは違った感じ方とは思いますが、何かを感じ取ってくれたのは間違いないと思います。
これからは従来のやり方ではない、新たな声の表現、言葉の在り方というものを突き詰め、言葉の根底にある日本独自の感性を表現するような人が、邦楽の分野に是非現れて欲しいと思います。

huji2

私は常に自分に「問いかける」という事をしています。「自分の音楽は何なのか」「何故それをやるのか」etc. 様々な「問いかけ」があるからこそ、色々なものに触れようとし、吸収も出来る。「問いかけ」が無くなった時には形骸化が起こり、輝きを失い、アーティストとしては存在できなくなるでしょう。「琵琶はこういうものだ」「こうでなくてはいけない」というような硬直した感性では、その輝きは、とてもじゃないけど保つことは出来ません。何物にも囚われない無垢な精神があってこそ、音楽や芸術はその命を育んで行く事が出来るのです。邦楽が今、どんどん衰退しているのは、その原因が演者側の意識に問題があるのではないでしょうか。

2012-5色々なものが存在し、広く間口があるのは良い事だと思います。しかし私は邦楽器でポップスをやったからといって、洗練されたとも思いませんし、世界に出て行けるとも思っていません。多少話題になって、演奏する機会も多少は増えるでしょう。また従来の邦楽関係者からすると、ポップスやアニメソングをやるのは画期的かもしれません。しかし外側から見ると別に何の楽器でやってもポップスはポップス。同じ事なのです。しかも音楽ではなくパフォーマンスとしてしか映らない。
リスナーが求めているのは「楽器」「技」ではないのです。皆、日本の魅力ある「音楽」を聴きたいのではないでしょうか。琵琶でも三味線でもサックスでもピアノでも、楽器を見せる聞かせるのではなく、むしろ楽器は洋楽器でも、そこに日本独自の感性があるかどうか。どんな魅力的な音楽をやってくれるのか、それを期待しているのではないでしょうか。

話題性も必要だし、過程の一つとしてそういうものも大事かもしれません。しかしそれらも明確なヴィジョンありきで動いて行かないと、ただの賑やかしで終わってしまいます。少なくともこれからの私の人生で、そういう一過性のエンタテイメントをやってる時間は無いのです。
私は日本の音楽、それも形骸化したものではない現在進行形の日本音楽。リアルな日本の音楽、そして私独自の音楽を届けたいのです。

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