我流

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邦楽をやっていると、長い歴史に育まれた優れた日本の文化や、それに取り組んでいる人に出会う事がとにかく嬉しいですね。ご存じのように能は室町時代に、各座独自の美学と様式を築き、洗練と深化を500年以上に渡って繰り返してきました。近世の長唄も同様です。そういうものは個人一人がちょっとやっただけではどうにもならない、知と経験の蓄積があります。私は常々こうしたものに触れ、また真摯に取り組んでいる人に会うと、本当に頭が下がります。心から素晴らしいと感じずにはいられません。

勧進帳ただ能や長唄のその豊富な知の蓄積はそれはそれは凄いのですが、音楽や演劇というものは常に時代と共に在り続けないと、芸術だろうが流行ものの芸能だろうが、衰退して行きます。雅楽のように国で権威として保護しているものは別として、能は武家の保護が無くなった明治からは実に凄まじい創作活動をしてきました。先日書いたイェイツの作品を能にしたり、新作能を次々と作ったりすることで、古典もまたその魅力を輝かせていったのです。長唄も同様にどんどん新作を作り、今でも創邦21や五韻会等色々な団体が、旺盛な創作活動をしています。こういう旺盛な創作力があるからこそ、創造と継承の両輪が回り、古典も次代へとつなげていくのです。

しかし中にはその伝統の中に埋没し、胡坐をかき、自分を飾り、自己顕示しているような人も残念ながら見かけます。我々は舞台が全て。エンタテイメントでもアートでも、観客に支持され、共感を持って受け入れられ、評価されてなんぼです。そこをすっかり忘れては誰も相手にしてくれません。琵琶の世界はどうでしょうか・・・・・・?。

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薩摩琵琶のようなまだ出来上がって間もないジャンルでは、プロでやっていけてる人が数人しか居ないのですから、我流や正統という程の歴史はありません。オールアマチュアだからこそ、「これは正当」「あれは我流」などという区別をしたがって、そうやって肩書きという鎧で自分を守ろうとするのです。それは一番芸術からかけ離れた心であり姿勢であり、そこには謙虚や真摯という言葉は感じられませんね。

永田錦心の創り上げた錦心流は勿論、他の芸能も最初は一人の頭脳から始まりました。その時点では、旧価値観からすれば我流でしょう。永田錦心は旧琵琶人から強烈な攻撃を受け、血判状まで送りつけられて「琵琶界から去れ」と脅されたり、命の危険すら感じたという事ですが、永田錦心以前の薩摩琵琶には、明確な様式や美学というものが確立しておらず、薩摩という仲間意識があるだけで、全くの個人芸=俺流状態でした。そこに新しい感性を持ち込んで、独自の美学を確立し、明確な形を確立したのが永田錦心です。ずば抜けて優れたものや時代を先取りしたものはいつの時代も標的にされるのでしょうが、世の中の聴衆は正直でした。永田錦心を圧倒的に支持したのです。創流からわずか10年も経たない間に全国に広まり薩摩琵琶=錦心流という程になり、更に次の時代を創って行った水藤錦穣や鶴田錦史も永田錦心の元から出たのです。

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随分前に私がお付き合いさせて頂いていたとある先輩は、正に我流の見本のような人で、体をよじりながらフォークギターのようにリズムを刻み、歌謡曲なんかをよく琵琶弾きながらライブハウスで歌っていました。確かに我流ではあったと思いますが、活動は地道にしっかりやっていました。現在協会や流派の先生で、旺盛に演奏活動している方は見たことがありません。流派のお浚い会以上の活動をどうしてしないのか・・・肩書きだけはいつも立派なのですがね・・・?。

どんなものでも評価をするのは観客であって、流派や協会の人ではないのです。錦心流も世の中に支持されたからこそ、今に続いているのです。何十年お稽古に通っていても、一人で音楽をやっていても、そういう事に関係なく、舞台に於いて素晴らしい演奏をし、作品を残す人だけが評価されるのです。でなかったら20代で錦心流を打ち立てた永田錦心はありえない。

永田錦心稽古とは習う事ではなく、自分で考え、自分で学んで行く事です。ただお稽古事に通っているというだけではどうにもならない。これが判らないようでは、どんなに有名な先生や流派に就いても、何時まで経っても音楽は響いてきません。お金を吸い取られ、余計な肩書きが増えてゆくだけです。結局はその人の姿勢や意識のレベル+知能、能力の問題です。知性を磨こうとしない人、自分は知性に溢れていると思い込んでいる人は、いつまでも小さな村意識の中に留まり、そこまでの事しか見えないし、出来ないのです。音楽を聞けば、その人のレベルは自ずから見えてしまうものです。

永田錦心は、都会的な洗練を琵琶楽にもたらした功績を考えると、きっとドビュッシーなどを聞いていたのではないかと思います。「牧神の午後への前奏曲」は明治27年に発表されているので、当時の日本にも入って来ていた事でしょう。東京に居て、画家でもあった永田錦心だったら、当然のように世界の音楽・芸術の最先端を観聴き、その感性を吸収していた事と思います。「洋楽を取り入れた新しい琵琶楽を創りたい」と言った彼の発言を見ても、彼の視野は既に世界に向いていたの事は間違いないと思います。そこには我流も何もないのです。純粋なる芸術的精神に溢れていたのだと思います。

我々は音楽を聴いてもらい、それに評価を頂くのが仕事。ごたごたと並べたてる前に、音楽をやろうではないですか。舞台に立って観客に評価してもらおうじゃないですか。どんな口上をノタマッテも出て来る音楽に魅力が無ければ始まらない。
「長口上は芸の妨げ」。舞台が全てなのです。

自己の思い込み、思い上がりではなく、聴衆にとって魅力ある琵琶楽をどんどんと創って行きたいのです。志のある方、是非是非一緒に頑張りましょう!!

ヴァイオリンはうたう

先日、ヴァイオリニストのグレブ・ニキテンさんの演奏を聴いて来ました。二キティンさんは、現在東京交響楽団のコンサートマスターで、ソリストとしても色々な所で演奏し、指揮者としても活躍している方です。知人からの情報で馳せ参じたのですが、今回はアマチュアオケのゲストという事で、杉並公会堂の大ホールにもかかわらず何と入場料が1000円!アマオケだけの会は何度となくここで聴いていたのですが、一流のプロがソリストで来るというのはまずないので、当日券目当てで、絶対に行列はしない私が並んで入りました。

グレブ・ニキティンニキティンさん
曲はチャイコフスキーのViコンチェルト。定番ものですが、力みのない余裕溢れる演奏でした。最近はかなり力んで迫力を出そうとする人が多いですが、ニキティンさんはどちらかというとソフト。大きな体から出て来る音色は実に滑らかで、聞いていて不安な部分など全く無く、スラリすらりと音楽が流れ出して行きます。音色も出来上がっていました。
ムター女史を聴きに行った時も思ったのですが、体全体がクラシックになっているとでも言いましょうか、姿に無理が無いのです。ヨーロッパに生まれ育った人間として当たり前といえば当たり前なのですが、これは邦楽でも同じ事で、名手の方々は舞台で実に自然な姿をしています。少しばかり上手に弾けても姿のしっくりこない人は、聞けば聞く程空回りするような演奏をするものです。

これだけ余裕を持って音楽を奏で、歌うヴィオリンはこの所久しぶりでしたので、大変に満足!!オケの方も弦はなかなかまとまっていてスピード感もありました。管はそれなりだったのですが、指揮の中田延亮さんの采配はメリハリがはっきりしていて、音楽が明確に聞こえて来ました。アマチュアにしてはレベルの高いオーケストラだったと思います。ニキティンさんはコンチェルト演奏後何度か拍手に迎えられ出て来て、アンコールで何と今話題のパガニーニの独奏曲を弾いてくれました。あの超絶技巧を難なくさらりと弾きこなす姿は格好良かったです。それも余裕で「こんなことやっているんですよ」とばかりに見せながらにこやかに弾き切る。大したものです。今ではパガニーニの曲もちょっとした演奏家なら誰でも弾きますが、あの余裕はなかなか他では聞けないですね。同じ舞台人として良い勉強になりました。

パガニーニ

ああやって聞くとヴァイオリンは楽器として本当に完成していますね。実に魅力的です。だからテクニックも洗練され、素晴らしい曲も作られ、更に更に素晴らしい音楽が出来上がって行くのでしょう。技術はあそこまで行って初めて語り出す、そんな風に思いました。琵琶が上手いの下手だのと、そんなレベルとはまるで違います。やはり外に飛びだし、世界を見ることは音楽家として大切ですね。

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okumura photo9幕末から明治にかけて世に出て来た薩摩琵琶は流派というものも無く、個人が勝手に、今で言う所の俺流でやっていました。明治末期に永田錦心が流派というものを打ち立て、薩摩琵琶に洗練をもたらし、美学と様式を明確にして芸術音楽へと導き、全国へと広めていきました。昭和の戦後には鶴田錦史が世界に飛びだし、今度は世界へと広めていきました。私も及ばずながらこの二人の轍を乗り越え、更にその先へと行きたいと思います。その為にももっともっと技術を完成させ、声楽ではなく器楽として広く聞いていただけるよう、更に作曲に演奏に気合を入れたいです。

常に大きな世界を見据え、外側へと視野を向けて行く姿勢こそ次の時代を生み出します。小さな村意識の中に居ては何も起こらない!。

ヴァイオリンはうたう。これからは琵琶も楽器が滔々と語り出す時代にしなくては!!

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やるべき仕事は山のようにあるのです。

いのちのリズム

この所の暑さは半端ではないですね。今年はちょうど良く(?)風邪気味なので、家でのんびりして譜面など書いております。おかげで今一つ完成に至らなかった作品がいくつも仕上げを終えることが出来ました。

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近頃どうも音楽を聴くにつけ、街行く人を見るにつけ、何かと違和感を感じる事があります。ちょっと抽象的なのですが、東京の街中を歩いていると、どうもリズムが狂っているように思えて仕方がないのです。皆様はどうお感じでしょうか。
今時は電車の中でも食事をしていてもスマホ、中には面と向かって話をしていながらもスマホを握りしめて、ちら見している姿がどこでも当たり前のようですが、どう見てもまともではないですね。まだ判断の効かない子供ならまだしも、40代50代の大人までもがそんな姿を晒して、それがまるで普通だとでもいうように世の中に蔓延しているという事は、もう世の中自体が狂っているのでしょう。だから街行く人のリズムがおかしいのです。何かにせかされ、何かに乗せられ、自分本来のリズムで生きていないように思えて仕方がないのです。歩き方は勿論、コミュニケーションの在り方、物事に対する反応等々・・・色々な所が狂っているように感じます。これでは我々の子供たちの世代にも大きな影響が出てくるでしょうね。幸い私の周りには、そういう人は少ないですが、いい大人が何故気が付かないのでしょうか???

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私は教室はやっていないのですが、たまに人に琵琶を教える機会があると、円運動の話をします。それは自然とその人其々に備わっている「気の流れ」とでも言いましょうか、空気の循環なようなものを自分の中に先ずは感じるように言います。何にも影響されず、自身も何も構えない、一番自然な状態で出て来る大きな気の流れ=円運動=リズムを自分で感じられると、おのずとその人なりの姿に成って来て、他からの押しつけでない一番素直な身体が発する本来のリズムが感じられる事でしょう。その時にテクニックというものがあれば、そのリズムがその人の音楽として成就して行くのです。

鶴田&武満

先生のやる通りなぞって真似してというのが今までのやり方でしたが、現代社会の生活に於いては、習う方が自分のリズムを見失っているせいか、先生を真似ても、それを自分の呼吸に合わせて、自分の音楽として響かせて行く事が出来ないのではないか、と思います。まあ真似すべきまともな中身を持った先生も、どれだけ居るのだろう?という気もしますが、自分の呼吸や円運動自体が判らないと、ただのコピーになって、結局は身に付かない。ただのそっくりさんをよく見かけるのもそのせいでしょうか。

夕陽4巷では音楽も打ち込み系のものが圧倒的に多くなり、間で語って行く日本音楽もどんどん減って来ています。打ち込みをバックにした和楽器のバンドも、今花盛りです。それが現代という時代なのかもしれませんが、時代の流行に乗っかるのが音楽ではなく、あくまで時代をリードして創って行ってこそ、音楽と、私は思います。私はあのような和楽器のバンドを聴くと、二昔くらい前の歌謡曲に化粧を施し、表面の形を変えたように聞こえるのです。先進性は微塵も感じないし、アレンジも平凡。とりたてて目新しいものは見えず、パフォーマンス以上のものは感じませんね。話題性だけで成り立っているようにしか見えません。

流行に乗っかっているだけでは、ただの付和雷同。派手な化粧や衣装で舞台に立っても、時代に媚びているような音楽では賑やかしでしかありません。何時も私が書いている、正統派だの何だのと肩書きぶら下げて舞台に立っている輩と、ようは同じ。志を持っている若者には時代を切り裂き、次の時代を感じさせるような「音楽」をやって欲しいですね。パーフォーマンスではなく「音楽」を!!。宮城道雄や永田錦心が次の時代を切り開いていったあの精神、そして革新性をもう一度感じて欲しいものです。

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柿田川

話がそれました。
人間だけでなく、植物も全て命あるものにはリズムがあります。響き合っているという人や、波動という人、私のように円運動、気の流れ等々、色々な言い方表現の仕方が出来ると思いますが、生命が宿る以上必ずそこには何かしらの運動があるのです。その運動のリズムが狂えば色々な所にその影響が出るのは当たり前。今、地球という生命体のリズムさえ狂い始めているように思う人も多いのではないでしょうか。

また現代はあまりに物や情報が溢れているので、他と比較しながら自分のペースを作ろうとして、自分のリズムを狂わせている人が多いようにも思います。純粋に自分らしく生きるという事が今ほど難しい時代も無いでしょう。しかしこういう時代だからこそ、何にも寄りかからず、何にも振り回されず、淡々と自分の行くべき道を歩み、自分のリズムを保っていたいものです。それが出来る人は健康だし、何時も笑顔で、素敵な音楽を創っています。誇大な宣伝も、派手な衣装も化粧も要らない。ただ、自分自身であり続け、自分の中から湧き上がる音楽を奏でていれば良いのです。余計な装飾や衣は無い方が良い。

潮先先生私の恩師、ギタリストの潮先郁男先生は「

人と比較してはいけない。自分のグルーヴを大切に。それぞれの技法があるのだから。今の自分のスタイルを磨いて行くのが大切」と、こういうアドヴァイスを、とある歌手の方にしていました。私が先生の所に通っていた頃も、一人一人の生徒に対し、「自分が好きなものより、自分らしい、自分に合ったものをやりなさい」とアドヴァイスをしていたのを想い出しますが、現在でも現役として毎月舞台に立ち、絶大な信頼のある第一級のプロとして、60年以上に渡り音楽の世界を生き抜いた方の言葉は深いものがありますね。

自らの命が発するリズム。そのリズムを感じるからこそ、色々なものをまともに感じる事が出来るのです。世に溢れる多くの物、出来事、人、情報・・・そんな様々なものに出会っても、自分のリズムがしっかりあれば振り回される事はありません。
素直に生きていれば、あるがままで自由に居られるはずです。どんな場に在っても、ありのままの自分でいる、その自然な姿がものを生み出し、次の時代へと導いて行く一番の根幹ではないでしょうか。世の常識や流行に流されることなく、肩書きのような世の虚構に惑わされることもなく、何物にも囚われない純粋な心を常に持っていたいものですが、その為にも普段から生命のリズムを感じながら日々を過ごしたいものです。

さて、また譜面に向かいますか・・・。

器楽の魅力

真夏の暑さが続きますね。この暑さの中、珍しく先週から夏風邪を頂いてしまい、外出もままならなかったので、家でゴロゴロしてました。

この所頭痛が続き、ぼんやりして過ごしていましたが、やっと少し頭がすっきりしてきたので、音楽を聴こうと思い、久しぶりにViのヴィクトリア・ムローヴァ、Celloのマリア・クリーゲルの演奏を聴いたら、これがあまりに直球で入って来て、風邪も大分吹き飛んでいきました。

普段からそれなりに聞いているCDだったのですが、健康な時は自分でも知らない内に、何か拘りや構えのようなものがまとわり付いているのか、これ程には響いて来ませんでした。「聴いてやる」的な姿勢がどこかにあったのかもしれませんね。それが体調に少し問題があることで、そんな構えがなく、素直に音に身を浸し聴くことが出来たのかもしれません。

      マリアクリーゲルヴィクトリアムローヴァ

お二人とも勿論世界の超一流ですので、凄いのは当たり前なんですが、その表現の淀みの無い自由さ、大きさにはただただ感激するばかり。お二人が人生をかけて音楽に取り組んでいる姿までも感じられました。正に脱帽です。そして楽器の表現力の豊かな事。素晴らしいという言葉以外に何が出るでしょう。ここまでヴァイオリンやチェロが音楽を豊かに奏でるには、果てしのない長い時間を何千何億という人々がこの楽器に関わり、研鑽をつみ、革新と洗練を繰り返し、受け継がれてきたからでしょう。そして演奏家としてここまで楽器で表現するには、極限に立つような技術と感性、哲学が無いと、とても出来るものではありません。ただなぞってお上手にやっているのとは訳が違うのです。

こういう素晴らしい演奏を聴く度に、琵琶の現状が悲しくなってしまうのですが、とにもかくにも現時点で薩摩琵琶には器楽という発想自体が無いので、奏法的な研究・探求がほとんどされていないのが残念でなりません。楽器である以上この部分を逃げていては、洗練も発展も無いでしょう。勿論私なりにやれることはかなりやって来ているとは思っていますが、私一人がCD出したり、演奏会を回ったりしている位では、とても力及ばず・・・。
どんな楽器にも歌はある。歌と共に楽器も発展してきたのは歴史を見れば明らかです。雅楽だって最初は唱歌をばっちりと習います。しかしだからといって、「歌わないと音楽に成らない」という事は無いのです。あらゆる楽器に、その音色でないと実現できない魅力的な器楽の世界があるではないですか。どうして琵琶には無いのでしょう??まだ薩摩琵琶は誕生して間もないからでしょうか。

べック1器楽が発達するという事は洗練され、発展しているという事です。器楽の発展によって楽器自体もどんどん洗練されて、その世界は大きく発展し、多くのファンも獲得している事でしょう。ロックギターもジェフベックが75年に出した「Blow by Blow」によってロックのインスト、つまり器楽分野を確立したからこそ、世界のギターキッズが熱狂したのです。ギターテクニックの底上げにも著しく貢献しました。
琵琶ではノヴェンバー・ステップスやエクリプスという世界に響き渡った器楽曲があったにもかかわらず、そこからほとんど受け継ぐことがありませんでした。鶴田錦史が弾いた通りにカデンツァの部分をなぞって譜面にし、流派の弾き語り曲と同じにお稽古でやっているようでは・・・・。だから私は流派のしがらみを避けて、自分で何でも作曲するのです。誰もやらないのなら自分がやるしかないですからね。

日本の音楽では、筝でも三味線でも、既にその洗練を経て宮城道雄や、沢井忠雄、高橋竹山のような世界に誇る器楽演奏家が出ている事は、実に誇らしい事。それを思うと、いつまでもコブシ回して唸り声をあげることに終始している琵琶の現状がもどかしい限りです。

八橋検校八橋検校

特に筝に於いては、「みだれ」という世界に冠たる器楽の名曲(筝独奏曲)が江戸時代に生まれています。皆さんもご存じだと思いますが、近現代の西洋の名曲と比べても一歩もその魅力は劣りません。むしろひれ伏すのではないか、と思えるほどに完成度が高い。作曲者の八橋検校は1614年に生まれ、1685年に亡くなっています。亡くなった年にバッハが生まれています。つまり西洋音楽とは全く違う
アプローチで、バッハ以前にあの名曲を書いているのです。加えて、現代の筝という楽器を作ったのもその大きな仕事です。八橋検校以前は、まだ雅楽で使
う筝で、雅楽ではない曲を弾いていました(筑紫筝など)。八橋検校が新しい筝を開発した事で、現代に続く筝曲というものが誕生したのです。

時代を作る人というのは、楽器から曲から、音楽の在り方から、何から何まで創り出してしまうのですね。

ルーテル薩摩琵琶の器楽部分が発展して行くと、歌もどんどんレベルが上がって行くと思います。琵琶唄も独立して、色々な楽器との共演も出て来るでしょう。私も筝の伴奏で琵琶唄をよく唄っています。そしてぜひ弾き語りだけでなく、声と琵琶別々の人が担当する形をぜひ確立したいと思っています。そうなってきたら異種格闘技的な曲もどんどん出来上がって、歌も楽器もレベルは更に上がるでしょうね。器楽の分野を確立して行くのは、三味線や筝の例を見るまでもなく、今後琵琶楽にとって必須だと思います。あらゆるタイプの多くの曲が作られ、その曲が世界に向けて発信されて行ったらいいですね。

その為には迸るような創造力や感性はもちろんのこと、技術だって果てしないほどに高くなければ、次の世界の扉は開かない。表現は常に次の扉に向かい続けなければ、淀んでしまう。表現活動をするという事は、死ぬまでその先を求めるという事なのです。手慣れた曲をいつも通りにやるようになったら、表現者としてはもう終わり。

4薩摩琵琶でも樂琵琶でも、私が魅力を感じたポイントはその音色です。だからこそその音色が一番輝くようにしたいのです。その為には最高の音が出るように改造もどんどんします。三味線も筝もそうやって世界を創ってきたし、薩摩琵琶も正派から錦心流、錦、鶴田流と、戦争をはさんだわずか50年程の間の短い期間に楽器を改良し、新しい曲も作ってきました。私は更にその先へどんどんと行きたいと思います。

私は現在の薩摩琵琶の姿を、芸術音楽の姿に変えて行きたいのです。大衆芸能的な形で人気を博してきた薩摩琵琶ですが、私はもう少し深い表現をして行きたい。喜怒哀楽という目の前の感情ではなく、もっとその先の世界を奏でる音楽であって欲しい。そして何よりも楽器が自由に鳴り響き、この妙なる音色で、聴衆を魅了させたい。それにはやはり器楽としての薩摩琵琶を作り上げなければ!!
のんびりとはしていられないのです。

宝探し2014

毎年この時期になると、SPレコード発掘の楽しみがあります。8月は何時も琵琶樂人倶楽部でお世話になっている名曲喫茶 VioronにてSPレコードコンサートを私が担当しているので、Violonのマスターと連れ立って、SPレコードの買い出しと神保町のカレー屋さん探索が毎年の恒例なのです。

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Violonにある蓄音機は、かの名器ヴィクトローラ・クレデンザ。その奏でる音は実にふくよかで、情感に溢れ、今私達が失ってしまったものを思い起こさせてくれます。単に懐かしいレトロな感じというのではなく、音楽の持っている生々しい気迫のようなものを感じるのです。SPレコードならではの魅力ですね。ぜひ一度体験してみて下さい。

昨年は「女流の時代」というタイトルで、女流琵琶奏者に加え、市丸、佐藤千夜子、喜波貞子等、明治~大正~昭和にかけて活躍した女性達を特集しました。今年は「男声に酔う」というタイトルで男性陣中心のプログラムを組んでみました。錦心流の大館錦棋(旗)、田村㴞水、松田静水、テノールの藤原義江、奥田良三等々、ちょっと他では聞けないものを解説付きでかけさせて頂きます。乞うご期待!

永田錦心

このSPレコードコンサートは、元々永田錦心の「石童丸」を聴きたいという所から始まって今年で6回目。今回は永田の弟子達を特集します。いかに弟子たちがその志を受け継いで行ったか、その辺りを感じて欲しいと思ってます。
現代の琵琶のスタイルを築いた永田錦心は、昭和2年に亡くなりましたが、最後まで病身をおして、ツアーに出て、あの当時ではまずありえない海外公演までこなし、自らも「琵琶と戦い通すのだ」と最後まで言い張って、精力的に活動を展開し、42歳で亡くなりました。その気迫、そして気骨ある精神は、後輩達に大いなる影響を与えた事でしょう。それが今やどこまで伝わっているのか???
時代と共に物事の在り方が変わるのは良い事です。しかし時代に振り回されてはいけない。時代を切り開いて行く精神がなければ、ただ浮いているだけの付和雷同に過ぎない。時代の最先端を走り、次の時代を切り開いて行くその志が永田錦心という人生を生み出したのです。

永田錦心の言葉はこれまでに何度もこのブログに載せていますが、その純粋な心に共感してくれる人も多いのです。是非今の琵琶人にこの志を受け継ぐ人が一人でも多く出て来るといいですね。
アイルランドの詩人イエイツは「我々自身が流す赤い血以外に、あるべき薔薇を育てることは出来ないのだ」と言っています(薔薇とはアイルランドの自由と独立を意味します)過激で強烈な詩ではありますが、永田錦心は正にこれを地で行ったのです。

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SPレコードはこういう先人の想いや時代の息吹を感じることが出来るのが、何と言っても良いですね。ただの懐古趣味で聞いても良いですが、私はレコードから、彼らの気迫と志を感じずにはいられません。
蓄音機はレコード一枚ごとにぜんまいを巻き、鉄針を取り換えて音楽をかけます。とにかく手間がかかります。しかしその音は実に生々しく迫ってくるのです。現代はノイズの全くないクリアな音が当たり前ですが、SPのような生々しさはあまり感じられません。何故でしょうか?それはノイズやエコーなどの音楽以外のスペックを上げても、演奏者の「一度限り」という気迫が少ないからです。やり直しが全く効かない状況で、下手な演奏をしたら、それがずっと世に残ってしまう。皆命を削るような真剣勝負をやっていたからなのです。また録音の機会を与えられるのは、本当に限られた一握りの人のみ。現代のようにお稽古事レベルの人がCD作って、レコ発なんてやっている時代とはその意識レベルが違うのです。

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現代はあらゆる面で便利であり、平等な機会を与えられており、経済的にも豊かで、何から何まで発展してきていますが、その発展の途中で失ってしまったものも実に多いのです。ネットで世界と繋がっている反面、イイネを押してくれる同レベルの仲間と常につるみ、その小さな村の中で生きているような姿をよく見かけます。現代人が便利や豊かさと引き換えに確実に何かを失っているのは、誰もが感じながら現代を生きているのではないでしょうか。
SPレコードを通し、単に過去の演奏を聴くというだけでなく、何が大切なのか、何を失ってはいけないのか、何を残し、受け継いで行くべきなのか、そんな所に想いを馳せるのも、時には良いのではないでしょうか。昔に憧れ、昔に戻るのではなく、未来を生き抜く為に、過去を見つめ直す事はとても良い事だと、私は思います。

SPレコードにはお宝がいっぱい詰まっているのです。

8月17日(日)
琵琶樂人倶楽部第80回SPレコードコンサート「男声に酔う」

夕方6時開演(いつもより開演時間が早くなっています)
1000円(コーヒー付)

於:阿佐ヶ谷ヴィオロン

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