プロの条件Ⅳ

ちょっとご無沙汰していました。特に忙しいという訳ではなかったのですが、何やら雑用に追われ、あいかわらず曲作りに頭を使っていたので、ブログまで頭と手が回りませんでした。お蔭でタイプの違う独奏曲が2曲出来ました。機会をみて披露して行きたいと思っています。

先日は春の嵐が来ましたが、過ぎてしまえばもう外はすっかり新緑の季節。樹木花々の旺盛な成長は、正に命の息吹。見ている此方も元気になりますね。今年は曲作りも進んで良い滑り出しです。

高尾桜
多摩森林科学園の八重桜 まだまだ楽しめます

今年も色々と声をかけて頂いて、演奏会も充実してきているのですが、樂琵琶のCDを出したこともあって、年々仕事の質が変わって来ています。ちょうど10年前に樂琵琶と笛のReflectionsを発足させたのですが、その頃からより良い響きのする場所も選ぶようになりましたし、要求されるものも変わってきた気がします。こんな風にあれこれやっていれば、だんだんやり方も質も変わって行くのは当たり前ですね。

私の音楽にはやはり静寂が保てる場が必要です。社会全体がそうですが、今、音楽にも静寂が無いですね。私がポップス邦楽等にあまり良い事を書かないのは、静寂を感じないからです。ジャンル問わず一流の演奏家には「姿」があります。そしてそこには静寂を感じるものです。静寂感を保ち、静寂感を感じさせるのもプロとしての大きな条件だと思います。お上手にぱらぱら弾いているだけでは静寂は訪れない。格好だけ付けてもかえって「フリ」をしているのが見すかされてしまいます。心身ともに凛としたものを持ってこそ、静寂は身の上に現れるのではないでしょうか。

P2069424最近よく使っている近江楽堂は規模は小さいですが、静寂が保てるのです。静寂から湧き上がって来る音は、私にはなくてはならない部分だし、一音一音を丁寧に聴かせたいともう思うので、響きや雰囲気という事も含め、これからは益々演奏する場所を選んで行くようになると思います。
どんな場所でもそれなりに聴かせる事が出来るのがプロではありますが、何事に於いても選ぶ耳と目を持つのもまたプロというもの。一流になれば成る程に、こうしたこだわりが強くなるように思います。

それは上手という事を超えて、舞台を務めるという意識が強くなるからだと思います。だからより良く表現出来る場を選ばなくてはなりません。こういう所だから、という言い訳は通用しない。ハイクオリティーを実現するには、場所選びは必須なのです。そこまでやってやっと評価の対象となるのです。上手を目指している内はまだまだお稽古事のレベル。一般のリスナーに評価してもらうには、ステージを張ってなんぼではないでしょうか。

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演奏家にはソリストタイプも居れば、伴奏タイプの人も居ます。どちらも出来る人というのはなかなか居ないものです。ピアニストなどは特に顕著ですね。どちらのタイプも極めて行くのは厳しいものがあります。しかし琵琶は独奏で演奏するスタイルが基本ですので、人の伴奏というのはまずありえない。皆がソリストにならざるを得ないので、向かない人が居ても仕方がありません。この辺りが琵琶の難しいところです。
2時間のステージでゲストを一人二人入れてたとしても、自分の冠でステージをこなせる人は、今琵琶の世界にどれだけいるでしょう??ライブのようなお酒を呑みながら気軽に聞ける場所は別として、ホールや音楽サロンでじっくりと自分独自のスタイルで、独自の魅力を持った音楽を聞かせられる人は、琵琶にはまだまだ少ないと思います。

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また旧来の薩摩琵琶には曲そのものが少ない。また各曲のイントロもメロディーも、曲構成も、琵琶のフレーズも皆同じで、歌詞だけが違うという音楽なので、やっている本人は色々なものを演奏しているつもりでも、聴いている方は全て同じ曲に聞こえる。こういうジャンルも珍しいですね。これではとても2時間もちません。延々と同じようなものを聞かされたら、さすがに優しいお客様でも二度目は来てくれないでしょう。

では、どうしたら2時間の舞台を張れるようになるのか。ゲストに演奏させて時間稼ぎするなんてやり方が以前の琵琶の舞台にはよくありました。またメンバー集めてバンド仕立てでポップスを演奏して、最後は十八番の流派の曲で締めるというやり方も結構多いですね。しかしどのジャンルに、「ポップスのヒットソングとお稽古で習った曲」を演奏して、プロですと言ってお金を取っているようなものがあるでしょう??。お稽古事の発表会ならいざ知らず、私はそんな例を他のジャンルでは知りません。古典ものをやるにしても自分なりの解釈と表現をしてこそ、プロとしてお金が取れるのではないでしょうか。習った通りの事をなぞり、お上手さを披露しているのをプロとは誰も思わない。そんなことは当たり前ではないでしょうか。プロは独自の世界を表現してこそプロなのです。
人それぞれ考え方もやり方もあるでしょう。どんなやり方でもいい。とにかく誰かの音楽ではなくて、本人の音楽が聞こえてくれば良いのです。お上手を披露しても始まらない。

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時代はどんどんと変わって行きます。今迄はこれで良かったものが、もう数年したら通用しなくなるのは世の常。お師匠様の時代のやり方では、もうやっていけない、という事も多々あります。我々は次の時代のスタンダードを示していかなければ舞台も時代も張れない。前時代と同じ発想、同じやり方、同じレールの上に乗っている優等生ではプロの演奏家には成れないのです。伝統は何も形を継ぐことではない。志を継いで行かなければ時代に取り残され、陳腐なものになって行ってしまう。

永田錦心も鶴田錦史も、その当時のやり方に反旗を翻し次世代のスタンダードを作ったから、聴衆に、そして時代に支持されたのです。日本の精神・伝統文化の上に立ちながらも、「こいつは今迄とは明らかに違う」と思わせる位でちょうどいい。そしてそれを世間に認めさせれば、次の時代がやってくる。永田・鶴田がやったように・・・。

私は自分に出来る事しか実現できないですが、是非琵琶の世界に、次の時代を感じさせるような演奏家が出て来て欲しいですね。

A Love Supreme

ルーテルイースター2015

この間の日曜日は、地元のルーテルむさしの教会で行われたイースターコンサートに行ってきました。この教会では、以前のブログでも報告した通り、ここ数年私自身も何度か演奏しているのですが、色々なイベントで演奏会をやっているので、毎回楽しみにしています。この教会は住宅街の中にあって、けっして荘厳で豪華という訳ではないのですが、何とも気持ち良い場所なのですよ。礼拝堂はノアの方舟を模して造られたとの事ですが、まあ私にとってはちょっとしたパワースポットですかね・・・?
私は毎日のんびり生きているつもりでも、知らない内に普段の生活で、ストレスやら毒が溜まるようで、ここに来るとそれがス~っと消えて身が軽くなり、気分が変わるのをいつも感じます。不思議なもんですね。私は神も仏も判らん者ですが、この教会の大柴牧師はそんな私に常に声をかけてくれます。教会の皆さんも「愛を語り、届ける」という姿勢に溢れている。この殺伐とした世にあってありがたい事です。貴重な場所ですね。かつてお寺なんかもそういう所が街の中にいくつもあったと思うのですが、残念ながら今、街中のお寺では気軽に集まれる所は見かけなくなってしまいました。たまにはこういう所に来て、心身共に清めなくては。

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このイースターコンサートは50年近く続いているそうで、出演している東京バッハアンサンブルは第一回からずっと演奏しているとの事。勿論レベルもなかなかのもの。今回もじっくりと聴くことが出来ました。
昨年同様、バロックを中心に弦楽合奏、協奏曲、歌とヴァリエーションのあるプログラムで、オーボエの姫野徹さんやソプラノの田村桂子さんなど、素晴らしいソリストの演奏も堪能させて頂きました。出演の皆さんがクリスチャンなので、皆さんにとってバロック音楽はとても身近な音楽なのでしょうね。無理も無ければ、けれんも無い。正に万物への愛情に溢れていたコンサートでした。

ルーテル武蔵野教会私はクリスチャンではないですが、民族色の強い音楽よりもバロックや現代音楽の方が断然しっくりと来ます。土着性のある民謡や、いわゆる民族音楽にも結構魅力を感じるのですが、どうしても最後には洗練の極みのような世界に行き着いてしまいます。これは昔から変わらないですね。私が雅楽や能に惹かれるのは、そこにハイレベルな洗練を感じるからです。

どんな音楽が在っても良いし、どれも魅力があるからこそ皆に受け入れられ、世に存在していると思いますので、優劣は無いと思いますが、自分にとって無理のあるものをずっと聞いたりやったりするのは難しいですね。しかしまだまだ保守的な世界では、どうでしょうか・・・・?。
音楽をやっている人の精神が何かに囚われているようでは音楽は響きません。音楽がイデオロギーで固まったり、意味の無い因習や形式等で形骸化していたり、権威を示すようなものに成ってしまったら、そこからは押しつけしか聞こえて来ない。音楽はどんなものであれ「 A Love Supreme」に溢れていなくては、聞き手に届きません。それはコルトレーンでもマイルスでも、宮城道雄でも永田錦心でも、モーツァルトでもマーラーでも皆同じです。

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ルーテル教団は歌う教会といわれているそうです。だからいつも気持ち良く音楽を聴くことが出来るのでしょうか。私はあまり器用な方ではないので、すぐに周りの事柄に振り回されてしまうのですが、ここに来ると、いつも気持ちが軽くなります。
「〇〇のようでなくてはいけない」、「〇〇でなければならない」という事は、何事に於いても無いのです。ただ只管に己の人生を生き、この身から湧き上がる自分の歌を歌えば良いのです。意地で歌っても自分の歌にはならないし、歌いながら戦っていても何もならない。
本来の自分の歌がなかなか歌えないのが世の中というものかもしれませんが、自分の歌を歌える場所、そんな歌を聴ける場所を持つことは、人生の幸せかもしれません。

私の歌を、あなたの歌を、存分に歌おうではないですか。

基本というものⅢ~リズム感

先日、久しぶりに新宿エルフラメンコにて本場もんのフラメンコを観てきました。

エルフラメンコ2015

出演はオスカール・デ・ロス・レイジェス率いるチーム。本場の一流はさすがに凄い。以前同じエルフラメンコで観たダニエルトーレスのチームもとんでもなくレベル高かったですが、今回のオスカールさんも負けてないですエルフラメンコ1ね。実にいい姿をしている。面構えも申し分ないです。
バックを務める面々もなかなかの実力。特にカンテ(歌)のアナ・レアルはど迫力の歌いっぷり。なんだかMetで観たステファニー・ブライスを髣髴とさせるような貫録でした。
とにかくリズムが凄いのです。フラメンコを始め民族音楽系では、ジャズのようなレイドバックしたような乗り方でなく、前に前に突っ込んで行くような取り方をするのですが、その躍動感とビシバシと決まりまくるリズムの疾走は、酔ってしまう程の迫力でした。今回のグループは割と伝統的なスタイルが色濃く残っている感じで、ダニエル・トーレスチームのモダンなスタイルとの比較も出来、気持ち良く聴けました。

一般的に日本人はリズム感が悪い等と言われますが、確かにこうしたフラメンコやジャズのリズム感は日本人には元々無いでしょうね。逆にフラメンコの方々もジャズには上手く乗れないと思いますし、能は舞えないでしょう。結局は自分の持っているリズム感と違うものをやるのは、誰でも難しいのです。だから「日本人はリズム感が無い」という言い方は、ちょっと的外れ。それは西洋コンプレックスから出た言葉でしかないですね。
ジャズやフラメンコ、他ラテン系の音楽はリズムというものがメロディーやハーモニー以上にとても重要な要素ですので、他の文化圏の人にはそう簡単に出来るものではないと思います。日本人でもジャズやラテン、フラメンコのリズム感を本場さながらに体現出来ている人は本当に少ないですね。私も若き日にはこうした音楽を夢中になってやったものですが、今自分で演奏しなくなったのは、正にこのリズム感ゆえなのです。

上手に成ればなる程に、本場の演奏家との違いが見えてくるのです。2014年阿佐ヶ谷ジャズストリートジャズやフラメンコの一流の方々と接してみると、生活習慣から、感情表現、食事、習慣etc.とにかくあまりに違うのです。だから物事に対する感じ方が全く違う。基本的人間性は皆さん素敵な人が多かったですが、日本人からすると自己主張は鬼のように強いし、日本人のように「まあね」なんて事は一切言わないし、「すいません」なんて謝る事は全く無い。そんな彼らの生活の中からあのリズムが出て来るのです。
少なくとも日本の中で日本人として生きていたら、とてもあのリズム感や表現力は身に付かないし、日本の中で彼らのように生きたら、毎日がトラブルの連続になってしまう。そんな風に感じました。

今思うのは、自分が生きているこの生活の中から出て来るものをそのままやれば、必ず素晴らしい音楽に成るだろうという事です。真似をしようとするから無理が出て来るのであって、日本の土壌が育んだ日本の文化には、他の国々には存在しない、深く洗練された「間」という独特のリズムがあるのです。リズムを一定の間隔で刻むものとしか捉えていないから、「日本人はリズム感が悪い」なんていう言葉が出て来るのです。リズムがフラメンコやジャズの根幹だとしたら、「間」こそ日本音楽の根幹です。

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例えば日本語の語りにはとても独特のリズムがあります。一文節の中でも、前半と後半ではスピード感が違うし、抑揚も違う。それを節という名でメロディーのように教えてしまった事が現代の邦楽の間違点だと思います。節を追いかけて唄うようになったら、日本語のリズムが判らなくなってしまう。一つ一つの言葉を吟味して、どの位の勢いや抑揚でやるのか、文節の中で何処を早くして、何処を緩めたり伸ばしたりするのか・・・。語りは自由に出来る分、かなり細かく考察をしないと本来は出来ないのです。それを節の形で覚えて、安易に唄ってしまう事が、一番の問題であり、リズム感に対する大きな誤解のもとになっていると、私は思っています。

かつてアルゼンチンタンゴがヨーロッパに渡り、コンチネンタルタンゴになり、イギリスでは白人達によるブルースが、ブリティッシュブルースとしてジャンルを確立しました。クラシックだって各国それぞれの音楽が在り、ジャズも色々なスタイルのものがある。どんなものであれ自分達のリズム感で、自分達のスタイルに昇華して、ハイレベルの音楽に創り上げてやれば良い事なのではないでしょうか。違う文化圏の音楽を同じようにやる事もない。
日本スタイルのジャズやフラメンコをやればよいし、邦楽だって琵琶だって、其々各人スタイルの違いを打ち立てればよいと思いませんか。それをやろうともしないで、挙句の果てに「リズム感が悪い」なんて事を言い出すのは、思考が「物まね」の域で終わっているという事。コンプレックスの極みとしか思えません。

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邦楽に於いても、師匠と自分は違う人格を持った別の人間なのだから、違って当たり前。レベルが高くなればなる程、別のスタイルが出て来て当たり前なのです。守・破・離とは世阿弥の時代から言われている事ですが、いつまでも物真似を繰り返し、低レベルな所で甘んじるのか、それともそれを乗り越え昇華して、新しいスタイルを打ち立てるのか・・・?皆さんはどちらを選びますか?

リズム感は感性そのものであり、自分の生きてきた証でもあると思います。何もジャズやフラメンコのものと同じである必要は無いし、同じであってはいけない。自分の持っているリズム感や感性に誇りを持とう!!。音楽はそこから生まれ、そこから自分の歌が流れ出るのです。ないものねだりや、コンプレックスに囚われていたら、何時まで経っても自分の歌は響かない。自分の歌を高らかに歌おうではありませんか!!

それこそが我らの基本なのですから。

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基本というものⅡ

この所寒暖の差が激しく、東京の桜はすでに見頃を終わってしまいましたが、散り行く桜もまた一興。地面や川面に落ちた花弁等とても風情がありますね。

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長瀞の桜 先週

こうして毎年梅や桜を追いかけて過ごせているという事は本当に幸せです。そして本居宣長ではないですが、やはり桜は日本人の感性の根幹にあり続けているのだな、と思えてなりません。

DSCF6243_1日野先生
そんな華やかな日々の一日、フラメンコの日野道生先生が毎月やっている小規模なパーティー(ペーニャといいます)に行ってきました。久しぶりに伝統的なフラメンコを目の前でたっぷりと聴くことが出来ました。日野先生のスペインでの武者修行の話や、色々なカンテ(歌)の話など、現地で勉強してきた人間でなければ解らない、実に興味深い話を聞けて楽しかったです。更にカンテの女性も来てくれて、素晴らしい歌も堪能。我が身にフラメンコが沁み渡りました。実は私は20代の中頃にちょっとだけですがフラメンコギターを日野先生に習っていた事があるのです。その時学んだことは、後の琵琶の演奏技術に大いに役に立ちました。フラメンコギターと薩摩琵琶には共通するものを多く感じます。

そしてつい先日、久しぶりに自分の原点を思い出させてくれる曲を思いがけず聴きました。いつも楽しみにしているFMの「現代の音楽」で、ピーエール・ブーレーズ作曲の「ル・マルトー・サン・メートル」がかかったのです。シェーンベルクやバルトークから続く現代音楽が、次の段階に進んだ第一期が1950年前後でしょうか。その50年代を代表する作品がこの曲なんです。それから更にまた発展して行くのですが、私が作曲の勉強を始めた頃、良く聴いていました。正直なんだかよく判らず、概念論や背景となる哲学ばかりあれこれ考えていたのを思い出しました。

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ジャズや現代音楽、フラメンコなどは、自分の中ではもはや大切な音楽体験となっていて、私にとっては音楽的な基礎と言えると思います。しかしこれらは大きな要素ではありますが、ここから音楽が出て来る訳ではないのです。あくまでそのもっと奥にある感性から音楽が湧き上がるのです。日本人として生きて来た私が、ものを観て感じるその感性が先ずあって、その上に様々な音楽体験があって、それらを通して初めて音楽が生まれてきます。
私は自分の芸術的感性の源を中世の精神文化に求めています。平安時代の余情の美から始まり、中世の「わび」から近世の「さび」へと続く精神文化の発展には日本の心の土台を大変感じます。色々な体験や知識なども大切ですが、先ずは何よりもこの土台こそが私の基本となるもの。ここばかりは何が来ようと揺るぎません。

11-9基本や基礎というとすぐに技術的な事ばかりに目が行ってしまいがちですが、その技術も感性の土台があってこそ出来上がったもの。感性が違えば、良い音という概念も全く変わってきます。だから技術よりもその根底にある感性に目を向けない限り、本当の意味での技術は得られません。良い音と感じるその感性を会得しない限りは、多少手が動いたところで、何時まで経ってもまともな音は出せないのです。古典に向かう時には特にこの辺が大切な要素だと感じています。

フラメンコはアンダルシアの民謡という事もあり、DSC09916ジプシー達に共通した感性の根本があるし、いまや唄にもギターにも技術的な基盤がしっかりと出来上がっています。薩摩琵琶はどうでしょうか?鹿児島に於いては薩摩ぶりという感性の土台が、かつてあった事と思いますが、それ以降の新しい薩摩琵琶は当時の最先端のセンスで作られたものであり、エンタテイメントとして人気を得てきたので、フラメンコのような民族に直結した感性とはまた違うと思います。ではどこに精神的な根本を求めるのか?。これはしっかり考えるべき課題だと思います。色々な意見があると思いますが、流派や学校で勉強した事だけが基本ではないと思います。そのもっともっと奥をぜひとも見つめて、自分の感性の源を求めて欲しい。それこそがあなたの基本となるものではないでしょうか。
一つ私が思っている事は、薩摩琵琶はまだまだ技術や楽曲に発展の余地があり、それ故にこれから歴史を作って行く音楽であると感じています。今はまだ、時間的な事も含めて古典という段階ではなく、これから日本音楽の古典となって行くものだと思います。そして私達はその歴史の最先端にいるのです。

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パコ・デ・ルシア

常に自分の基本となる所を見つめて行く事は、それに囚われるという事でなく、何に相対してもぶれない自分の核を持つという意味で大切な事だと思います。しなやかで
且つゆるぎないプレロマスな姿勢が無いと、結局は新たなものに挑戦しても相対することは出来ず、付和雷同で踊らされるだけで終わってしまいます。「自らを燈火とせよ」とお釈迦様も言っておられます。
それにしても若き日の出逢いは正に運命。こうした運命に導かれて、自分という個性が出来上がって行く事を想うと、どうしてもはからいの中に生きているんだなと思ってしまいますね。

皆さんの基本は何ですか?

Another World

今年はしっかりと春を謳歌してます。いよいよ桜も本番ですね。お花見と称して、散歩に食事、呑み会・・何でも来い!という感じですが仕事もしていますよ!!。しっかり演奏の仕事も入っていますし、何と言っても曲作りに関しては、毎日頑張ってます(見えないと思いますが・・)。今年は薩摩琵琶の方に特化していて、ソロ、デュオの作品をいくつか作っています。秋頃には舞台でお聞かせできると思いますのでご期待下さい。

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昨年の長瀞

潮先先生私が若かりし頃就いていた師匠 潮先郁男先生は、私がプロとして活動を始めるにあたって「プロでやるのなら、音楽とは全く違う趣味を持ちなさい」というアドヴァイスをしてくれました。まだ私はその頃20歳か21歳になったばかりだったと思います。正直意味がよく判らなかったのですが、今になって本当にこのアドヴァイスの意味が身に沁みてよく判るのです。

私が「この人は良いな」と思う音楽家は、色々話してみると、皆さん音楽とは別の世界を持っている事が多いです。スポーツだったり、ラジコンやジオラマだったり、山歩きだったり色々です。鉄っちゃんなんか結構多いですね。そういう専門とは違う世界がある事で、先ずは気持ちがリフレッシュされストレスが減ります。他のジャンルの仲間との交流も気分を大いに解放してくれますね。しかしそれだけではないのです。違う世界を持っていると、別の視点で音楽に接することが出来るのです。

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郡司敦作品個展リハ

仕事で毎日演奏していると煮詰まってくる時期は必ずと言ってよいくらいにあるものです。特にある程度弾けるようになって、お仕事も出来るようになると、自分のやりたい事が判らなくなる時期は誰しもあるものです。そんな時、別の世界を持っていると、改めて自分を見つめ直すことが出来るし、現状の自分の姿が客観的に見えてきます。
色々な方向からの視点も出て来て、色々な角度から音楽に接することが出来るのです。「こういうものだ」「こうでなくてはいけない」という凝り固まった思考は、一生懸命になるほど自分の中にこびりついて来るものですが、視点を変えることの出来る人は、心がほぐれて、音楽が改めて新鮮な輝きを持って自分の中に響きだします。結果的に気持ちが豊かになり、レベルも上がるものです。
また色んな世界に接していると意外な共通点なども感じることが多いですね。それがまた音楽に新たな発見をもたらします。そんなことを実践している方は、皆音楽そのものに対してとても柔軟で且つ視野が広い。勿論肩書きやなんかでは判断しないですね。

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トビリシ、ルスタベリ劇場公演

邦楽家でも魅力ある舞台を務める事が出来る先輩方々は、関連した能や歌舞伎、他クラシックやオペラ、演劇、ジャズなどにも勿論詳しいですが、自分の専門以外の事にも大層詳しいです。その人なりのまた別の世界も持っている事が多いですね。年配の作曲家で、大きなバイクに乗ってツーリングするのが趣味という豪快な先生も居ます。勉強するというよりも、何かを追求して行けば、自然と他のものに対する興味もどんどんと湧いてくるのでしょう。気持ちはよく判ります。
芸人のいい訳で、酒を呑むのも芸の肥やし等と二言目には口にするのですが、実際、色んなところに出かけて行って、色々な人に会い、話し、常に刺激を頂くことはとても大事なのです。

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世の中のものは何にでも繋がりというものがあると思えば、小さな世界しか知らない人と、色々な世界を知って、多くの人と出逢い、コミュニケーションが取れる人とでは、自ずから出て来るものが違うのは当たり前です。
オタクさながら自分の世界だけで生きていたら、他の価値観や感性を受け入れることが出来ない。そういう狭小な心根はそのまま舞台での姿となって出て来ます。

永田錦心が大正時代に「琵琶村の住人」という言葉を使って、当時の琵琶人をたしなめていましたが、村意識なんていうものは一歩その村を出たらまるで通用しない、という事を永田錦心はよく判っていたんでしょうね。先ずは大きく、豊かで多様な視点を持つこと。そして次は開いた眼で何をやるか?まあそこはもうその人の器ですね・・。是非、永田錦心が作り上げたような次世代スタンダードをこれからまた創り出していきたいものです。

音楽は世の中に響いてこそ音楽として成立します。音楽は経済や政治とも密接に関わっていますし、日々の暮らしの変化と共に音楽もどんどんと変わって行きます。流行歌だろうが芸術音楽だろうが関係なく、どんなものでも世の中と共に在るのが音楽です。感性を解放するためにも色々な世界を知るというのは良い事ですね。

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杉沼トリオ

私は年を追うごとに色々な世界と関わりを持つようになりました。最近また今までに無かった世界に触れることが出来ました。まあ極端に違う訳ではありませんが、出来る所まで関わってみようと思います。これがなかなか面白いのですよ。

皆さんも是非Another Worldを持ってみませんか。

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