先日、年末恒例の創心会をやってきました。
毎年初台のオペラシティーの中に在る小さな音楽サロン近江楽堂を借りて、年末にやっているのですが、今年は語り手3人と琵琶による琵琶語り勧進帳をやろうという事で、琵琶樂人倶楽部で一緒の古澤月心さん、そして勧進帳初演の時に語り手の一人として唄っていた、大ベテランの山下晴楓先生を迎え、更には尺八の田中黎山君も入れて、新たな形で勧進帳をやってみました。
テーマは「古から現代へ」。よく私が掲げているテーマですが今回は、明治を代表する「石童丸」、戦後の物語琵琶といわれる「勧進帳」、そして現代の私の作曲作品という内容にして、近代から現代というくくりで構成してみました。「勧進帳」も琵琶の手は、水藤錦穣氏の手を参考に私が作ったもので、イントロや後半の合奏部分には尺八も入れて作曲しました。
出来の方はまずまずと言ったところなのですが、共演させてもらった山下晴楓先生には色々と教わることが多かったです。私がどう編曲しても、「自由でいいんじゃないの」という具合に、柔軟に対応してくれて、けっして以前やった通りの形に固執しない所が嬉しかったですね。こうしてまた歴史が繋がって行くんだな、という実感がありました。
私は伝統を受け継ぐような立場にもないし、古典をやっている等という意識もありません。ただ古くから伝えられている琵琶楽の最前線にいるという想いだけがあります。いつも書いている永田錦心や鶴田錦史も、その時々に於いての最前線だったのではないでしょうか。その最前線に居た彼らの姿こそが私の理想です。だから残された作品を勉強こそすれ、そのまま演奏する事に意味を感じません。もし永田や鶴田の音楽を古典として扱いたいのなら、その古典に対し、自分なりの哲学と答えを持って、彼らの音楽を新しい命として演奏するようにしなければ、質の悪いコピー以上のものにはならない、と思っています。
過去の遺産の素晴らしさを知れば知るほど、それをなぞる事は
とても出来ないという思えて仕方がないのです。だからこそ先人がどのような想いでその音楽を創り上げたのか、そこに想いが至ります。古典を研究する土台と哲学が持たなければ、とても琵琶の演奏は出来ません。そして何よりも溢れんばかりの創造性で音楽を作って行く志と姿勢が無ければ、とても舞台に立っていられません。
私も永田や鶴田のように最先端を走り続けていたいのです。私のやっていることがろくでもなければ、後には続かないだろうし、もしそこに素晴らしいものがあれば、何かしらの形で残って行くでしょう。
私が就いた先生方は皆、一様に「自由にやれ」と言ってくれました。「こうしなさい」という先生は一人もいなかった。本当に良き師に巡り会ってきたと思います。だから「伝統を受け継ぐ」だの「古典の継承」だのそういう型にはまった思考をすることは、私にはありませんし、言われたこともありません。ありがたい教育だったと思います。そんな師に恵まれたこともあって、私はどこまで行っても自分の音楽を表現する事に没頭しているのです。そしてそれがこれまで私が就いてきた師匠たちの教えだと思っています。
今後はいつも書いているように、私は琵琶の器楽的な側面を追求しようと思っています。声に関しては従来の節やコブシに乗せた琵琶唄ではない形で、自分の琵琶楽の中の一つの要素として取り組んで行こうと思っています。これが私の琵琶楽の最先端であり、また言い方を変えれば、永田、鶴田に対する継承です。
久しぶりに先人の作った曲を自分なりに演奏してみて、想いが募りました。
先日、観世流の小島英明先生率いる碧風會の公演を観に行きました。
小島先生は、5月の戯曲公演「良寛」にもお越し頂き、また知人を介した御縁もあるので、是非小島先生の舞台を拝見したいと思っていました。
今回は「鉢木」という初めて観る演目で、ひた面による舞台でしたが、小島先生が真摯に取り組む姿に大変さわやかなものを感じました。まだまだ本人としては課題もいっぱいあるのでしょうが、是非この姿勢で次世代を担っていただきたいと思いました。またこの公演ではベテランの狂言師 野村萬さんも出演されていて、ベテランと小島先生のようなこれからを担う中堅との芸の対比など興味深く堪能させて頂きました。
世阿弥は「時分の花」という事を言っておりますが、今回はかなり若い狂言師の方も出ていて、それぞれの時の花を見たような気がしました。こうした舞台で、色々な花が咲き、見ることが出来るというのは、そのまま能の器の大きさを感じますね。琵琶は個人芸という事もありますが、何でも自分でやろうとして小さな世界から抜け出せない例が多いのです。これからどんどん変えて行かなければ!!
インタビュー記事より転載
それにしてもベテランの野村萬さんの演技には感服しました。すべてに気負いやケレンがなく、役そのものを素直なまでに演じている。ここまで辿り着くにはどれだけの時間が積み重なった事だろう、と想いながら見ていました。動きといい声といい、実に見事に自然でその表現力は素晴らしかった。80代にしてこの声は凄すぎる。衰えどころか、並み居る出演者の誰よりも響いていました。芸というものは果てしのない道なのだな、と感じずにはいられませんでした。
私にとって「果てが無い」と感じている事は色々とあるのですが、最近特に気になっている事は、リズムです。先日もニューアルバムのレコーディングをしていて感じましたが、リズムに関してはまだまだ辿り付けないものを感じています。
私には現代邦楽というものがどうにもしっくりと来ません。その一番の原因はリズムだと思っています。クラシックを基本とした、あのジャストに乗るリズム感では、邦楽器は本来の魅力を発揮できないのではないかと思えて仕方がないのです。
例えばパコ・デ・ルシアはジャズのアル・ディ・メオラやチックコリアと組んでも、柔軟に共演者の音楽には対応して行きますが、何処まで行ってもフラメンコです。そこが魅力なのです。フラメンコのリズムと感性で世界のジャンルと共演したからこそ、世界の人がそれに感動したのです。
高橋竹山は何処へ行ってもけっして洋楽ではありませんでした。あの津軽の匂いこそが魅力であり、またあの独特のリズム感や風情を世界に向けて発信したからこそ評価されたのだと思います。
民俗芸能の域を超えて世界に飛びだして行った竹山の志を、どうして継ぐ人が居なかったのか不思議でなりません。三味線でロックギターばりに弾いたところで、そんな物真似芸を誰が喜ぶのですか?。
五線譜を使おうが、クラシックの曲をやろうが、邦楽は何処までも邦楽であるべきです。クラシックもジャズも勿論素晴らしいけれど、私達は私達の音楽を世界に向けて演奏する事こそ、邦楽に携わる我々のあるべき姿ではないでしょうか。
世界の音楽を色々と聴いていると、フラメンコのように前に突っ込んで行くようなリズム感のものが結構多く、テンポも曲の後半に従って速くなって行くものが多いのです。雅楽もどんどん早くなります。むしろクラシックのようなジャストなテンポ感や、ドレミの音程感覚の音楽の方が特殊なのだという事が判ると思います。これを民族音楽という事で簡単に片づけることは出来ません。インド音楽もアラブの音楽もクラシック以上の歴史があり洗練されています。我々の邦楽も全くドレミではないし、リズムも違うのです。そうした世界の洗練を極めた音楽が現代の日本に紹介されていないだけの事であって、世界の音楽に優劣はつけられません。そしてクラシックが音楽のスタンダードではないという事も認識すべきです。パコや竹山は、何をやっても、どこで演奏しても決して自分の内に在る魂は失わなかったではないですか!。
REFLECTIONSではシルクロードから伝わり、日本で熟成した雅楽を通奏低音とし、汎アジアというものを目標にしていますので、自然とクラシック式でない突っ込んで行くようなリズムが気になります。そういうものは雅楽の中にもありますし、能の囃子などを聴いても、声明を聴いても感じます。あのリズム感は確かに我々の中に残っていると思います。
何をやっても、何処へ行っても、この風土から授かった自分達独自のリズムを持っていたいのです。クラシックのリズムで弾くことが洗練ではないし、色々な面でグローバリズムに汚染されてしまっては、既に邦楽とは言えないと私は思っています。
前作「風の軌跡」ではまだ私の中でリズム感に関してに迷いがあり、
ジャストや8ビート風に乗ったりしている所と、前に突っ込んで行くところが混在していましたが、今回の「「The Ancient Road」ではかなり突っ込み気味に意識して弾いてみました。これが正解なのかどうか私にはまだ答えは出ていませんが、汎アジアを標榜しているREFLECTIO
NSとしては、これが現時点での答えなのです。いずれにしろリズムに関しては果ての無いものだと思っています。
私のやっている音楽が、どのように評価されるか判りません。しかし私は私が考える最善のものをやるしかないのです。永田錦心や鶴田錦史もきっとそうだったのではないでしょうか・・・・?これからも私の姿勢は変わりようが無いのです。この姿勢がそのまま私の音楽なのですから。
果ては無いですね。
先日、7枚目となるニューアルバム「The Ancient Road」の録音をやってきました。場所は相模湖交流ホール。会場(左写真)はこんな感じ。私は何時も響きの良いホールを借り切って録音するのですが、ここの響きは大変気に入りました。奏者ごとにマイクを立てるマルチ録音でなく、DPA4006というマイクを1m~2m離して(曲に合わせてセッティングします)一発録りします。後でスタジオで細かく修正する事は出来ないのですが、その分素晴らしい響きが録れます。デュオの曲では、どちらかが間違えてしまうと、もう一度録り直しという、まるでLP時代と同じような現場ですが、こういう緊張感も時には良いものです。



録音のエンジニアは、もうファーストアルバムからずっとお世話になっている小川洋さん。私の関わるCDはほとんどが小川さんにやってもらってますが、私の音楽を深く理解してくれて、どんな音源を録りたいか10年以上もじっくり膝を交えて話をしてきましたので、セッティングから何から全てをお任せしています。
今回は前作「風の軌跡」と同じく樂琵琶と横笛の作品集。古典雅楽を少しアレンジしたものから、シルクロードへと想いを馳せた作品、笛の独奏曲、樂琵琶の独奏曲と色々とヴァリエーションが有ります。勿論全て私の作曲作品です。乞うご期待!!
毎回レコーディングをすると自分の技術の無さを痛感します。琵琶でレコーディングを初めて約15年程。自分のリーダアルバムが7枚。他の方のアルバム参加が6枚。他にお仕事としての録音は色々ありますが、まあ毎年のように録音の機会がある訳です。その度に、もっともっと高い技術が必要だと噛みしめるように思うのですが、中々そう簡単にはレベルアップはしませんね。
私の音楽は何よりも世界観が優先です。私の作曲作品集ですから、「どんな音楽なのか」という所が一番重要。とはいえ正確に弾き切る技術はやはり大切です。表現に至らないのであれば、私の音楽として成立しないのですから・・・。
毎回録音したものを聴いていると「もうちょっと何とかならないかな」なんて所や、「やり直したい」なんて所は多々ありますが、ミスの無い完璧さを求めても音楽は響かない。お上手さを追求するのではなく、音楽全体を聴いてもらうためにも、目先の綺麗さに囚われないよう、常に心がけてます。しかしながらレコーディングをする度に、何時も共演しているクラシックの演奏家の技術の高さが思い出されます。私にもあの技術が有ればな~~なんて、まだまだ業が深いですな。パガニーニのように飛び抜けた技術があればこそ見える世界もあるのでしょうね。
私は流派の曲や古典曲を舞台では演奏しません。新しいものを作るには古きを知らなくては創れないので、常に、能や雅楽、歌舞伎、長唄、平曲等々聴いたりやったりしていますが、あくまでそれらを土台として自分の音楽を作り、表現するのが私の仕事だと思っています。宮城道雄も永田錦心も鶴田錦史もそうだったように・・・。そういうやり方は邦楽や雅楽のそれとは違うかもしれませんが、何処まで行っても私には自分の道しか歩けないようです。
まだまだ作りたい曲は山ほどあります。ただ想いだけが泉の如く出ていても、音楽には成りません。その想いを音楽に結実させて初めて舞台にかけることが出来るのです。
私の作品が次世代にも届くことを願って、また今日から気持ちも新たに頑張ります。
昨日は定例の第83回琵琶樂人倶楽部で「永田錦心」の特集をやってきました。
私は演奏ではなくレクチャーをやって、いつもこのブログに書いている事をしっかりたっぷりしゃべって来ました。思い入れの所もあったかと思いますが・・・?。充実した良い会になったと思います。
今月はニューアルバムのレコーディングを控えて(もう来週に迫ってます)いる事もあり、最近は特に演奏の技術というものの重要さを感じる事が多くなりました。勿論根底にしっかりとした感性があってこそですが、その感性も技術というものが無ければ具体化しません。パガニーニではないですが、技術があるからこそ見える、感じる事の出来る世界もあるのだと思います。
永田錦心は一聴しても特に技術があるように思われませんが、考えてみれば、クラシックの歌手にはジャズは歌えないし、その逆もまたしかり。ましてや前例の無いスタイルを作ったのですから、その鋭い感性は勿論の事、具現化するには声の技術一つとってもずば抜けたものがあった事と思います。また永田は技術や感性だけでなく、全国組織を作り上げたり、SPレコードへの吹込み、コンサートツアー等、それまでの人がやった事のない新時代に即した旺盛な活動を繰り広げました。つまりは自分の考える新しい音楽を、実際に世に広く響かせることを実現する。そこまでやり抜くスキルも兼ね備えていたという事です。ただ上手いとか感覚が鋭いというレベルではなかったのです。ここまでやれる能力が永田錦心に無かったら、今頃錦心流も鶴田流も存在しなかったでしょう。
永田が錦心流を打ち立てた時はどんな気持ちだったのでしょうか。大きな変化の時代に新しい技を持って、それまでに無い新時代の音楽を打ち立てるその闘志の中には、言い表せないほどの多くの想いがあったのではないでしょうか。
私は最近、演奏会でも唄をほとんど唄わなくなって来ていて、自分の求める器楽としての琵琶楽により近づいています。声については前回もブログに書きましたが、今は器楽としての琵琶楽を作り上げる事が私にとっては先決。先日も私のかつてのアドヴァイザーだったH氏の友人から「自分の思う所をどんどん突き進むべき、あなたはまだやれていない。想う所をやることが、結果として色々なものの垣根を飛び越して、あなたの望む世界をあなたにもたらす」というアドヴァイスを頂き、ちょっと希望と自信が持てました。勿論反省も・・・。
くどいですが、次のCDのジャケットです
クラシックでは勿論の事、ロックギターの技術革新も、ここ数十年で目を見張るような発展をしています。特にジェフ・ベックのインストアルバムの発表やエドワード・ヴァンヘイレンの登場以降、その技術的発展は留まるところを知らないかのようです。クラシックやジャズ、ロック等他の分野、または三味線や筝に於いても、器楽的な発展は必然であり、時代が求めて行きます。今後薩摩筑前の琵琶でも同様、器楽の確立無くして、琵琶楽の次代はあり合えないと私は思います。器楽というものが出てくれば、自ずとまた弾き語りの魅力も再認識されて、新しい形の弾き語りもまた生まれて来ると私は思っております。
とにかく琵琶楽が魅力あるものとして継承されてゆくには、更に更に発展し、新しいものが沢山出て、琵琶を取り巻く状況が常に創造性に溢れている事が必要です。小さな意識のままで、いつまで経っても焼き直しを繰り返していては、どんどんとぼやけ、その魅力も霞んで行くばかりです。淀んだ水に命は宿らない!




ものを創り出すには、広い視野、柔軟な感性が先ずは必要ですが、それを実現し具体化するためには、今までの技術の延長に居ては創り出すことは出来ません。今迄とは違う感性から出て来た新しい技術が必要です。武満、宮城、沢井、鶴田、皆それまでには無い技と感性を持ち合わせ、次の時代の音楽を具現化して魅せてくれました。それによって新しい音楽と新しい分野が生まれ、守るだけと思われていた邦楽の可能性は飛躍的に大きくなり、次々と新時代の演奏家が生まれて行きました。現代に生きる私達は彼らの作りだした形を追いかけているだけで良いのでしょうか・・?彼らの目指した世界をこそ求めるべきではないでしょうか。
私は琵琶奏者として、あの永田錦心の革命をどれだけ継いでいるのだろうか?。永田のやった事をなぞっているだけではないだろうか。永田と同様に新時代の琵琶楽を創造する志をしっかりと持っているか。と常に自問しています。
感性だけでも技術だけでも創り出すことは出来ません。先ずは感性が必要ですが、そこに技術が有り、次世代へのヴィジョンがあったら、見えないものも見えてきます。技術も感性もそれぞれが共にあってはじめて次の世界が生まれるのです。新しいものに対して旧来の尺度で見ても何も見えません。自分の創り上げたものに胡坐をかいていては、時代に取り残されて消えてゆくだけです。まして先人の作ったものしか見えていないようでは、明日は無いと言わざるを得ないでしょう
私は私個人の音楽を創り上げるのが先ずは自分の仕事ですが、願わくばその私の仕事が、もっと大きな世界に繋がって行けたら嬉しい限りです。
先日、「渡辺智明 表現読み独演会」に行ってきました。いわゆる朗読会です。以前からやり取りをしている仲間の馬場精子さんがゲストで出演したのですが、馬場さんの朗読はCDでは何度も聴いているし、本人にも何度も会っているのに、まだ実際の舞台を観ていなかったので、今回は楽しみにして行きました。
馬場さんは京都の方で、万葉集や源氏物語を奈良・平安時代の発声とアクセントで読まれる方です。彼女の朗読ではまだ近現代の作品しか聞いたことは無いのですが、是非古典ものも聴いてみたいです。これまで宇治の源氏物語ミュージアムなどで上演。TVなどでも放映されています。
私は今、日本書紀に書かれている和歌を音楽化してみようというプロジェクトに関わっていて、琴歌譜を読み解きながら、当時短歌がどのような音程で読まれ、歌われていたかを探っている最中な事もあって、馬場さんの活動にはとても興味があるのです。馬場精子HP http://ameblo.jp/readinghitoha/
馬場さんはとにかく声が良い。何とも魅力的な響きを持っているのです。
先日も生の声を聴きながら、その声質に魅了されました。朗読の技術も凄いのだと思いますが、あの声は彼女の独自のものですね。唄い手にしても朗読家にしても、もともとの声質に魅力があるというのは素晴らしい資質だと思います。
私の周りには何故か声に魅力のある方が何人も居ます。「良寛」の舞台で御一緒させてもらっている伊藤哲哉さん(写真右)等は正に声の魔術師みたいなもので、基本の声が低く深~い豊かな響きなのに加え、役者としての声のあらゆるテクニックも兼ね備え、一人舞台などを観ていても、1時間等あっという間に経ってしまう程に観客を惹きつけます。特に「耳なし芳一」の舞台は凄いです。
来年はしっとりとした語り口が素晴らしい櫛部妙有さんとも御一緒するし、これまでも伊藤豪さん、三園ゆう子さん、竹崎利信さん等々素晴らしい声を持った方々と共演してきました。日蓮上人なども魅力的な声の持ち主だったそうですが、人を惹きつける方は皆さんは、声に大変に個性と魅力がありますね。
一般的に、通る声、練れた声、声量等々、声に関しては色々な事を言われます。生で聴かせられなければだめだという人も居れば、マイクテクニックも大事という人も居ます。生でやったら素敵なのに、マイクの使い方が下手で、大きな会場では全然ダメだったという例もあります。マイルス・デイビスなどはマイクという新時代の機材を最大限に生かして新しいスタイルを作りました。エレキギターだって同じ事で、もう生ギターとは全く違ったテクニックが必要なのです。私は生声でやるのが一つの信条ですが、大ホールでマイクやピックアップを通しても、しっかり表現できるように機材に対する知識もそれなりに勉強しています。時代の中に在ってこその舞台であり、私はその舞台で生きているのですから・・・。
とはいえ、私は度々このブログにも書いているように、声や歌や言葉というものに関して今一つ解決されない部分を自分の中に感じています。
そんなこともあり、声そのものに素晴らしい質がある方にはある種の憧れが有ります。私の声がどんな風に聴衆に感じてもらえているのか判りませんが、少なくとも楽器と同じレベルで、自信を持って演奏出来なければ、プロの舞台では通用しません。何事もそうですが、楽器でも声でも一流を目指すのなら、人生賭けてやらなければ質の良いものは出来ません。私はどうにも不器用なので、声も楽器も両方やるというのはなかなか難しい。
多少上手に語りが出来ても、ただ唄いたいから、何ていう安易な発想ではお稽古事の延長になってしまいます。
少なくとも私は自分の考える音楽が在り、それを舞台で表現しているので、声を使うにしても最終的には旧来の琵琶の弾き語りの形ではなく、全く独自の形で言葉を扱い、曲を作って行くと思います。先ずは器楽としての琵琶楽の確立が一番の命題ですが、その先には声と琵琶という普遍的な組み合わせも当然見えて来ています。今生でそこまで行きつけるかどうか判りませんが、素晴らしい魅力的な声を持っている諸先輩方々と、お付き合いさせて頂くのは、本当に勉強になります。世界もぐっと広がりますね。
声は音楽の原点でありますし、声こそはその人の個性を一番現すものとも言えます。それだけに技術でこねくり回したような歌はけっして心地よ良いものには聴こえません。虚飾を配し、その人の等身大の声が口から流れ出てこそ、何かが伝わって行くのだと思っています。
馬場さんの声を聴きながら、色々な想いが沸き起こりました。