先日、フラメンコギターの日野道生さん主催による「日野道生祭」で演奏してきました。
かれこれ25年前、私は自分の音楽に何か物足りないものを感じて、日野先生の所でフラメンコギターを習っていたんです。私はその後琵琶に特化して行くのですが、その頃からずっと何かと気にかけていただいて、お付き合いが続いています。この日はウードの常味裕司さんも来て、樂琵琶とウードの比較などもやりながら、ゆる~く演奏してきました。


場所は音や金時。このお店は民族音楽系の人達が出るライブハウスで、私も以前はしょっちゅう出ていましたが、気が付けばもう8年ぶりの演奏となってしまいました。ママもマスターも相変わらずで、何だか久しぶりに実家に帰ったみたいな気分でした。会場にはフラメンコ関係の方が色々来ていて、中でも佐野由布子さんのバイレ(フラメンコダンス)が格好良かったです。やっぱりフラメンコは楽しいですね。音やがタブラオになっていました。


そしてこちらが日野先生
フラメンコの人らしく明るく、いつもエネルギッシュで、本当に良き先生に就いたと思っています。上の画像で日野先生の横でパルマ(手拍子)を打っているのは増井健一君(左写真も)といって、ちょうど私が習いに行っていた時に彼もいっしょに習っていました。彼はギターの他にカンテ(唄)もやっているので、この日はジプシーキングス

のスタイルで、「マイウェイ」の見事な弾き語りを聞かせてくれました。音楽の道でしっかり生きて行けていけてる姿は頼もしいですね。思わず握手して再会を喜びました。
日野先生からは弦を鳴らすという事はどういう事なのか、ばっちりと教えられました。最初に伺った時には目が点になったのを覚えています。ギターってこんなに鳴るんだ!と驚きましたね。加えてパコ・デ・ルシアの音楽性や、その先進性など、フラメンコギターに関して幅広く指導して頂きました。当時私はジャズギターをやっていましたので、そういう私のやり方や資質を判った上でのレッスンをして頂いたのは嬉しかったですね。実に楽しかったです。時々仕事を紹介してくれたり、フラメンコの枠を超えて色々なものを私に与えてくれました。
そして何よりも勉強になった事は、自分のやるべき音楽がどういうものか、先生やフラメンコを通して解った事です。フラメンコの楽しさを十二分に感じながらも、私はもっと静寂の中で音楽を聴いたり演奏したりするのが似合っている。それにエンタテイメントよりもアートに向いている。こういう自覚が日野先生やフラメンコを通して実感できたのです。これは自分と違うものに触れたからこそ、自分というものが見えてきた事なのです。芸術家にとってこういう出会いがいかに大切か。そして指導する先生の器がいかに生徒に影響を及ぼすか、本当によくわかりました。
久しぶりに日野先生にお会いして、改めてその出逢いを幸せに思いました。
さて、今週末18日の土曜日は樂琵琶と笛のユニット REFLECTIONSの演奏会が北鎌倉の古民家ミュージアムであります。12月に発売予定のニューアルバムからの曲も披露します。是非是非お越しくださいませ。
日時 10月18日(土) 会場18時00分 開演18時30分
料金 2500円
場所 北鎌倉古民家ミュージアム(円覚寺側を鎌倉方面に徒歩2分)
出演 塩高和之(樂琵琶) 大浦典子(横笛)
秋の夜は素敵な音楽に浸っていたいですね。
またまた台風が来ましたが、皆様大丈夫でしたでしょうか。関東では既に台風一過、青空が広がっていますが、自然の力の前には人間はどうにもなりませんね。震災以降改めて色々と考える事が多くなりました。
先日ノーベル平和賞で17歳の女性マララさんが受賞し、それに対し色々な意見が出ている事は、皆さんご存知だと思います。その中で、とある作家さんの「彼女の勇気も、彼女の演説もすばらしい。しかし教育とはある種の汚染である」という発言が目に止まりました。私は教室の看板は出していないものの、何時も「教える」という事について色々と想う事があります。政治的な事は別として、この発言は身に刺さる言葉として受け止めました。
人間物事に相対する時には、どんな感性を持って接するかで全く違ったものに見えてきます。教育次第ではどうにでもなってしまうと言っても過言ではないでしょう。「汚染」というとちょっと過激な言葉ですが、私はその作家さんの発言を読んでいて納得するところが大いにありました。
伝統文化を教えるという事は、何かしらの固定された価値観を教える事とも言えます。それが大きな意味での日本文化の価値観なのか、ただの先生の個人的な価値観なのか、そこが問題だと常に私は感じています。というのも本来柔軟な感性を持っているはずの若者がお稽古を始めて、頭が固くなってしまう例があまりに多い。加えてその流派の曲をやることが自分のアイデンティティーであると思い込み「流派や伝統を守るのは私だ」とばかりに声高に吠えて、流派や古典というものを権威だと感じてしまう人も少なくない。同時に西洋コンプレックスもしっかり植えつけられてゆく様を見るにつけ、教育というものの怖さを感じずにはいられません。そんな姿を見ると「汚染」という言葉も確かにそうかなと思えてしまうのです。現実を正しく冷静に見つめる目や感性を見失ったら、政治も芸術でも、どんなものでも歪と衰退と破壊が起こると思うのですが、如何でしょう?。
教育というものは本当に難しいし、怖いものでもあります。
私達は普段、ネットでもTVでも西洋のキリスト教文化圏のものばかりを見ています(見させられています)。ほとんどの日本人はアメリカや西側ヨーロッパ=世界という風に、無意識に思い込んでいるのではないでしょうか。実は世界地図を見ると、イスラム圏の方が大きい位で、その範囲もどんどんと広がっているのです。またイスラム圏やムスリムに対する印象もマスコミによってかなり誘導されているような気がします。ノーベル賞もそうなのでしょうが、「グローバリズム」という西洋式価値観で、今私達は教育されていると言っても過言ではないでしょう。クリスマスでもハロウィンでもディズニーでも、自分でも気が付かない内に「洗脳」「汚染」されているとも言えるかもしれません。
武満徹に稽古をつける鶴田錦史
今回のマララさんの件をどう捉えるかは人それぞれだと思いますが、私はその作家さんの言葉に頷くところが多々ありました。私は教育者として活動している訳ではありませんが、人を教える時には、受け手が自由に感じ、且つ発想できるような余地を作ってあげるべきだと思っています。
これまでの邦楽の教え方は、内弟子制度などに代表されるように、先生の感性や技が全て、という形で教えてきました。自分の判断を麻痺させるが如く、全身全霊の全てを先生に預け、正に洗脳されるとも言えるような形で教えられてきました。こうしたやり方は確かにある種の意義やメリットも感じるのですが、現代は世界が繋がり、あらゆる音楽が聴けて、あらゆる価値観や政治体制の世界の人々とも手を繋ぎ生きて行かなくてはならない時代です。この時代にその教え方が合っているのでしょうか??
現代に在っては、世の中を冷静に見て行く感性も必要ではないのでしょうか。この混沌の中で「伝統とは何か」を考えなくては、残すことも伝えることも出来ないと、私は思います。視野が内向きのままでは取り残され、衰退して行くばかりと思うのは私だけなのでしょうか・・・・?。



悟りの窓三題
稽古場というものが「音楽」を教育する場なのなら、日本の文化、世界の文化について語り合い、感性や知識を高め、色々な音楽や芸術に対し意見を交わし合うようであって欲しいものです。先生にはそれだけの器と知識と知性と実力を持っていてもらいたい。そして先生の価値観が全てではないという事も同時に教えて行く事も必要だと思っています。
自分の価値観ややり方を押し付ける事が「稽古を付ける事=教える事」で良いとは私にはとても思えません。邦楽の旧態然とした価値観や、西洋グローバリズムの考え方のような固定された価値観でのみで若者を教育して行くことが本当に良い事なのでしょか・・・?。邦楽人は勿論の事、マララさんを見ていて、多くの事を感じずにはいられません。
次世代に伝えて行くためには教え方も時代と共に変えて行かなければ伝わりません。これだけ様々なものや情報が入ってきて、世界と直に触れ合える時代に我々は生きているのです。「琵琶はこうでなくてはいけない、こういうものだ」という言葉は相変わらず巷でよく聞きますが、何故そこで一つの視点しか持とうとしないのか。私には理解が出来ません。同じ琵琶を弾いていても、先生とは違う価値観や技術で演奏する人が居て当然だと思います。どんな分野に於いても、違うものがあり、お互いにその違いを認め合い、共存してゆく事をして行かなければ、次の時代は生きて行けません。時代は確実に変わっているのです。
何を教え、何を残し、何を変えて行くべきなのか、指導する側が常に時代に対峙して深く考え、教えるべき知識と技術と知性を持って行動して行かなければ、どんなものでも先が無いでしょう。
皆様はどうお感じになりますでしょうか。
マララさんの受賞や、それに対する色々な人の意見を読んでいて、想いが募りました。
秋になると何かと忙しくなります。まあ私は年がら年中、演奏会やらプロジェクトやら常にいくつもの案件が同時進行しているので、いつも通りと言いながらも、この時期は更に毎日頭の切り替えが大事になってきます。ありがたい事ですね。
そんな毎日を駆け抜けていますが、12月に笛の大浦典子さんと、REFLECTIONS(樂琵琶・横笛)のコンビでCDを出します。タイトルは「The Ancient Road」。コンビ名のReflectionは反射という意味があるのですが、一方向からだけの光ではなく、お互いがお互いを照らし合う。こんな意味合いが気に入って大浦さんの提案でコンビの名前にしました。ジャケットはこんな感じになります(上画像)。これも来年頭にはネット配信されますが、一応まだCDとして少し個体を作る予定です。ただパッケージは今迄のようなものではなく、気軽な紙ジャケットにするつもりです。バックの画面は毎回私のCDに作品を提供してくれている澤田惠子先生の作品です。これだけはもう定番ですね。
CDを作るとなると、曲は勿論ですが、資金、録音場所、デザイン、エンジニアとの打ち合わせと多くの事が上手く回らないと実現しないので、色んな人と関わりを持ちながら製作が進行します。そんな日々を生きていると、本当に多くの人の支えを感じますね。年が行けば行くほどに沢山の支えを感じ、精神的にも大いに助けになります。
笛の大浦さんは私が琵琶を始めた時からの相方なので、もう彼女の笛なしには私の音楽は成立しないという程で、支えというより今生での音楽的なパートナーなのですが、その他に多くの仲間や友人の支えがあって初めて、私は私で居ることが出来ると感じる事が多くなりました。多くの人に囲まれていてこそ活動は展開して行くのです。
音楽は安定した仕事ではないので、仕事の交渉や、経済面、人付き合いなど全てを一人でこなして行かなければなりません。アマチュアは好きな事だけやっていれば良いですが、プロというのはお金を得るという所までやらなければ成り立たない。ストレスも多いし、スムーズに行かない事も多々あります。まあだからこそ高いレベルに達するとも言えますが、そういう時に、色々な事を語り合ったり、眼差しを向けてくれる友人知人達の存在は、本当にありがたい。幸せを感じますね。
若き日の私は、多くの面でそんな友人知人仲間とのバランスのとれた良い距離を取ることが出来ませんでした。エネルギーを吐き出すだけで、相手を振り回すような事ばかり。自分の思いつくものを何でもかんでもぶつけ、ただがむしゃらに走る事しか知らなかった。そんなことを繰り返し、失敗を重ねたおかげでしょうか、今ではそれぞれの人とのリンクする所を大事に育てて行こうとするようになりました。
とにかく私は何事に於いても人より時間がかかるのです。だからこつこつと時間をかけて勉強し、経験して行くしかないのです。曲でも何度か舞台で失敗をして初めてまともに仕上がって行く。不器用この上ないですが、何度も失敗を重ねながら音楽を続ける私を、さりげなく静かに見てくれている人、私が気が付かないような所を指摘して手伝ってくれる人、芸術的な刺激をくれる人等々様々な人が私にとって、それぞれに大切な相棒のように思えます。
支えられていると思うからこそ、私も何かしらの支えになろうと思う。実際役に立つかどうかは別として、お互いを照らし合う、そんな気持ちで居ようと思います。
そのREFLECTIONSのCD発売前のプレコンサートが18日北鎌倉の古民家ミュージアムであります。今回ニューアルバムに収録する曲を中心に演奏して行きます。乞うご期待!!是非是非お越しくださいませ。
日時 10月18日(土) 会場18時00分 開演18時30分
料金 2500円
場所 北鎌倉古民家ミュージアム(円覚寺側を鎌倉方面に徒歩2分)
出演 塩高和之(樂琵琶) 大浦典子(横笛)
秋の風に多くの想いが募り、多くの支えを感じました。
先日は、この所お世話になっている横浜のICJCにてFriday Night Lectureというシリーズを務めてきました。
http://www.icjc.jp/friday-night-lecture-series/
琵琶を始めた頃からよくやっているのですが、この所こういうレクチャー形式のお仕事がどんどん増えています。先日の2015年の会もこの形式でしたが、これからは日本語だけでなく、英語でのレクチャーの機会が増えて来るでしょうね。先日は通訳を入れてやってもらいましたが、もう邦楽家も英語は標準装備しないといけないですね。友人で津軽三味線奏者の宍戸俊信君などは英語をばっちりと勉強して、今では外国人へのレッスンも積極的にやっています。素晴らしいですね。
私は10年以上前から、スウェーデン人のグンナル・リンデルさんやアメリカ人のカーティス・パターソンさん等と組んで録音や演奏会をやってきたし、イスラエル、ウクライナ、イギリス、フランス、台湾等々、私の家には色々な国の人がやって来て、常に周りに外国のお友達に囲まれているのです。しかしながら皆さん実に流暢な日本語をお話になるので、それに甘えて何年経っても私の口からは英語は流れ出ず、とうとうこの年に至ってしまったという訳です。
時代はどんどん移り変わって行きます。私のような小さな者にもその波は容赦無く降りかかって来ます。音楽そのものも勿論ですが、音楽を取り巻く環境にも適応して行かなければいけません。英語も活動のやり方も、視野の持って行き方もどんどんと変わります。
先月末で私のこれまで発表してきた作品がネット配信になりました。iTuneやAmazon、レコチョク等、ディストリビューターを通してありますので、かなり色々な所でお求めいただけます。今迄世界発売になっていたのは、石井紘美先生の作品を弾いた「HIMOROGI Ⅰ」だけでした。wergoやnaxosという現代音楽の名門レーベルから出ていたので大変名誉な事でしたが、これからは私のオリジナルの作曲作品が世界に発信してゆくと思うと嬉しいです限りです。視聴も出来きますし、世界中の人が私の作品を気軽に聞いてもらえてて購入もできる。良い時代になりました。
これまで自分の作曲作品に拘って活動してきた甲斐があるというものです。これからも私の音楽を世界に向けて発信して行きたいです。それがたとえ小さなものであったとしても、日本という土壌が受け継いできたものを、現代に生きる私というフィルターを通して独自の世界を今後もやって行きたいと思います。
音楽家として生きて行けば行く程に感じるのは、総合力の部分です。歌が上手いとか楽器が上手いとか、いずれもプロとして生きて行くには大事な事なのですが、それだけではやっていけないのです。様々な音楽を感じ取るセンスと技術、作編曲の能力、知識、どの場所に行っても適応できる人間力…色々なものが備わって初めて音楽が展開して行くと常々感じます。特に私のようなソリストタイプは音楽以外の部分の能力がものも言いますね。
今、邦楽や琵琶の世界を見ていると、この総合力という所に目が行っていないと思えて仕方がありません。指導する先生にプロが少ないので、目が行かないとも思いますが、そういう所を自分で乗り越え、柔軟且つ幅広い視野と感性を持つ者だけがプロとしてやっていけるのです。これからの若手に期待したいですね。
永田錦心は新しい時代に新しい感性で、新しい音楽を創り上げました。宮城道雄も沢井忠雄も同様です。私は先人のように出来るとは思っていませんが、私なりに次の時代を見据えて音楽を創り活動して行きたい。時代と共に在ってこそ音楽。常に変わり続けて行きたいものです。
横浜のさわやかな海風に想いが満ちてきました。
すっかり秋の風情になって、過ごしやすくなりましたね。
この時期は演奏会も多く、色々な刺激を受け発想も浮かび、身も心も芸術の秋という感じになって行きますが、昨年は私の良きアドヴァイザーだったH氏の突然の逝去があり、秋は忘れがたい季節ともなりました。9月末で早一年、緩やかに、確実に、私も変化して行きました。
H氏お気に入りの琵琶
短い間ではありましたが、H氏を通して色々と考えさせられたことは良い経験でした。自分の中にわだかまる驕り、気負い、迷い・・そういうものを明確に指摘してくれたのもH氏でした。そういった氏との会話を通して、私はかなり大きく内面が変化したように思います。そういう人とこの時期に出会ったという事も、一つの運命なんでしょうね。
氏から教えられた事は本当に沢山あって、今自分がこうして存在しているのは氏のお蔭だと思っています。でも結局自分のやり方で、自分の道を生きる事しか出来ないのです。そういう想いに至ったという事も、氏の導きだったのでしょう。
H氏は逢う度に「愛を語り、届ける」というという言葉を投げかけてくれましたが、最初は「何言ってんだか??」という感じでした。しかしだんだんその意味を自分で噛み砕いて、自分なりの想いをこの言葉に乗せて行き、それはいつしか私の一つの目標となって行きました。勿論私は品行方正な人間でもないし、H氏の期待していたような人間でもないし、何も実践出来ている訳ではないのですが、そういう気持ちをどこかに持って音楽に関わろうという姿勢になってきた事が、この一年という時間を経た上での大きな変化でしょうか・・・。私の音楽は、どんなものとして聴く人に届いているのだろうか・・・。私はまだまだやるべき事が沢山あるようです。
音楽家でもどんな職業の方でも、偉い人、上手な人は沢山居ます。でも私にはそういうものは何も響かない。技術を感じさせない程高い、研ぎ澄まされ洗練された豊饒な世界、そういうものをこそ惹かれますし、求めて行きたいですね。気取りも無ければ気負いも無い、そんな姿で居たいと思うのですが、なかなかそうは成れないものです。H氏は何時もそんな私の軌道修正をしてくれて、私を導いてくれたのです。しかし今思えば私は多分に氏に甘えていたのだと思います。
昨日は御線香を上げに行きました。それまで暑いくらいの日々が続いていたのに、その日はまるで一年前のあのお通夜の日が甦ったような霧雨。降り止むことが無いかのような静かな雨がずっと夜迄続きました。集まった皆は、まだ涙も枯れない様子ではありましたが、私は落ち着いてゆっくりと仲間達と話をすることが出来ました。時が経つという事は色々なものを深化させてくれるのですね。時間というものの尊さを感じました。古典として何百年も何千年も経った音楽や文学が素晴らしいのは、やはり深化しているからでしょう。
一年前はさよならも言えませんでしたが、一年間という時を重ね、やっと別れの挨拶をすることが出来ました。
またこれから一年、自分らしく生きようと思います。