例年ならこの時期は飛び回っている所ですが、今年は今月半ばにレコーディングが入っているという事もあり、あまり仕事も入れていないので、リラックスと勉強と、楽しみを兼ねて色々観てまわってます。
先ずは、雨の中の明治神宮秋の大祭。明治神宮では春と秋に大きな催しがあり、舞楽や能、邦楽等の奉納舞台があるのですが、今回は雅楽で13年ぶりに上演するという演目もあり、楽しみにして行きました。
定例の「振鉾」から始まり、次の「還城楽」ではなかなか切れの良い舞が観れました。さすが!。この後が楽しみにしていた「蘇志摩利」。この曲は蓑と笠を装束の上に付けて舞い、雨乞いの時にやった曲だそうですが、本当に雨乞いをするかのように雨がどんどんと強くなって行ったのにはびっくりしました。一応スサノオノミコトの話がべースになっているそうで、四人舞での演目。観ていて色々と発見がありました。雅楽の舞は時々しか見る機会が無いのですが、質の良いものはやっぱり観ていて気持ち良いですね。最後は定番の「長慶子」。久しぶりにすきっとした品の良い雅楽を味わいました。
次の日は「高円寺フェス」に行ってきました。私の住んでいる杉並は、この所毎週各町でフェスティバルがあるのです。先週は私もちょっと参加した阿佐ヶ谷ジャズストリート。町中がジャズ一色になるイベントで、たっぷり楽しみました。そして今週は高円寺、来週は「荻窪音楽祭」があるのです。高円寺はさすが高円寺としか言えないような強烈な勢いがあって、あらゆる所でジャンルに全くこだわらず、あらゆるジャンルの人がパフォーマンスを繰り広げていました。このエネルギーは凄いです。日本中でもここにしかないパワーです。私は高円寺に20年住んでいましたが、やっぱりここは私の原点だと再確認しました。
我らが愛子姐さんも勿論登場。最近は撥を薩摩のものに変えて、更にパワーアップしてます。こういう自由な発想と感性を思いっきり羽ばたかせる事が出来るのが高円寺!。姐さんも相変わらずいい感じでした。
他にベース2人とドラムという変則トリオの「高円Zy’s」とういうバンドがご機嫌でした。ドラムがしっかりとしていて、その上で二人の個性の違うチョッパー(スラップ)ベースが踊る様は、聴いていて実に気持ち良かったです。是非ライブハウスで、でかい音でがつんと聴いてみたいですな。気に入りました!。また久しぶりのピアニカ前田さんもいい味出していました。そして極めつけは、高円寺フェスと言えば大トリは何と言っても「プロレス」。今年もZERO1プロレスの面々が最後を飾ってくれました。
夕方から始まるメインイベントには凄い数の人が集まって来て、大盛り上がり!プロレスがこんなに人気があるなんて・・・?。駅前が人人人で埋め尽くされてました。この勢い、この自由さ。とにかく高円寺なのです!!!丸ごと高円寺パワーに包まれて大満足な一日でした。
そして3日目は、文化の日にふさわしく歌舞伎座へ居ってまいりました。演目は「寿式三番叟」、「井伊大老」、「熊谷陣屋」の3本立て。久しぶりでしたが、舞踊好きの私としましては、やっぱり三番叟が良かった。キレの良い動きと姿を観ていてスカッとしましたね。お世話になっている花柳面先生からチケットを頂いたのですが、前の方の良い席でゆっくり観劇できて嬉しかったです。 吉衛門、幸四郎、芝雀、染五朗、松緑と大看板がそろい踏みで、楽しい舞台でした。それにしても歌舞伎のあの大衆性はどこまでも濃い!近世日本の大衆芸能の王様ですね。
私は普段からなるべく色々なジャンルの舞台を観るようにしているのですが、どんなジャンルでも言える事は、上手だからといって魅力あるものには決してならないという事です。高円寺フェスでも、多分もうプロとして仕事しているんだろうな、というバンドもいくつかありましたが、魅力あるグループ(人)というのは、上手だけではないですね。三番叟なんかも、どれだけ稽古しているんだろうという位に技術的には見事でしたが、上手という以上に、何より舞台が新鮮なんです。とてもフレッシュなのです。
上手でも何でも、舞台は何しろ新鮮な魅力に溢れていてこそ輝くというもの。若くても、ちょっと手馴れてプロ気取り、先生気取りというのはやっぱりいただけない。若手でもベテランでも常に真摯且つ新鮮な気持ちで舞台に挑むというのは我々舞台人の基本なのだと、改めて思いました。
色々なジャンルを一緒に語る事は出来ないのですが、愛子姐さんにしても、高円Zy’sにしても、ピアニカ前田さんにしても、染五朗さん、松緑さんにしても、皆新鮮な感じがするのです。勿論技量も高いのですが、それ+彼らの新鮮さや放っている魅力がファンの気持ちをがっちりと捉えるのでしょうね。これがいわゆる「華」というものなのでしょうか。
舞台に立つ以上は自己顕示欲も大事だし、上手いという事も大事です。しかしそれに囚われているようでは、舞台の上で魅力は出て来ない。そういう感情は舞台人なら誰もが持っているとは思いますが、そこを超えて、その先の世界を舞台で表すことの出来る器、これこそがその人のレベルであり、魅力なのだな、と思いました。色々なジャンルのものを観ていると本当に心底そういう部分を感じます。
道元禅師は、修行をしているその姿こそが仏なのだ、と言っておりますが、我々も舞台に立つ以上はどこまでも真摯な心を忘れずに精進ですね。充実の3日間でした。
さて、これから定例の琵琶樂人倶楽部、日本橋劇場での江戸手妻の大きな公演、そしてニューアルバムのレコーディングと続きます。栄養をたっぷり頂いたので、良い仕事が出来そうです。
昨日のルーテル東京教会での演奏会は、満席のお客様にも恵まれまして、無事終わりました。
作曲者である郡司敦君自身の指揮による演奏でしたが、思い入れもたっぷりの指揮ぶりでなかなか良かったと思います。2011年に初演した彼の作品「四季」の再演だったのですが、私はソプラノやテノール合唱に囲まれた中で歌わないといけないので、リハーサルでは音程が取れず、ちょっと本番心配でしたが、本番は何時もなるようになる、と開き直ってしまう性格のせいか、何とか今回もこなすことが出来ました。
この演奏会の前日、2012年に初演した時の演奏が郡司敦作品集としてCDに出来上がって来ました。
この時はメゾソプラノの郡愛子さんをメインゲストに迎えた豪華なコンサートでしたが、見事にマスタリングされていて、実にいい感じで仕上がっています。マスタリングは尺八の田中黎山君が担当したそうです。
演奏した時にはただ一生懸命で、郡さんと声の掛け合いの所も有ったりして夢中でやっていたのですが、実は何となく洋楽器の中では琵琶の響きはどうも上手く行っていないようにも思っていました。でも聴いてみてびっくり!!。随所に琵琶の音が効いていて、実にいい感じなのですよ。音量のバランスも悪くないし、合唱入りの曲としては他に例の無い編成とバランスのとれた仕上がりになっていると思います。
1: a wind 2: flowers of spring 3: a drop of summer 4: clouds of autumn 5: a grove of winter 6: touch
Mezzo soprano:郡愛子 Soprano:見角悠代 Tenor:松原陸 女声合唱:声楽研究会
Violin:中島ゆみ子 Cello:城戸春子 Piano :西尾杏子
琵琶・唄:塩高和之 尺八:田中黎山 筝:中島裕康
指揮:郡司博
2012年12月6日 北とぴあ つつじホール
ジャケット画は朝比奈賢さんの作品「内なる始まり」です。
問い合わせは郡司君のHPまで http://www.geocities.jp/fanarky/atsushigunji.home.html
こちらは来月レコーディングする、私のニューアルバムのジャケットです。ワクワクしますね。私は何時も自分のCDが出来る度に「自分の仕事が実った」という想いが湧き上がります。昔のCDを聴き直すと、もう恥ずかしい所ばかりなのですが、それでも自分の通ってきた軌跡というものが目の前にあるという事は、とても嬉しいのです。
これまでの作品は既にネット配信されて、より広く、多くの方に聞いてもらえるような体制になって、今度のCDも来年には配信されるようになりますが、自分の作品が世に出て行くというのは実に感慨深いですね。郡司君もきっとそうなんじゃないかな。私は彼の最初の作品集に参加出来て本当に嬉しいです。
前作のレコーディング時の写真。ちょっと若い?
年を重ねれば、自分で出来る事と出来ない事がはっきりと自覚されます。そうやって己という存在を認識して行くのでしょう。自分のやり方で、自分の仕事を全うする。これからはどんどんとそうした「自分の仕事」をして行こうと思います。
時々ジャズをやったり、フラメンコに混じったりいろいろしていますが、そういう脇道も自分という存在を確認するには良い寄り道。歩み方もまた自分らしく、自分の行くべき道を自分のペースで、淡々と進んで行きたいものです。
明日の自分に乾杯!!
先日、ミゼットアコーデオン&Voの早坂華織さんとキーボードの岡田清光さんのデュオ「Poison」のライブに行ってきました。
このお二人とは横浜の赤レンガ倉庫での劇団アドック公演で共演して以来、何かとお付き合いがあったのですが、Ac&Voの早坂さんは3年前に癌で入院し、それ以来会っていなかったのです。しかし見事な復活を遂げ、その歌声は以前より増して輝いてました。終演後は思わず抱き合って喜んでしまいました。特に最後に歌った「慕情」は感動的な歌唱で、「こんなに上手かったっけ」と思わせる位、声量も前より上を行っているような見事なものでした。仲間の元気な姿ほど嬉しいものはありませんね。
ここ数年、私の仲間達、先輩達が次々に虹の彼方へと旅立って行きました。其々の与えられた運命だったのだと思いますが、やはり残された人間にはなかなか乗り越えられないつらさもあります。それだけに早坂さん(カオリンといつも呼んでます)の復活は嬉しかった。
色々な分野に触れ、多くの方々と接しているからこそ、自分というものが客観的に見えると思う事が、この所多くなりました。「離見の見」という言葉は日々の中でも思う事が多いのです。左の写真は先日の阿佐ヶ谷ジャズストリートでの一コマ。久しぶりにジャズギターで参戦しましたが、(フルートは吉田一夫君)いつもとは違った面から自分が見えて、改めて琵琶人としても自覚が持てました。いろんな仲間が居て、様々な声に囲まれているからこそ、自分というものが見えてきます。何か一つの世界しか見えていない状態では、自分が何者なのかなかなか解りませんし、発展して行きずらいものです。自分とは違う多くの個性、感性、もの、世界に触れる事によって、音楽家は己を見つめ、より多くの素晴らしい音楽生み出して行けるのだと思います。
私が何か行き詰まっている時には、大概視野が狭くなって、小さな世界から抜け出せず、思考が硬直している事が多いです。音楽家は経済的な面も含め、音楽以外の多くの事と戦いながらやって行かなくてはいけません。舞台で失敗する事もあるし、食えなくて泣く泣く楽器を手放すこともあります。しかし幸いにも私には本当に多くのジャンルの仲間が居て、彼らは私に無いものを皆持っているので、彼らと話をしているだけで視野が開けて来るのです。そんな仲間のお蔭で何とか今でやって来れました。
最近は色々な方と再会したり、共演したりすることが何度となく続いています。また私を支えてくれる方々の温かさを感じる事も沢山ありました。本当に人間というのは色々な人と関わり、そのアンサンブルの中でこそ生きているのだな、と実感する日々です。
さて、今週は大久保のルーテル教会で、郡司敦君の曲を演奏してきます。久しぶりにViolinの中島ゆみ子さん、Celloのエリック・ウイリアムスさん、Pianoの西尾杏子さん、筝の中島裕康君、そして尺八の田中黎山君と共演です。
日々色々な仲間の声に囲まれて本当に嬉しく思います。そしてまた私も仲間達のにとって一つの声でありたいと思うのです。
ぐっと寒くなってきましたね。我が街阿佐ヶ谷は、ただ今ジャズストリートというイベントで、街中にジャズの生演奏が流れ華やいでいます。こういうのもたまにはいいものですね。今夜はちょっと私も参加する予定です。
ニューアルバムジャケット
この所は演奏会も続き、日々忙しくさせてもらっていますが、かえってそんな時には、色々なものを見たり、人に会う機会が多いものです。20代位の頃はひたすら上昇志向で頑張っていたのですが、時を重ねて行くにしたがって自分の生きるべき場所というものをだんだんと自覚するようになりました。別にネガティブに「この辺りでいいや」とか「無難な所で・・」という訳ではなく、本来自分が居るべき場所というものを感じるようになったのです。
私は先輩から、「自分というものをよく知る事だ」と若い頃言われました。己がどんなものであるか、自分自身が判っていないと何事も成就しません。考えてみれば当たり前なのですが、この当たり前がなかなか解らないものです。
天宮神社(森町)
自分が与えられた場所(舞台と言っても良いかと思いますが)に対して、私には明確な自覚があるのか・・・・?まあ私なりに今自分が居る所、そして目指している所で自分の仕事が存分に出来るようでありたいと思います。しかしどんなに望んでも、どんなに憧れても、自分が見えていないようでは、自分の舞台を得る事は出来ません。それはその人の持っている器もあるだろうし、運命としか言えないもののようにも思います。
結婚によって環境が大きく変わる人も居るでしょうし、仕事でどんどん大きな世界に行く人も居るでしょう。その与えられた場所は望んだにしろ導かれたにしろ、自分が居る場所を自覚すれば、きっとそれに見合う器になって行くと思いますし、また人生も迷いなく生きる事が出来る事と思います。そこを思えるかどうか・・・。
人間努力すれば何事もそれなりの上達もあるでしょうし、自分の想いや願望が成就するかどうかは別として、自分の行きたい道に進む事自体は、この現代社会に於いては誰にでも出来ます。しかしそれが本当に自分に与えられた場所や道なのか?流されているだけなのか?それともただの憧れているだけなのか・・・?極端に言えば、簡単にその入り口に辿り着けてしまうために、よく判らなくなっているという事も多々あるのではないでしょうか。自分を見つめる事は、自分の人生だけでなく、社会をも見つめて行く事であり、現代社会に生きる我々にとって、とても大事な事のように思います。
長瀞
草花は自分が生まれた所で、精一杯その命を輝かせ、そして朽ち、また次世代へその命を託して行きます。それは自分に与えられた運命を受け入れるからこそ、輝くことが出来るのではないでしょうか。人間はどうでしょう?。特に現代人は・・・・・??。
ポジティブシンキングでぐいぐいとやって行くのは素晴らしい事ですが、ある程度お金になったり、肩書き貰ったりするような目の前の満足で、行くべき場所を見失っていないだろうか。現代社会では色々なものがあり、世界中どこにも行けるし、世界の人とメールでやり取りもできる。何でもすぐ手に出来るだけに、かえって振り回されてしまって、自分の居るべき場所や舞台が判らず右往左往して、世界を飛び回っている自分に酔っている人も多いのではないでしょうか。
平経正
私が弾き語りのレパートリーにしている「平経正」は死しても尚、霊となって現れ「もう一度都に帰りたい、もう一度琵琶を弾きたい」という想いに激しく駆られますが、最後には自分に与えられた、武将としての運命を自ら受け入れる事で成仏して行きます。現代に生きる我々は果たして自分に与えられた場所や運命を自覚し、受け入れているのだろうか、日々何かに振り回されて、本当の自分の人生を生きていないのかもしれない。経正を演奏する度に、私はこんな思いに駆られます。
私が今与えられているこの場所と舞台を本当に全うするには、まだまだ努力も知力も必要です。振り回されることなく、本来の自分というものになりきり、自分に与えられた場所で生き抜く。これはこれからの私の大きなテーマになって行くと思います。
地味だろうが派手だろうが、そういう事ではなく、他の誰でもない「私」の人生を全うしたいですね。
先日、REFLECTIONSコンビによる「おとずれる秋を聴く」於:古民家ミュージアムをやってきました。
今回は12月に出るニューアルバム「Ancient Road」に収録予定の曲を中心に演奏しました。初演曲ばかりでちょっと難しい所もありましたが、このコンビのエッセンスは聴いていただけたことと思います。しかしながら演奏家としては反省しきり。レコーディングまでにまだまだ練習を積まなければいけません。「Ancient Road」を前作を超える素敵なCDに仕上げたいと思います。
このコンビがやっている音楽は雅楽をベースとして、
シルクロードに向かう視点で作曲しているのですが、もっともっと曲を作って充実させなくてはいけません。またこういうものは他に無く、ジャンルというものが確立されていないので、どんな年齢層に対し、どうプレゼンをするべきか、またどういう演奏をするか、色々と悩むところではあります。先日の演奏会はちょっとその辺が上手く行かなかったように感じました。
そして実際の演奏に於いては、楽琵琶のチューニングの問題が大きいのです。プログラムの途中で調弦を変えると、もう大変。いつまで経っても音が合いません。特に今回はチューニングを下げて行くようにプログラムを組んだのですが、これがまずかった。やっぱりチューニングは上げて行く方が安定しますね。プログラムの選び方や順番にはかなり気を遣います。毎回演奏がそのまま勉強です。今回も良い勉強になりました。
今回は笛のソロ曲も作曲して、大浦典子さんに吹いてもらったのですが、彼女が選択した笛は、こんな長い変わった笛でした。私も樂琵琶ももう一つ持って行って、曲によって変えて行こうと思います。
それにしても今回痛感したのは、もっともっと技術が必要だという事です。新しいものをやるにはどうしても新しい技術が必要なのです。私は今迄、薩摩でも楽琵琶でも自分の創り出す音楽の為に楽器を改造したり、ピックやコントラバスの弓や指で弾いたりして来ました。右手はフラメンコギターのような使い方をし、左手はアラン・ホールズワースも真っ青という位に指を全開にしないと弾けないようなものも、どんどんとやってきました。しかしこれでもまだ足りない。樂琵琶の新しい作品を弾くには、もっとサムピックの使い方を研究したり、リズム感に変化を付けたりしていかないと音楽が具現化しないのです。ひとえに私の技術が足りないという事なのですが、新しいものを作り出す以上、これは果ての無い戦いですね。
新しいものを作るには、譜面だけ書いても仕方がないのです、作曲者の頭の中で音が鳴っていても、それを具体的に音楽にするには、新たな技術と感性そして概念が不可欠。私は自分で作曲するので、自分の作品ではあるのですが、技術は頭で鳴らしているのと実際に弾いてみるのでは全然違います。改めて永田錦心が新しい琵琶楽を創った時に想いを馳せました。
永田錦心が活躍した時代は、薩摩琵琶がまだ薩摩琵琶というものとしてやっと認識された頃です。そういう創世記だからこそ出来たとも言えますが、薩摩琵琶の弾き語りに於いて、唄い方を変えるというのは、きっとかなり大きな仕事だっただろうし、技術もそれまでの薩摩琵琶の語りの技術では到底追いつかなかったでしょう。そして自分の作った新しいものを数々の困難も乗り越えて、社会に認めさせて、スタンダードなものにしてしまうなんて・・・。凄いとしか言いようがないですね。旧薩摩一派からしたら「なんじゃこれは」状態だったことと思います。今私が琵琶弾きになっているのも、永田錦心のその志があったからこそだと思います。私の創り出すものもそんな次の時代のスタンダードに成るようであって欲しいです。
2011年に前作「風の軌跡」を作ったのですが、あの頃はもう最高のアルバムを作る事しか頭に無かった。新作ばかりでレコーディングしたので、不安も色々とありました。今の私も同じなのですが、とにかく自分の中に奢りが出て来ないように注意しています。「自分で作曲した作品だから、特別な練習は要らないだろう」というようになったらもうお終い。永田錦心も戒めていますが、ちょっと弾けるようになると何事に於いても慢心が始まります。上手くなればなるほどに技術に対しても謙虚でいなければ次の世界は具現化出来ません。私が音楽を創造し、届けるには、もっと圧倒的なまでの技術がなくては新しい音楽は鳴り響かないのです。気を引き締めて精進ですね。道はどこまでも続きます。
ニューアルバムもご期待ください。