いのちのリズム

この所の暑さは半端ではないですね。今年はちょうど良く(?)風邪気味なので、家でのんびりして譜面など書いております。おかげで今一つ完成に至らなかった作品がいくつも仕上げを終えることが出来ました。

相模湖3相模湖

近頃どうも音楽を聴くにつけ、街行く人を見るにつけ、何かと違和感を感じる事があります。ちょっと抽象的なのですが、東京の街中を歩いていると、どうもリズムが狂っているように思えて仕方がないのです。皆様はどうお感じでしょうか。
今時は電車の中でも食事をしていてもスマホ、中には面と向かって話をしていながらもスマホを握りしめて、ちら見している姿がどこでも当たり前のようですが、どう見てもまともではないですね。まだ判断の効かない子供ならまだしも、40代50代の大人までもがそんな姿を晒して、それがまるで普通だとでもいうように世の中に蔓延しているという事は、もう世の中自体が狂っているのでしょう。だから街行く人のリズムがおかしいのです。何かにせかされ、何かに乗せられ、自分本来のリズムで生きていないように思えて仕方がないのです。歩き方は勿論、コミュニケーションの在り方、物事に対する反応等々・・・色々な所が狂っているように感じます。これでは我々の子供たちの世代にも大きな影響が出てくるでしょうね。幸い私の周りには、そういう人は少ないですが、いい大人が何故気が付かないのでしょうか???

genkouan4

私は教室はやっていないのですが、たまに人に琵琶を教える機会があると、円運動の話をします。それは自然とその人其々に備わっている「気の流れ」とでも言いましょうか、空気の循環なようなものを自分の中に先ずは感じるように言います。何にも影響されず、自身も何も構えない、一番自然な状態で出て来る大きな気の流れ=円運動=リズムを自分で感じられると、おのずとその人なりの姿に成って来て、他からの押しつけでない一番素直な身体が発する本来のリズムが感じられる事でしょう。その時にテクニックというものがあれば、そのリズムがその人の音楽として成就して行くのです。

鶴田&武満

先生のやる通りなぞって真似してというのが今までのやり方でしたが、現代社会の生活に於いては、習う方が自分のリズムを見失っているせいか、先生を真似ても、それを自分の呼吸に合わせて、自分の音楽として響かせて行く事が出来ないのではないか、と思います。まあ真似すべきまともな中身を持った先生も、どれだけ居るのだろう?という気もしますが、自分の呼吸や円運動自体が判らないと、ただのコピーになって、結局は身に付かない。ただのそっくりさんをよく見かけるのもそのせいでしょうか。

夕陽4巷では音楽も打ち込み系のものが圧倒的に多くなり、間で語って行く日本音楽もどんどん減って来ています。打ち込みをバックにした和楽器のバンドも、今花盛りです。それが現代という時代なのかもしれませんが、時代の流行に乗っかるのが音楽ではなく、あくまで時代をリードして創って行ってこそ、音楽と、私は思います。私はあのような和楽器のバンドを聴くと、二昔くらい前の歌謡曲に化粧を施し、表面の形を変えたように聞こえるのです。先進性は微塵も感じないし、アレンジも平凡。とりたてて目新しいものは見えず、パフォーマンス以上のものは感じませんね。話題性だけで成り立っているようにしか見えません。

流行に乗っかっているだけでは、ただの付和雷同。派手な化粧や衣装で舞台に立っても、時代に媚びているような音楽では賑やかしでしかありません。何時も私が書いている、正統派だの何だのと肩書きぶら下げて舞台に立っている輩と、ようは同じ。志を持っている若者には時代を切り裂き、次の時代を感じさせるような「音楽」をやって欲しいですね。パーフォーマンスではなく「音楽」を!!。宮城道雄や永田錦心が次の時代を切り開いていったあの精神、そして革新性をもう一度感じて欲しいものです。

柿田川1忍野八海1

柿田川

話がそれました。
人間だけでなく、植物も全て命あるものにはリズムがあります。響き合っているという人や、波動という人、私のように円運動、気の流れ等々、色々な言い方表現の仕方が出来ると思いますが、生命が宿る以上必ずそこには何かしらの運動があるのです。その運動のリズムが狂えば色々な所にその影響が出るのは当たり前。今、地球という生命体のリズムさえ狂い始めているように思う人も多いのではないでしょうか。

また現代はあまりに物や情報が溢れているので、他と比較しながら自分のペースを作ろうとして、自分のリズムを狂わせている人が多いようにも思います。純粋に自分らしく生きるという事が今ほど難しい時代も無いでしょう。しかしこういう時代だからこそ、何にも寄りかからず、何にも振り回されず、淡々と自分の行くべき道を歩み、自分のリズムを保っていたいものです。それが出来る人は健康だし、何時も笑顔で、素敵な音楽を創っています。誇大な宣伝も、派手な衣装も化粧も要らない。ただ、自分自身であり続け、自分の中から湧き上がる音楽を奏でていれば良いのです。余計な装飾や衣は無い方が良い。

潮先先生私の恩師、ギタリストの潮先郁男先生は「

人と比較してはいけない。自分のグルーヴを大切に。それぞれの技法があるのだから。今の自分のスタイルを磨いて行くのが大切」と、こういうアドヴァイスを、とある歌手の方にしていました。私が先生の所に通っていた頃も、一人一人の生徒に対し、「自分が好きなものより、自分らしい、自分に合ったものをやりなさい」とアドヴァイスをしていたのを想い出しますが、現在でも現役として毎月舞台に立ち、絶大な信頼のある第一級のプロとして、60年以上に渡り音楽の世界を生き抜いた方の言葉は深いものがありますね。

自らの命が発するリズム。そのリズムを感じるからこそ、色々なものをまともに感じる事が出来るのです。世に溢れる多くの物、出来事、人、情報・・・そんな様々なものに出会っても、自分のリズムがしっかりあれば振り回される事はありません。
素直に生きていれば、あるがままで自由に居られるはずです。どんな場に在っても、ありのままの自分でいる、その自然な姿がものを生み出し、次の時代へと導いて行く一番の根幹ではないでしょうか。世の常識や流行に流されることなく、肩書きのような世の虚構に惑わされることもなく、何物にも囚われない純粋な心を常に持っていたいものですが、その為にも普段から生命のリズムを感じながら日々を過ごしたいものです。

さて、また譜面に向かいますか・・・。

器楽の魅力

真夏の暑さが続きますね。この暑さの中、珍しく先週から夏風邪を頂いてしまい、外出もままならなかったので、家でゴロゴロしてました。

この所頭痛が続き、ぼんやりして過ごしていましたが、やっと少し頭がすっきりしてきたので、音楽を聴こうと思い、久しぶりにViのヴィクトリア・ムローヴァ、Celloのマリア・クリーゲルの演奏を聴いたら、これがあまりに直球で入って来て、風邪も大分吹き飛んでいきました。

普段からそれなりに聞いているCDだったのですが、健康な時は自分でも知らない内に、何か拘りや構えのようなものがまとわり付いているのか、これ程には響いて来ませんでした。「聴いてやる」的な姿勢がどこかにあったのかもしれませんね。それが体調に少し問題があることで、そんな構えがなく、素直に音に身を浸し聴くことが出来たのかもしれません。

      マリアクリーゲルヴィクトリアムローヴァ

お二人とも勿論世界の超一流ですので、凄いのは当たり前なんですが、その表現の淀みの無い自由さ、大きさにはただただ感激するばかり。お二人が人生をかけて音楽に取り組んでいる姿までも感じられました。正に脱帽です。そして楽器の表現力の豊かな事。素晴らしいという言葉以外に何が出るでしょう。ここまでヴァイオリンやチェロが音楽を豊かに奏でるには、果てしのない長い時間を何千何億という人々がこの楽器に関わり、研鑽をつみ、革新と洗練を繰り返し、受け継がれてきたからでしょう。そして演奏家としてここまで楽器で表現するには、極限に立つような技術と感性、哲学が無いと、とても出来るものではありません。ただなぞってお上手にやっているのとは訳が違うのです。

こういう素晴らしい演奏を聴く度に、琵琶の現状が悲しくなってしまうのですが、とにもかくにも現時点で薩摩琵琶には器楽という発想自体が無いので、奏法的な研究・探求がほとんどされていないのが残念でなりません。楽器である以上この部分を逃げていては、洗練も発展も無いでしょう。勿論私なりにやれることはかなりやって来ているとは思っていますが、私一人がCD出したり、演奏会を回ったりしている位では、とても力及ばず・・・。
どんな楽器にも歌はある。歌と共に楽器も発展してきたのは歴史を見れば明らかです。雅楽だって最初は唱歌をばっちりと習います。しかしだからといって、「歌わないと音楽に成らない」という事は無いのです。あらゆる楽器に、その音色でないと実現できない魅力的な器楽の世界があるではないですか。どうして琵琶には無いのでしょう??まだ薩摩琵琶は誕生して間もないからでしょうか。

べック1器楽が発達するという事は洗練され、発展しているという事です。器楽の発展によって楽器自体もどんどん洗練されて、その世界は大きく発展し、多くのファンも獲得している事でしょう。ロックギターもジェフベックが75年に出した「Blow by Blow」によってロックのインスト、つまり器楽分野を確立したからこそ、世界のギターキッズが熱狂したのです。ギターテクニックの底上げにも著しく貢献しました。
琵琶ではノヴェンバー・ステップスやエクリプスという世界に響き渡った器楽曲があったにもかかわらず、そこからほとんど受け継ぐことがありませんでした。鶴田錦史が弾いた通りにカデンツァの部分をなぞって譜面にし、流派の弾き語り曲と同じにお稽古でやっているようでは・・・・。だから私は流派のしがらみを避けて、自分で何でも作曲するのです。誰もやらないのなら自分がやるしかないですからね。

日本の音楽では、筝でも三味線でも、既にその洗練を経て宮城道雄や、沢井忠雄、高橋竹山のような世界に誇る器楽演奏家が出ている事は、実に誇らしい事。それを思うと、いつまでもコブシ回して唸り声をあげることに終始している琵琶の現状がもどかしい限りです。

八橋検校八橋検校

特に筝に於いては、「みだれ」という世界に冠たる器楽の名曲(筝独奏曲)が江戸時代に生まれています。皆さんもご存じだと思いますが、近現代の西洋の名曲と比べても一歩もその魅力は劣りません。むしろひれ伏すのではないか、と思えるほどに完成度が高い。作曲者の八橋検校は1614年に生まれ、1685年に亡くなっています。亡くなった年にバッハが生まれています。つまり西洋音楽とは全く違う
アプローチで、バッハ以前にあの名曲を書いているのです。加えて、現代の筝という楽器を作ったのもその大きな仕事です。八橋検校以前は、まだ雅楽で使
う筝で、雅楽ではない曲を弾いていました(筑紫筝など)。八橋検校が新しい筝を開発した事で、現代に続く筝曲というものが誕生したのです。

時代を作る人というのは、楽器から曲から、音楽の在り方から、何から何まで創り出してしまうのですね。

ルーテル薩摩琵琶の器楽部分が発展して行くと、歌もどんどんレベルが上がって行くと思います。琵琶唄も独立して、色々な楽器との共演も出て来るでしょう。私も筝の伴奏で琵琶唄をよく唄っています。そしてぜひ弾き語りだけでなく、声と琵琶別々の人が担当する形をぜひ確立したいと思っています。そうなってきたら異種格闘技的な曲もどんどん出来上がって、歌も楽器もレベルは更に上がるでしょうね。器楽の分野を確立して行くのは、三味線や筝の例を見るまでもなく、今後琵琶楽にとって必須だと思います。あらゆるタイプの多くの曲が作られ、その曲が世界に向けて発信されて行ったらいいですね。

その為には迸るような創造力や感性はもちろんのこと、技術だって果てしないほどに高くなければ、次の世界の扉は開かない。表現は常に次の扉に向かい続けなければ、淀んでしまう。表現活動をするという事は、死ぬまでその先を求めるという事なのです。手慣れた曲をいつも通りにやるようになったら、表現者としてはもう終わり。

4薩摩琵琶でも樂琵琶でも、私が魅力を感じたポイントはその音色です。だからこそその音色が一番輝くようにしたいのです。その為には最高の音が出るように改造もどんどんします。三味線も筝もそうやって世界を創ってきたし、薩摩琵琶も正派から錦心流、錦、鶴田流と、戦争をはさんだわずか50年程の間の短い期間に楽器を改良し、新しい曲も作ってきました。私は更にその先へどんどんと行きたいと思います。

私は現在の薩摩琵琶の姿を、芸術音楽の姿に変えて行きたいのです。大衆芸能的な形で人気を博してきた薩摩琵琶ですが、私はもう少し深い表現をして行きたい。喜怒哀楽という目の前の感情ではなく、もっとその先の世界を奏でる音楽であって欲しい。そして何よりも楽器が自由に鳴り響き、この妙なる音色で、聴衆を魅了させたい。それにはやはり器楽としての薩摩琵琶を作り上げなければ!!
のんびりとはしていられないのです。

宝探し2014

毎年この時期になると、SPレコード発掘の楽しみがあります。8月は何時も琵琶樂人倶楽部でお世話になっている名曲喫茶 VioronにてSPレコードコンサートを私が担当しているので、Violonのマスターと連れ立って、SPレコードの買い出しと神保町のカレー屋さん探索が毎年の恒例なのです。

  ヴィオロン蓄音機3ヴィオロン蓄音機2

Violonにある蓄音機は、かの名器ヴィクトローラ・クレデンザ。その奏でる音は実にふくよかで、情感に溢れ、今私達が失ってしまったものを思い起こさせてくれます。単に懐かしいレトロな感じというのではなく、音楽の持っている生々しい気迫のようなものを感じるのです。SPレコードならではの魅力ですね。ぜひ一度体験してみて下さい。

昨年は「女流の時代」というタイトルで、女流琵琶奏者に加え、市丸、佐藤千夜子、喜波貞子等、明治~大正~昭和にかけて活躍した女性達を特集しました。今年は「男声に酔う」というタイトルで男性陣中心のプログラムを組んでみました。錦心流の大館錦棋(旗)、田村㴞水、松田静水、テノールの藤原義江、奥田良三等々、ちょっと他では聞けないものを解説付きでかけさせて頂きます。乞うご期待!

永田錦心

このSPレコードコンサートは、元々永田錦心の「石童丸」を聴きたいという所から始まって今年で6回目。今回は永田の弟子達を特集します。いかに弟子たちがその志を受け継いで行ったか、その辺りを感じて欲しいと思ってます。
現代の琵琶のスタイルを築いた永田錦心は、昭和2年に亡くなりましたが、最後まで病身をおして、ツアーに出て、あの当時ではまずありえない海外公演までこなし、自らも「琵琶と戦い通すのだ」と最後まで言い張って、精力的に活動を展開し、42歳で亡くなりました。その気迫、そして気骨ある精神は、後輩達に大いなる影響を与えた事でしょう。それが今やどこまで伝わっているのか???
時代と共に物事の在り方が変わるのは良い事です。しかし時代に振り回されてはいけない。時代を切り開いて行く精神がなければ、ただ浮いているだけの付和雷同に過ぎない。時代の最先端を走り、次の時代を切り開いて行くその志が永田錦心という人生を生み出したのです。

永田錦心の言葉はこれまでに何度もこのブログに載せていますが、その純粋な心に共感してくれる人も多いのです。是非今の琵琶人にこの志を受け継ぐ人が一人でも多く出て来るといいですね。
アイルランドの詩人イエイツは「我々自身が流す赤い血以外に、あるべき薔薇を育てることは出来ないのだ」と言っています(薔薇とはアイルランドの自由と独立を意味します)過激で強烈な詩ではありますが、永田錦心は正にこれを地で行ったのです。

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SPレコードはこういう先人の想いや時代の息吹を感じることが出来るのが、何と言っても良いですね。ただの懐古趣味で聞いても良いですが、私はレコードから、彼らの気迫と志を感じずにはいられません。
蓄音機はレコード一枚ごとにぜんまいを巻き、鉄針を取り換えて音楽をかけます。とにかく手間がかかります。しかしその音は実に生々しく迫ってくるのです。現代はノイズの全くないクリアな音が当たり前ですが、SPのような生々しさはあまり感じられません。何故でしょうか?それはノイズやエコーなどの音楽以外のスペックを上げても、演奏者の「一度限り」という気迫が少ないからです。やり直しが全く効かない状況で、下手な演奏をしたら、それがずっと世に残ってしまう。皆命を削るような真剣勝負をやっていたからなのです。また録音の機会を与えられるのは、本当に限られた一握りの人のみ。現代のようにお稽古事レベルの人がCD作って、レコ発なんてやっている時代とはその意識レベルが違うのです。

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現代はあらゆる面で便利であり、平等な機会を与えられており、経済的にも豊かで、何から何まで発展してきていますが、その発展の途中で失ってしまったものも実に多いのです。ネットで世界と繋がっている反面、イイネを押してくれる同レベルの仲間と常につるみ、その小さな村の中で生きているような姿をよく見かけます。現代人が便利や豊かさと引き換えに確実に何かを失っているのは、誰もが感じながら現代を生きているのではないでしょうか。
SPレコードを通し、単に過去の演奏を聴くというだけでなく、何が大切なのか、何を失ってはいけないのか、何を残し、受け継いで行くべきなのか、そんな所に想いを馳せるのも、時には良いのではないでしょうか。昔に憧れ、昔に戻るのではなく、未来を生き抜く為に、過去を見つめ直す事はとても良い事だと、私は思います。

SPレコードにはお宝がいっぱい詰まっているのです。

8月17日(日)
琵琶樂人倶楽部第80回SPレコードコンサート「男声に酔う」

夕方6時開演(いつもより開演時間が早くなっています)
1000円(コーヒー付)

於:阿佐ヶ谷ヴィオロン

時代の中で

先日はコレド室町にある橋楽亭にて、藤山新太郎師匠の手妻と演奏してきました。

橋楽亭

新太郎師匠と一緒に居るととにかく面白い。楽屋は勿論、車で移動している時なんかにも色々な話を聴くのですが、この間は「ずっと売れ続けている人」と「旬を過ぎると消えて行く人」は何処が違うのかという興味深い話を聞き、思わず納得してしまいました。
ずっと売れている人は、落語家だろうが、漫才師だろうが、音楽家だろうが、皆時代と共にその芸が変わって行くとの事。確かにそうです。こういうフレキシブルな姿勢が無い人は、一時的に売れてもすぐに忘れられていきますね。別に時代に媚を売るという事ではなく、自分のスタイルを貫きながらも、時代といかにコミットして生きているか、という事です。

これはジャズの世界でも以前より言われている事で、もう何十年も前に、とある日本を代表するジャズプレイヤーがマイルスデイビスについて、「我々は一度作り上げた自分のスタイルを壊すことは出来ない。逆に必死になってそれを守ろうとする。しかしマイルスはどんどんと進化して、世界一のものを作っても、常にその先のNext Oneを求め続けている」と言っていたのを今でも思い出します。素晴らしいですね。これこそが舞台人として、芸術家としての姿勢だと思います。今の邦楽人でこういう姿勢を持った人はどれだけいるだろうか????

藤山新太郎1一流と言われるような人は、常に時代と共に在るからこそ第一線でいることが出来るのです。10年前と今では同じ演目をやっても違うのが当たり前。個人は勿論ですが、社会が変わっているのですから、此方も聴衆も当然感性が変わって行くのです。新太郎師匠の凄味は、江戸時代の演目を現代の形にして、自分独自のスタイルに作り変えたという所です。そして常に現代のお客さんに向けた演目と内容を考えているからこそ第一人者と呼ばれるのです。

例えばバッハをやるにしても、バッハの時代と今では楽器も違うし、社会そのものが違う。だから現代という時代に於いて、バッハの音楽はどういう意味があるのか、何故バッハをやるのか、考え、研究し、その人なりの答えを一つの表現として演奏する。そして一度答えが出たからと言って、それに胡坐をかかない。常に問い続けている。琵琶人にはこういう部分がけ決定的にかけていますね。
バッハはこうして色々なアプローチで演奏されているから、今でも燦然と輝いているし、バッハの新たな魅力の発見にもなるし、同じ演奏家のバッハでも若い頃のものと壮年期のものとでは違うのです。このようにして古典というものはいつの時代にも汲めども尽きぬ魅力を放ち、世の人々の心の中に刻まれてゆくのです。古典は時代と共に色々なアプローチがなされ、深まり、更にその魅力が満ちて来る、そんな秘めた力があるからこそ、長い時間を生きることが出来るのです。

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邦楽では、常に「古典」という事が付きまとっていますが、古い曲をやるだけなら、それはただのお稽古ごとのおさらい会です。現代に於ける古典の意味というものを考え、古典以外のものも含めて旺盛に研究勉強をし、現代の中の古典という認識がなければ古典は古典として成り立たないのではないでしょうか。音楽は、刻々と変わりゆく社会に対応した形で在るからこそ、音楽・芸術として評価が付くのです。
現代日本では音楽といえば洋楽が基本になっている事はどうにもならない事実。演歌でもJpopでも、どの分野でも洋楽=音楽であり、全て五線譜で書かれています。こういうことに背を向けるという事は、世の中に背を向けていると同じ事なのです。好きでも嫌いでも、今この現実を受け入れた上で、自分の音楽を発信しなければ、ただの仙人(悪く言えばオタク)になってしまいます。社会の中に在ってこそ「古典」はその存在意味があると私は考えています。

2012-5自分の意志を貫くのは大切な事。同時に音楽でも自分でも、それらを取り巻く社会に対し広い視野を持ち、自分自身も自在に変化して行く事も大事です。このバランスが取れる人だけが舞台に立てるとも言えます。それこそがこの道一筋であり、ただ同じものを世の中を関係なくずっとやり続ける事ではありません。
私は古典作品だろうが流派の曲だろうが、あくまで私のスタイルで演奏します。古典にはリスペクトを欠かしませんが、表面をなぞる事はしません。それはかえって失礼だろうとも思っています。どんな作品でも現代に生きる自分の音楽として舞台にかけてこそ演奏家。それが矜持というものです。
自分なりのスタイルを築き上げる事こそが、薩摩琵琶の発祥の時から続く精神というものではないでしょうか。少なくとも私はそうありたいと思っています。

社会も時代も、個人もどんどん変わる。まさにパンタレイです。音楽家にとって一番の魅力は「今現在」であって、その現在の姿からNext Oneへの期待を抱かせ、その可能性が感じられるからこそ聴衆は付いてくるのです。過去にすがり、組織にすがり、名前や権威を誇示しているようでは、もうすでに舞台人として終わりです。

日の出3

邦楽界にも志ある人は沢山居ます。大御所と言われる方の中にも、古典に対し様々なアプローチをしている人も居るし、若手の中にも期待の出来る逸材が居ます。今後邦楽が、日本の音楽として迎えられて行くようになるのなら、つまらない肩書きや受賞歴みたいなものは邦楽から剥がれてゆくでしょう。そういう風にならなければ、残念ながらもう邦楽には、音楽としての未来は無いでしょう。
邦楽はきっとこれからが面白くなる!。私はそう思っています。

古典や歴史に対する尊敬の念と共に、変わる続ける力こそ、次代を創る原動力なのです。

みちなるもの

先日は台風一過、見事な虹が出て、次はスーパームーンという素敵な自然の贈り物に、ちょっと陶酔してしまいしまたね。残念ながら、私の安カメラでは手ブレで月の輪郭がつぶれてしまいましたが、月の外側の月傘が判るでしょうか。久しぶりに出逢った見事な月でした。

スーパームーン2014-7-12 (1)

月の影響というのは何かあるのでしょうか。この所陶酔に浸れるような音楽を聴きたくて仕方がありません。しかし現在邦楽は今、陶酔という言葉からは程遠いですね。70年代日本の、あの熱狂と陶酔のような時代はもう来ないのでしょうか。

2014-4-9-3桜井さん
先日、いつも琵琶樂人倶楽部でお世話になっている桜井真樹子さんのお仲間で、灰野さんという前衛の分野で活躍している方からお声がかかり、灰野氏、桜井さんそれに私の3人で音楽談議をしてきました。久しぶりに突っ込んだ話をたっぷりできて楽しい時間でした。以前はこうして朝まで議論を交わしていましたが、最近はこういう機会が少なくなりましたね~~。今回は桜井さんからの思わぬ情報で、何やら期待出来そうな感じに話が進みました。灰野氏曰く「新しいというよりは、今までにないものをやりたい」とのこと。この辺りに私もピンときました。「みちなるもの」が出て来そうです。灰野氏とはリンクする所が多そうですので、今後が面白くなるかもしれません。

永田錦心や鶴田錦史は他の誰でもない世界に唯一のスタイルを誇って舞台に向かいました。だからあの熱狂と陶酔があったのではないでしょうか。今ほとんどそれらが感じられないという事は、今までにないもの=「みちなるもの」が出て来ていないからかもしれません。宮城道雄をはじめ、永田・鶴田・武満・小澤・黛・土方等々あの時代を代表する方々は、今までに無い「みちなるもの」を世に示したからこそ、人々が熱狂し、陶酔し、時代を作って行ったのではないでしょうか。

土方巽土方巽

誰にでも出来る訳でもないのは勿論の事ですが、だからといって我々が、○○流の先生の後を追っかけているだけで良いのでしょうか。中には先生の声色から癖までそっくりなんていう人も居ます。そこまでコピーするのが偉いとでもいうように・・・??。たとえ実現出来なくとも、「みちなるもの」を目指すのが舞台に携わる者の姿勢だと思いませんか。「守・破・離」という言葉がありますが、お稽古した十八番を相も変わらずやって、創るという事を忘れてしまっているのが現状ではないでしょうか。これこそが今、邦楽から聴衆を遠避けている最大の原因だと私は思います。

私は高円寺に20年も住んでいたせいか、「歌にするしかないんだ」とばかりに叫びながら歌う若者達と6ずっと付き合ってきました。少し前にもこのブログで尼理愛子さん(右写真)というミュージシャンを紹介しましたが、彼女の何に魅力があるのか?それは何と言ってもあのオリジナルな世界観にあるのです。加えて旺盛な活動ぶりや、どこまでも自分の生き方を貫いている姿勢、それらが皆彼女の魅力となってファンが付いてくるのです。この熱い想いと行動は邦楽にも必要だと思いませんか。

巷では若者は勿論、40代50代60代でも熱い想いを持ってライブやっている人達は沢山居ます。そんな我が身から湧き上がるものを音楽にしているものと、お稽古で上手に弾けるようになったものをやっているようなものとでは、もう比べようが無いのです。同じ土俵では語れないという人も居ますが、音楽は音楽。聴衆は同じ音楽として聴きます。如何でしょうか?

永田錦心や鶴田錦史は自分のコピーをやる人を歓迎したとは思えません。自分を乗り越えて琵琶楽の新たな世界を見せてくれる人こそ願っていたのではないでしょうか。永田錦心の残した言葉を今までにも何回かこのブログに載せましたが、次世代を切り開く人こそ求めていたのはその言葉からにじみ出ています。

パガニーニパガニーニ

上手というのは、既に固定化された価値観の中に居るからそういう言葉が出て来るのです。対して「みちなるもの」はそんな所には居ない。固定化形骸化された判断基準そのものが無いのです。今迄に無いものだから上手も下手も無い。人々を惹きつけるかどうか、それしかないのです。私がいつも書いている肩書き、看板等を掲げているような人々は、結局既に引かれたレールの上で自慢し、自己顕示欲にかられ自分を形あるものとして大きく見せようとしているに過ぎないのです。
世阿弥も利休も、ジミヘンもパガニーニも、熱狂と陶酔を生み出した人々は、その時点で皆「みちなるもの」だったと思います。それらに接した人は、これが良いのかどうかすらわからない。ただただ圧倒的なその世界に惹き付けられたのです。新しいセンスを提示し、価値基準を作り上げ、それを認めさせてしまう。「みちなるもの」を「みちでないもの」にしてしまう、これこそが熱狂と陶酔を生み出すのでしょう。

takemura

私は及ばずながら、少しづつでも「みちなるもの」に向かいたい。

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