音色の秘密

水野俊介先日、コントラバス奏者の水野俊介さんのソロライブに行ってきました。水野さんはジャズ出身ですが、様々なジャンルで多くの人と共演を重ね、現在はオリジナルな音楽で活動をしているベテランの演奏家です。けっしてテクニック派ではないですが、ピチカート中心に演奏した、「What a wonderful world」や「鳥の歌」などなかなかしっとりと聴かせてくれました。
この日は、キャンドルナイトという事で、照明を消してろうそくの光だけ。マイク無しの生音で演奏してくれたのですが、静かに響く音色には、長い事コントラバスと関わってきた水野さんの姿がそのまま表れているよう。とても柔らかく優しく場に満ちて、気持ちの良い音色に包まれました。

残念ながら演奏した場所はどうにも雑音が多く、スタッフが音楽を愛しむ感じはほとんど無かったですね。スローライフを標榜する店でしたが、音楽や芸術をただの表面を飾るファッションとして軽く見ているんでしょう。水野さんの音楽の持つ静寂性とは対極にあるようなスペースでした。

それにしても水野さんは懐が深いな~~。私ならああいう場所では到底演奏出来ません。今度は音楽を待ち望む人たちの愛情溢れる場所で、水野さんの深い音色をゆっくりと聞いてみたいです。

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高橋竹山7私が思う一流の演奏家は、どんなジャンルであってもその人だけの音色を持ち、その音が魅力的であることが必須条件。歌う人だったら声そのものが何よりも第一なのは言うまでもありませんね。残念ですが邦楽や琵琶の世界で、惹き付けられるような魅力ある音色を出す人は今・・・。高橋竹山や古楽の波多野睦美さんのように、人の心の奥底を震わせるような音色はもう出て来ないのでしょうか・・・?。

音色は演奏家の命です。少なくとも私には音楽理論よりも、演奏テクニックよりも音色が先ず第一。音色は色々なものが自分の中に備わってくると一段と深まって行くもの。音色を聴いただけでその人の実力は聞こえて来ます。だから私も音色にはこだわってしまいますね。私は自分専用のモデルを使っていますが、自分が思う世界を表現する為には、どうしてもそれが必要だったのです。

ギタリストでもピアニストでも、たった一つのタッチを見つけ自分のものにするのに、膨大な時間を人生の中に費やします。いつも書くように音楽は技芸ではないので、しっかりお稽古して流派の曲を上手に弾けても自分の音楽を見出さない限り、自分の音色は出来上がらないのです。タッチ一つにしても、何故そういう風に弾くのか、何を目的として弾くのか、その先に在る世界は何なのか、色んなことを考え、沢山の経験をして、自分のやるべき音楽・世界をとことん追求して、長い長い時間をかけて、初めて自分の音色が出来上がるというもの。つまり音色の先に在る世界を表現出来、自分のやるべき音楽に至ってはじめて、その音色が出来上がり、それが聴衆を魅了するのです。

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あの肌をざわつかせるような、琵琶にしか出せない、日本にしかありえない琵琶の生の声を、ただ歌の伴奏だけに使うなんて、私にはとても出来ません。唄がどこまでも主だというのなら、伴奏は三味線だっていいのですから・・。私はあの音色を聞かせ、聴衆を納得させてこそ琵琶奏者と名乗れるのだと思っています。

音楽家は皆そうだと思いますが、私にとっても音色は何処までも追及すべきもの。それは私の音楽そのものであり、哲学であり、そのまま私の人生なのです。歌手が人生の全てをかけて声を創り上げて行くように、私も私の音色をぜひ響かせたいですね。

水野さんの音色を聴きながら想いが募りました。

音の風景2015

先日、筝の中島裕康君がやっている邦楽四重奏団の演奏会に行ってきました。

邦楽4重奏団

彼らは年に2回、すみだトリフォニーの小ホールで、現代邦楽の演奏会を開いています。若手作曲家に新作を委嘱したり、ベテラン作曲家の現代曲を再演したりしていますが、今こういう活動を定期的且つ真剣にやっているグループは彼らだけだと思います。
今回は、山根明季子作曲「水玉の愛の中に消える」、松本直祐樹作曲「Mistic Focus」、吉沢検校作曲「冬の曲」、丹波明作曲「音の干渉 第一番」、廣瀬量平作曲「雪綾」というプログラム。古典の一曲を除き、若手の作品二曲、ベテランの作品二曲という内容でしたが、どの曲からも色々なアイデアを頂きました。

5中島裕康君
演奏家としての彼らの姿勢は実に真摯です。古典は全て暗譜ですし、現代曲の解釈も研究の跡が良く伺えます。勿論若さゆえの部分も多々あると思いますが、演奏レベルはかなり高いですよ。あれだけのプログラムをこなすにはかなりの練習量も必要でしょう。手慣れた技で弾けるようなものではありません。こういう演奏会を年に2回やっているという事は、人生の全てを音楽に掛けているという事だと思います。彼らの姿を観ていると、自分自身も元気が出ますし、背筋も伸びますね。

                             

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郡司敦作品個展にて中島君、田中黎山君と

今、30代40代の演奏家がポップスに行ってしまう例が多い中、20代の若手が現代日本の芸術音楽を真摯に追求しようとする姿勢には、実に頼もしいものを感じます。エンタテイメントばかりでなく芸術音楽に人生賭けて取り組む人がもっともっと居て良いと思います。ポップスが悪いという事ではないですが、売れる事ばかりが頭にあって、「人気者になりたい、有名になりたい」という連中ばかりではクオリティーは上がって行かない。派手な化粧や恰好をし、誇大な宣伝をして「売る」事に執心し、パフォーマンスばかりに気を取られているようでは、音楽はいつまで経っても磨かれない。舞台人としてそういう部分が必要な事はよく判りますが、先ずは音楽。音楽が何よりも優先して行かなければ、良いものは創れません。邦楽四重奏団にはこれからも期待したいですね。

さて、ここからは作曲家としての視点。

           黛敏郎武満徹2
現代邦楽を聴いていて思うのは、作曲家の質です。現代日本の作曲家は、皆西洋クラシックの勉強を子供のころからやってきた人達が、大人になってから邦楽器に取り組んでいる。だからその発想や様式、哲学等は洋楽のままというのが残念でならないのです。あの発想ではいつまで経っても「春の海」のような新時代の日本音楽は生まれて来ない。グローバリズムの時代ですから、色々な音楽のミクスチャーがあってしかるべきだと思いますし、邦楽に対し色々なアプローチもあって良い。しかし彼ら日本人作曲家に盤石な西洋の文化基盤があるとは思えないし、日本の文化基盤もろくにも無い。コスモポリタンと言えばそれまでですが、人間はそんなに器用ではありません。誰しも親族や生まれ育った地域風土というものを持ち、そこにアイデンティティーを見出してこそ、人として成り立つのではないでしょうか。文化というものを持たない人間には文化は創れない。彼らが、土台となるべき自国の文化をろくに知らないという所に、大いなる疑問を感じるのです。

こういう部分は武満さんや黛さんもかなり考えたのではないでしょうか。ただ二人の生きた時代には、まだ邦楽というものが世の中にわずかにありました。しかし現代には社会の中に邦楽というものが全く無い。せいぜいお正月にどこかでお筝を聴くのが関の山でしょう。今回の演奏会で出品した二人の若手作曲家も、邦楽が土台に無い事は明らかだし、一人は、「邦楽は中東のマカームやガムランよりも遠い存在」と書いています。

鷹姫全く違う所からの視点や発想は大いに歓迎なのですが、それは往々にしてアイデアという所で止まってしまう。やはり文化というものにはアイデンティティーが無くては文化たりえません。日本には日本のアイデンティティーがあってこそ、日本音楽の最先端となるし、現代邦楽というものになって行くと思います。
今回の作品は、どれも大変アイデアに富んでいて参考になりましたが、もし邦楽四重奏団が弾かずに、洋楽器の演奏家がやっていたら、「邦楽」という音の風景は感じられなかったかもしれません。

若手の作曲家にはもっともっと文化や風土、歴史等日本とは何か、日本人として作曲をやって行くとは何か、邦楽器作品を発表して行くとは何か、深く考えて欲しい。全然考察が足りない。現時点で彼らにとって、結局邦楽器はただの一民族楽器であり、飛び道具でしかない。

若き才能を聴きながら、現代に於ける邦楽の存在に想いが広がりました。

雪景色の記憶2015

先日、3年ぶりに福島県立美術館ホールで演奏してきました。

福島県立美術館-s

前回は2011年の秋でした。震災のすぐ後という事もあり、大変心配しながら演奏会に臨んだのですが、行ってみたら場内がもの凄い熱気に包まれていて、250程の小さなホールではありましたが、入りきれなくて随分と多くのお客様をお断りをしなければいけない位、皆さんの熱い想いで一杯の演奏会でした。あの食い入るような皆さんの表情は未だに忘れられませんね。
今回は「是非手妻と一緒に来てください」という要望でしたので、藤山新太郎師匠に声をかけて、師匠と、師匠の弟子の晃太郎さんと私の3人でやってきました。

IMGP0021師匠と晃太郎さん
当日の福島は雪。それも風が強く吹雪いていて、東京人からすると猛吹雪のようにIMGP0022感じられる天気でしたが、お客様も沢山お越しいただきまして、ありがたかったです。
先ず私が平家物語の「千手」から題を取った「朝の雨」他を演奏した後、手妻のコーナーに移り、最後は師匠と私でいつもの「蝶のたはむれ」というプログラムでした。お客様の反応も良く、楽しい会になったと思います。

それにしても鍛え上げられた芸というものは、いつ見ていても気持ちの良いものです。また師匠は常に「次」を考え、色々なものを見て、前を向いている。その姿勢があってこその芸なのでしょうね。師匠の舞台は余計なものが無く、芸そのものにぐいぐい惹きつけられます。話芸一つとってもかなり洗練されているし、舞台運び、個々の演目のレベル等々、観ていて気持ち良いです。こういう質の高いエンタテイメントがもっと増えて行くと良いですね。巷には色々なものが溢れていますが、外側ばかり派手に飾っても、やはりしっかりとした中身がなくては・・・。お客様は観ていないようで、実はしっかり観ているものです。

円空展

今回はちょうど美術館で「円空」展をやっていましたのでゆっくり観てきました。久しぶりに実物を目の当たりにして、感じるものが大いにありました。きっと円空さんには、自らの内に湧き上がるものが強く有ったのでしょうね。静寂も激しさも、優しさも鋭さも、色々なものを感じました。普段お寺で見る仏像とは桁が違いますね。

作為が無いという言い方もされますが、作為が表に出て来るというのは、まだ想いが弱いという事。想いが弱いから「ああしよう、こうしよう」と頭を使って補おうとするのです。上っ面の思い込みや、頑張っている自分に酔ってがなり立てて感情をぶちまけている程度のものは「想い」ではありません。その場の感情です。何かを創り出すには揺るぎない深い「想い」が必要です。円空仏のその姿には余計な衣の無い深く熱い「想い」を感じました。

P2069455そして「想い」を成就させるには、「純粋」な心でなくては成就しないと常々私は感じます。「純粋」という事を論じるのは難しいですが、例えば無垢な子供のような状態も純粋ではあるでしょう。しかしそれはとても危うく壊れやすい。またその純粋さからは何かを生み出すという事が難しい。何かを生み出すことの出来る「純粋」というものは、ただ何も知らないという事とは違うと思っています。途方も無く色々な所を通り越してこそ初めて至ることが出来る心ではないかと思います。

そこに至る過程で、技術を身に付けたがために、その奴隷になってしまう事もあるでしょう。経験の果てにこじんまりと納まり、手慣れたものをこなしているようにもなってしまうかもしれません。何しろとことんやって、突き抜けて行かなければ「純粋」には到底至らないのではないでしょうか。
時に技術を捨て、常識も定型も破り捨て、何物にも囚われず、惑わされない姿勢で何処までも世の中の諸事に立ち向かう、そんな生き方は、道元禅師や良寛さん位にしか出来ないかもしれません。並ではとても出来るものではありませんが、そういう揺るぎない強さとしなやかさを兼ね備えていてこその「純粋」だと私は感じています。正に「プレロマス」です。その「純粋」な心に湧き上がるものが、「想い」なのではないでしょうか。まあ私はとてもそこまで出来ないでしょうが、少しでもそんな境地を目指したいものです・・・・。

私が円空仏に惹かれたのは、そんな想いの純粋さと強さです。音楽も同じです。型にはまって胡坐をかいているようなものには魅力は無いです。何物にも囚われず純粋に音楽を創ろうとする姿、そして湧き出でた音楽にこそぐっと来るのです。

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私はプロとして舞台に立っている以上、魅力ある舞台を創るのが仕事です。お金も頂くなくてはなりません。それにはコンセプトも哲学も、技術も経験も必要です。より良く聴いていただくためには、すわり心地の良い椅子を用意する事も大切でしょう。しかしすべては舞台に、そして音楽に成就しなければ私の仕事は成立しない。私なりのやり方で魅力ある音楽と舞台をどこまで創ることが出来るか・・・。終わりはないですね。

藤山新太郎師匠の芸を観て、円空仏に触れて、また自分自身の行くべき道に想いが募りました。

友、遠方より来る2015

今年も台湾の友人達が来てくれました。

2015-2-12

写真は左から二胡奏者の林正欣さん、琵琶奏者の劉芛華さん、二胡奏者の 葉文宣さん。林さんは今回初めてお会いしました。今回は皆さんを蕎麦「道心」にお連れして日本蕎麦をたっぷり食べて頂きました。また皆さんお酒はしっかりいける口ですので、そば焼酎の蕎麦湯割りでこの笑顔!。

葉さんと劉さんが我が家に来るようになって随分と経ちますが、お話を聞いていると、二人ともどんどんと活躍の場を増やして行って、演奏家としてかなりの成長している様子を感じます。だからいい顔しているんですね。

劉リサイタルパンフ12012年の劉さんリサイタルのチラシ
2012年には劉さんが、拙作「Sirocco」をリサイタルで取り上げてくれました。私の作品が海外で演奏されるというのは実に嬉しい出来事でした。豪華なパンフレットに紹介を頂いたんですが、自慢して見せて回ったのを覚えています。
そして来年、劉さんと林さんのデュオの演奏会(台湾)で、またまた私の「塔里木旋回舞曲」を演奏してくれるんです。面白くなってきました。本当に嬉しいです。

何時も彼女たちは本当に元気いっぱいで、日本滞在の間は能や歌舞伎などをたっぷりと楽しんで行きます。今回、葉さんは蜷川舞台の「ハムレット」も観たそうで、その他にも六本木歌舞伎や国立能楽堂での演能を観てきたようです。現代の日本人よりもよっぽど日本文化に触れているので、毎回お酒を呑みながら能や歌舞伎は勿論、仏教や色んなジャンルの音楽の話など、とにかく尽きないのです。現代の日本人は伝統文化にほとんど触れずに生活しているので、かえって彼女たちの方が日本人より話が弾みますね。葉さんと劉さんは台湾での勘三郎ファンクラブの代表もやっていた位ですので、その知識や薀蓄は私ではとてもかないません。

           劉プロフ1葉文宣

彼女たちはソロや合奏団で活躍しているプロ中のプロ。葉さんは国家国楽団に所属していて、ソリストとしても活躍、オケをバックに協奏曲等バリバリ弾いてます。劉さんは琴園国楽団に所属していて、昨年はドイツ、スイス、中国を回って好評を博して来たようです。ソロ活動も活発で、定期的にリサイタルを開いて、その中で私の作品を取り上げてくれたのです。彼女たちのDVDやCDを今までいくつか聴かせて頂いて来ましたが、とにかく凄いレベなんです。これだけのレベルを先ずは持っているというのが素晴しいですね。音楽性も勿論ですが、民族音楽ではなく、芸術音楽として表現活動をしてゆくには、何よりも高い技術と音楽性が先ずはなくては!それがあってこそ世界に出て行けるというものです。

P2069455先日とある先輩が「私はいわば琵琶のお付きの者です。聴衆は琵琶を聴きに来るのであって、私を聴きに来る訳ではないですからね・・・」なんて情けないことを言っていましたが、正にこれが今の琵琶の現状です。こんな意識や視野しか持っていない人が琵琶の先生とは何ともね・・・。今やあらゆる音楽がネット配信され、世界の人が聴いてくれる時代にあって、この志の低さ、視野の狭さはは・・・・。私が流派や協会に居られないのは当然ですね。
「珍しいもの」という所で甘んじていては、お稽古事の意識しかないようでは、音楽は生まれて来ません。創造して行く力が無くなったら、明清楽のように消滅してしまうのです。要は何を思いどこを見ているか。器が大きく、実力も兼ね備えた琵琶人が出てきて欲しいですね。

今から15年~20年程前でしょうか、私が琵琶で活動を始めた頃、某雑誌の編集長に「琵琶で呼ばれている内は駄目だ。塩高で呼ばれるようになりなさい」と言われたのを覚えていますが、音楽は時代と共に在ってこそ、社会の中に存在価値が出て来ます。形は常に時代と共に変わってしかるべき。受け継ぐべきは精神や感性、志ではないでしょうか。時代に合った形で心を受け継いで行かなければ、次代に伝えることは出来ません。今、邦楽や琵琶はそれを実践できているのでしょうか・・・・・?。もっと時代と呼応するような作品や演奏家が出て来るべきだと思います。志のある方、是非頑張りましょう!!。

2015-2-12道心s陽気な蕎麦道心の御主人と一緒に

良き友達と共に在る事の幸せを感じた一日でした。
今年も沢山作品を作りますよ。乞うご期待!

彼方へ2015

先日、初台の近江楽堂にReflections New CD「The Ancient Road」CD発売記念演奏会をやってきました。

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考えてみれば樂琵琶だけの演奏会は、北鎌倉の古民家ミュージアムでやるのが毎年の恒例で、後はお寺や踊りの舞台の時ばかりでしたので、ちゃんとした演奏会場でフルに樂琵琶の演奏会を開くのはこれが初めてでした。まあ今回は樂琵琶奏者としての初お披露目の会でもありました。
やっぱり私には器楽としての琵琶楽がしっくりくるし、これからもどんどんとこの方向でやって行こうと思いました。

21stアルバムの「Oriental Eyes」では、薩摩琵琶でやりたいようにやりました。全曲インストで、ちょっとフリージャズ的で、未熟ではありながらもとても私らしい、私にしか作れない作品でした。しかし「語りをやらなくてはいけない」という呪縛は、仕事が順調に入るようになればなるほど、だんだんと自分の中で大きくなって行きました。歌をやりたくて琵琶を弾き始めた訳ではないのに、負けるわけにはいかない、というつまらない意地に囚われていたんでしょうね。まあそういう時期を経たことも、今となっては貴重な経験です。

それが樂琵琶を手にした頃から、本来自分がやりたいものがまた少しづつクリアになって来ました。変な意地でマスキングされていた心に、1stアルバムの頃の気概や矜持がまた蘇ってきたのです。
樂琵琶の第一作目「流沙の琵琶」では、まだまだ自信は持てませんでしたが、P2069448前作「風の軌跡」でかなりの手ごたえを感じて以来、樂琵琶云々というよりも、自分のやるべき音楽が明確になり、今度の「The Ancient Road」を作ってからはすっかり吹っ切れました。だから先日の演奏会は、新生塩高のお披露目でもあったのです。しかしながら、まだまだ旅の途中。哲学的な面はすっきりしてきましたが、演奏家としてはもっともっと高い技術がこれからは必要になるでしょう。作曲も今まで以上に重要になって来ると思います。課題はまだまだ多いものの、これからは薩摩・樂琵琶の区別なく、レベルが上がってくる事と思います。

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それにしてもこうして色々と変遷をしながら今に至るには、多くの方々との関わりがあったからこそだと思っています。薩摩琵琶を始めたのは作曲の石井紘美先生の助言だったし、樂琵琶を演奏するきかっけは笛の大浦典子さんのアドヴァイスでした。そしてその樂琵琶の演奏を強力に後押ししてくれたのは故H氏でした。こうした数々の出逢いが無ければ、先日の演奏会も開いていないでしょう。縁とは異なものですね。縁によって自分が作られてゆくかのようです。

囚われるものもだんだん無くなってきたし、背負うものも私には元々無いので、これからもどんどん自分の思うようにやって行こうと思っています。

人生も音楽もこれからが面白くなりそうです。

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