響き合う季節(とき)2015

今年も「3.11響き合う詩と音楽の夕べ」を地元のルーテルむさしの教会でやってきました。

        11-2主催の和久内先生

毎年、哲学者 和久内明先生が主催してやっているのですが、今年も大柴牧師のお話に続き、クリスタル・デュオ・ブレイズ、尺八の吉岡龍之介、ギターの山口亮志、折田真樹先生率いるオーソドックス合唱団が集い、素敵な音楽を聴かせてくれました。
今回は久しぶりに拙作の「まろばし」を尺八の吉岡君と一緒に演奏したのですが、初顔合わせにも拘らず、吉岡君の楽曲解釈がなかなか素晴らしく、良い感じで出来ました。そしてこの会では欠かすことの出来ないのが、クリスタルボウルのお二人。今回も会場が柔らかな響きに包まれ、普段の罪業深き我が魂も浄化されました。

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11-22クリスタル・デュオ・ブレイズのお二人
クリスタルボウルは楽器の概念を超えているように私には思えます。聴く度に深遠な世界へと誘われ、静かな想いが湧き上がってくるのです。クリスタルボウル自体も勿論ですが、演奏しているお二人の音楽に接する姿勢や感性も大いに関わっているのでしょうね。
いつも彼女たちの演奏を聴いて思う事は、いかに普段我々がリズムやメロディー、ハーモニーに支配されているのかという事。静寂に満ちるあの音には、理論など人間の作り出したもののもっと根源に在るものを感じずにはいられません。それは揺るぎなく、且つしなやかで大きな力を湛えているように思えます。場に響き満ちて行くあの音、そして重なり合う事で生まれるハーモニーには根源的、原初的な音の存在というものを感じます。プレロマスと言っても良いかもしれません。

私はこのブログでよく「漂う」「満ちる」という言葉を使いますが、これは素晴らしい音楽に出会った時に、必ず感じる感覚なのです。彼女たちが奏でるクリスタルボウルは正にそのイメージにぴったり。そしてそれは私が音楽を創ろうとする時に、いつも思い浮かべるイメージでもあるのです。

あの響きの中に身を置いていると、自然と祈るという気持ちになってくるから不思議です。毎回彼女たちと会うときにはこうしたイベントの時ですし、彼女たちの中にもきっと祈りというものが大きなキーワードになっている事と思いますが、あの響きに身を委ねていると、ネガティブな邪念やケレンが消えて、こんな小さき私の心の内にも清らかなものが満ちて行くのです。

今回も、今は亡きH氏が常に言っていた「愛を語り届ける」という言葉が思い起こされました。

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音楽の原初はやはり祈りだったのではないでしょうか。だとしたら響きという音楽の根源を忘れてはいけない。そして「愛を語り届ける」という目的も忘れてはいけない。それを忘れた時、もうそこには祈りは無く、ただの音の塊でしかない。いくら技術を尽くし理論武装して、壮大に構築しても、祈り無き音楽は人間の作り出した小賢しい騒音でしかない。

美は祈りの中にこそある。そんな想いが募りました。

四年

あの震災から間もなく4年が経ちます。この4年間色々な事がありました。人それぞれに、様々な4年間だった事と思います。毎年この時期になると色々な事を思い返すのですが、時間が経つと、どこかでもう「過ぎ去った事」という意識で捉えているのではないか、そんな気持ちも自分の中に感じる事があります。東北は未だ復興のめどが立たない地域もあるでしょうし、原発事故に関しては先が見えないような状態ですが、東京ではもう節電などとは誰も言わず、震災前と何も変わっていません。これも一つの現実なのでしょう。
ただ四年前私が感じた「音楽の無力」は、少しづつ私の中で「無力ではない」という気持ちに変わりました。

津波9津波の去った後

震災以降福島には何度か呼ばれて演奏しました。ボランティアではなく、あくまで仕事で関わることで、かえって今迄ほとんど行った事のなかった東北全般が身近なものになり、視野が開けてきたような感覚を覚えました。勿論津波の後や、避難生活の実態も目の当たりにし、相馬在住の人達からも話を聞き、思う所は多々ありますが、あの震災以降、東北それも福島とは何かの縁を頂いたように感じています。

IMG_7914s音楽は腹の足しにはなりません。特に私の音楽はいわゆる癒し系でもなく、その場を楽しませるエンタテイメントでもありませんが、震災の年に福島で演奏した「平経正」は20分以上の長い曲にも拘らず、皆さん食い入るように聞いていました。あの熱気に満ちた(ちょっと異常なくらい)会場の雰囲気は未だに忘れられません。250席程の小さなホールでしたが、あまりに多くの方が詰めかけて、随分とお断りをする程、皆さんが求めてくれたというのは、何かを求めていたのではないかと思えてならないのです。腹の足しとは別の何かを・・・。まあ私の演奏を待ち望んでいてくれた訳ではなく、琵琶の演奏を聴きたかったのだろうとは思いますが、琵琶には何かの想いを乗せ伝えて行く力が、今でも充分に備わっているという事ではないかと思っています。そんなこともこの4年間で感じた事です。

今こそ我々に何かを問われているのではないでしょうか。

今年も、和久内明先生主催の集会に顔を出しています。あの震災を忘れないようにしようと、今年も何時ものメンバーが集い、ルーテルむさしの教会にて行います。

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クリスタルボウルのクリスタルデュオブレイズのお二人、尺八の吉岡龍之介君、ギターの山口亮志君、オーソドックス合唱団を率いる折田真樹先生などが音楽を届けます。18時30分開演です。

一年に一度でもこうしてあの日を振り返り、世の中を、自分を見つめ直すという事は、今後を生きる上でも必要な事ではないかと思っています。そして3月11日はそういう日として私達日本人の内に刻まれて行くべきなのではないか、とも思うのです。音楽は腹の足しにはならなくとも、心の足しには充分に成り得ます。心を分かち合うひと時です。是非お越しくださいませ。入場は無料です。

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昨年の演奏風景 於ルーテル武蔵野教会

花の行方2015春

春の逍遥の時期となりました。外はもう梅が満開。先日用事で湯島天神の近くに行きましたが、天神様の境内には梅が盛りの時を迎えていました。写真撮る暇が無かったですので、此方でも。

yoshinoーume1今は無き吉野梅郷

やっぱり梅の花はどこか密やかさがあって良いですね。桜の華やかさとは一味違って、控えめな感じが好きなんです。人も同じかな・・・。
毎年2月の半ばから4月の半ばまではオフシーズンと称してぶらぶら散歩したり、美味しいものを食べに行った2014年阿佐ヶ谷ジャズストリートり、映画を観たりコンサートに行ったりします。家の中ではボロンボロンととりとめもなく琵琶を弾いたり、たまにギターを弾いたり、酒を呑んだり…とまあ、世間でいう所の遊んでるという具合なんですが、これがなくては物は創れない?。まあ芸人の常套句のようないい訳ですな???
しかし色々な人に会い、おしゃべりをして、色んな場所に顔出して日常から離れ、色々なものを観て感動し、杯を傾けて語り合う。こういう所から自分の意見が見えて来たり、新たな方向性や発想を得たりするものなのです。真面目な人にはこんな非生産的な日常は耐えられないかもしれないですね。でもこれがあるがゆえに、私は色々な考えを巡らし、それが作品となって行くのです。私のような適度に鈍感な性格の方が、音楽家には向いているのかもしれません。

白桃photo MORI Osamu

毎日目標を立てて、自分に成果を科すというのは良い事ではあるかもしれませんが、同時に野に咲く花に美を見たり、梅花に心を掻き立てられ歌を詠んだりする位、抒情が溢れ出ていないととても音楽は生まれません。現代の邦楽人は皆ある種真面目過ぎるのだと思います。口の悪い友人は「真面目という所に逃げているんだ」なんて言う人も居ますね。確かにきちんとやっていれば間違いないという発想は確かに何の不安もありません。組織の中の肩書きがあれば自分のスタンスや姿もはっきり見えるでしょうし、収入的にも安定するのかもしれません。

DSC09916しかしそんな所に音楽は無いのです。安定とは真逆の不安や焦燥、時に絶望。そして感動、感激そういう劇的なものを日々の中に感じていてこそ音楽は生まれて行くのです。更にもっと言えばそういう劇的なものを乗り越え、感情に振り回されない境地に自分が辿り着いて初めて音楽が流れ出て来る。周りと自分を比べて、稼ぎが無いとか、実績が無いとかそんなことを気にしている内は大したものは創れません。私くらいの年齢になると、社会の中では責任ある世代等と言われますが、自分自身の内面は常に何にも囚われる事無く、自由でないと芸術の女神は微笑んでくれませんね。

椿1photo MORI Osamu

私は若者に「教室なんかやるんじゃない」といつも言っているのですが、月謝を当てにするようになったら音楽家はお終い。音楽家はあくまでも舞台で日銭を稼いでナンボです。それが出来ない人は趣味に留めておいた方が良いでしょう。
お金があろうが無かろうが、飯が食えてりゃそれでいいか、位な気持ちで居られるますか??。若い頃はそうでも、40代50代になってもそんな気持ちで居られるでしょうか?そこが音楽家として生きて行かれるかどうかの分かれ目です。
随分前に浪曲師の方が、「腹が減ったら寄席の楽屋にでも挨拶に行けば、弁当の一つや二つありつける」なんて言っていましたが、その位の感覚は常に持っていたいですね。きちんとしなければいけない、責任ある世代はこうでなければ、という硬い考えしか出来ない人は、音楽を仕事にしてはいけません。逆にマイナーな存在を気取って小さな世界でうそぶいているのも同様。周りを不幸にするだけです。
余計な欲を持つよりも、梅花を観てその美しさに感動し、溢れて来る想いを歌に詠んで、ついでに一杯呑って、そこから世紀の名曲を書くぞ!!と譜面に向かう位でなくては!!

photo MORI Osamu
日々どれだけ喜びがあるか。音楽を生み出すのに一番必要な事はここに尽きます。酒を呑もうが、花見をしようが、オペラを観ようが、そこに喜びを感じているかどうかという事です。彼女とお茶しているだけでも楽しいし、川べりを散歩していて、珍しい花を見つけただけでも楽しい。味噌汁が旨い・・そんなことあんなこと、どんなことにも喜びが日々満ちていれば、きっと素敵なメロディーが出て来るでしょう。そしてそこには何の規制も囚われも無く、自分から湧き上がる自分の音楽が出来上がる事と思います。

何処に所属していようが、誰の弟子だろうが、音楽を生み出すのは私、そしてあなたなのです。

GTlive イラスト

私は何時も大仰なパフォーマンスや、派手な出で立ちの舞台人に対し良い事を書きませんが、それは飾り立てているのが見え見えだからです。無理な化粧はやっぱりおかしいし、音楽以外に気を取られていたら、音楽は薄まりじっくり聞いてもらえない。以前とある黒人のジャズシンガーを聴きに行った時、普段着で歌っているのに、その姿からはリズムが溢れだして、会場中を巻き込んで躍らせてしまう程の躍動感に満ちていましたが、無理やりそういうものを真似しても逆に滑稽なだけです。自分自身を曝け出さない限り、花は咲きません。

花とは自分自身です。飾り立てたから咲くとい
うものではないのです。自分が一番自分らしくある時に初めてその美しさが匂い立つのです。桜のような人、梅花のような人、色々な花があるからこそ面白いのです。

あなたらしい、あなただけの花。そして私だけの花を共に咲かせたいですね。

さて今季も名作を創りますよ!!

文学(ほん)を聴く~Images

先日、朗読家の櫛部妙有さんの会に行ってきました。

櫛部妙有櫛部妙有さん

櫛部さんとは、数年前に地元のかんげい館という芸術サロンで出会ってから、お付き合いを頂いているのですが、会う度に物語の背景、多面的な視点、言葉音の時間軸の話等々、芸術的な話を色々と聞かせてもらってます。実は7月に櫛部さんと出会いの場でもあるかんげい館で一緒にやってみようという事で、ただ今準備を進めています。どんな感じになるか、乞うご期待。

櫛部22012年の櫛部さんの公演チラシ
櫛部さんの朗読を聞いたのは、この芥川龍之介の「奉教人の死」が最初でした。それから色々とお話を頂いているのですのですが、櫛部さんは大げさな表現は一切しません。聞き手の感性が櫛部さんの朗読を通して広がって行く。そんな感じと言えばよいでしょうか。演者の技を前面に出すの
ではなく、淡々とした語りを聴いている内にその世界に入り込んで、もはや最後には演者という存在すら消えて、聴いている自分の方が物語の中に存在しているかのような・・・。それは何とも魅力的な時間です。私は能にも近いものを感じます。

今回は櫛部さんが主宰する「文学(ほん)を聴く会」の毎年の懇親会だったので、普段の舞台と違い、実に興味深いものを朗読してくれました。
最初は、別役実の「なにもないねこ」という短い作品。これを先ずは大人が聴くという前提で読み、全く同じものを今度は子供に聴かせるという前提で読むという二つの形を聞かせてくれました。
次に夏目漱石の「夢十夜より第一話」。これを先ずは幻想的な物語として読み、次にナンセンスなちょっと滑稽な話として読んでくれたました。舞台では同じものを2回やるという事はしないので、こういう会ならではの面白い試みでした。意識の持ち方で同じ言葉も全く違う印象になって物語が伝わって来るのがよく判りました。さすがの技というのは勿論ですが、私が何時も書いている事と大変共通するものを感じました。
邦楽をやっていると、言葉というものと密接に関わらずを得ません。それだけに言葉に寄りかかって、固定化された言葉の意味、物語の内容に囚われてしまう事が多々あるのです。

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琵琶を習いに行くと稽古に於いて、物語や言葉を多面的に解釈し、色々な角度から登場人物の事を語り合ったり、歴史的背景を検証する等という事はほとんどしません。それが良いか悪いかは別として、言葉というもの、または稽古という事に対して、もっと幅があったらいいと私は思います。

津村禮次郎先生 先日の良寛公演にて
能のように長い時間を経て洗練に洗練を重ねてきた古典には、型そのものに意味があり、汲めども尽くせぬ先人たちの知の蓄積や、創造の歴史や経験が型の中にあるので、先ず型の中に自らを入れて、そこから自分の表現を見出して行くという過程にとても重要な意味があり、先人たちの知の蓄積が、自分の中の創造性という事をあらためて考えさせてくれるでしょう。鷹姫以前このブログでもイェーツの「鷹の井戸」を原典とした新作能「鷹姫」の事を書きましたが、能は常に新作を作り続けています。この姿勢こそがゆるぎなき継承に繋がっているのではないでしょうか。

しかし薩摩琵琶はまだ歴史が短く、錦心流でも100年、新しい流派は数十年という時間しか経ていない。そういうものには、知の蓄積や洗練、型の持つ深い味わい等が残念ながらまだありません。私が常に創造という事を薩摩琵琶に於いて掲げているのは、まだ薩摩琵琶は型の継承をするような時期ではなく、今はどんどんと新しいものを創り、薩摩琵琶の世界を豊かにしてゆく時期だと思うからです。また継承には旺盛な創造力が必要です。創造無き継承は、ただの保存になって意味も伝えられずに形骸化が進み、やがて衰退してしまう。私は表現をする者として、現時点の薩摩琵琶に於いては、近代日本の最先端の琵琶楽を創った永田錦心の創造性と先進性を実践出来たらいいな、と思います。

椿1表現というものにルールはないし、その深さはやればやるほどに感じます。また言葉に対しても思う事は、「伝えるべきは言葉面ではなく、その言葉の背景にある」という事です。極論すれば言葉に意味は無いとも考えられます。
「愛してる」という言葉の裏側に本当に愛があるとは限らない。愛が無いということを「愛してる」という言葉で表現する事もあるでしょう。ラーメン屋さんのメニューを読んでも、お腹が空いてたまらない時に読み上げる「ラーメン500円」と、満腹の時に読み上げるのとでは全く違って聞こえるものです。そこに「何を表現したいのか」という部分がしっかりと自分の中に在れば、言葉ではなく、その背景が現れて行くのではないでしょうか。背景こそ表現すべき事ではないでしょうか。そして受け手がただ理解するのではなく、「感じる」という所まで行って初めて伝わるのだとも、私は思っています。演者はその表現の在り方や手法について深く研究する必要があると思います。表面の形をなぞって満足する事が一番良くないですね。

こういう事は邦楽に携ってからずっと感じている事で、「泣くも~~~悲し~~~き~~」なんてコブシ回して得意になっていても、演者に明確な意思と想い、それも底の浅い思い込みではなく、旺盛な勉強、研究、研鑽に裏打ちされた視点や哲学がなくては、受け手に「お上手」以上のものは聞こえて来ないと、私は常々感じています。

ryokan22

何かを表現しようとする時、技術はともかく、演じるものに対し、どんなイメージを持っているか、そのイメージは何処から来るのか、どんなものを根底としているのかということが自分の中ではっきりと掴めていなければ、作品は成立しないと思います。櫛部さんの作品に対する真摯な態度に接し、そんなことをあらためて考えさせられました。

自分のヴィジョンを明確にもっているかという事がとても大切だと思います。なんとなくこんな感じ、というような浅い意識で行き当たりばったりに出て来るイメージを追いかけても、とても表現には至りません。せいぜいその場限りの賑やかしのパフォーマンス止まり。薄っぺらい独りよがりのオタク目線では人を納得させるようなものは出て来ないのです。自分の「音楽」を聴いてもらいたいのなら、伝わる所までやってこそ!。お稽古事の上手さを披露しても何も始まらないのです。明確なヴィジョン、そこから湧き上がるイ
メージ、それを具体化させる為の技術、それらが揃ってはじめて形を成し、表現が成立すると私は考えています。

京都御所2012

櫛部さんとの共演が楽しみです。

熱狂的声楽愛好のススメXVIII~ロイヤルオペラハウス「さまよえるオランダ人」

先日、久しぶりにLive Viewingでオペラを観てきました。昨年秋辺りからレコーディングやら演奏会やら、とにかく忙しくしていましたので、本当に久しぶりになってしまいました。

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今回はいつものMetではなく、イギリスのロイヤルオペラハウスのもので、中継による映像。といっても時差がありますから結局録画してあるのですが、映像の乱れもちょっとあったりして、臨場感はなかなかです。一日しか流さないというのも本番を観に行った感じがして良い気分なのです。

今回の演目は私のようなワーグナー初心者でも判り易い「さまよえるオランダ人」。呪いで7つの海をさまよい続けるオランダ人の話です。短い作品ですので、途中休憩も無く一気に楽しめました。さすがワーグナーの作品だけあって、どこまでもダイナミックなオケと、フルパワーで歌い続ける歌手達がもの凄く、十二分に堪能しました。

1ブリン・ターフェル
今回のキャストは以下の方々。オランダ人:ブリン・ターフェル、オランダ人の宝に目がくらむダーラント船長にはピーターローズ、船長の娘でオランダ人とボーイフレンドとの板挟みになるゼンタはアドリアンヌ・ピエチョンカ、ゼンタの恋ボーイフレンドのエーリクにミヒャエル・ケーニヒ。皆さん素晴らしい実力を持っていて、演技にも歌にも余裕がある。当たり前ですが、やはり世界の一流は凄いですね。
舞台はMetと随分感じが違っていて、あまり派手な演出も無く、私の印象ではちょっと地味な位に感じました。まあMetを観慣れているせいもあるかと思いますが、煌めくようなスター性を前面に出すMetに対し、ロイヤルやパリオペラ座のオペラは物語全体を表現して行く感じです。だからスター歌手が綺羅星の如く・・・・、というのはないのです。

今回オランダ人をやったブリン・ターフェルは、かつて(89年)このブログでも良く登場する、ディミトリー・ホロストフスキーとBBC国際声楽コンクールで優勝を争い、1位2位を分け合ったという方。アドリアンヌ・ピエチョンカ1道理で声が豊かなはずです。どうしたらああいう声が出るんでしょうね。ホロストフスキーもそうですが、実に魅力的な声をしています。多少なりとも声に携っている者として憧れますね。勿論他の出演者も皆レベルが高く、中でもゼンタの役をやったアドリアンヌ・ピエチョンカ(右写真)は見事なまでの歌いっぷりでした。

全体に地味目な感じではありましたが、私はロイヤルオペラハウスの演出はなかなか良いと思いました。過度な装飾が無く、物語に集中できますし、スター歌手云々というより中身で勝負、という所に大変好感が持てます。勿論Metのきらびやかさは大変計算されていて内容が損なわれるようなことはありませんので大好きなのですが、ヨーロッパのオペラもこれからどんどん観て行こうと思っています。

京都御所の白梅1photo MORI Osamu

久しぶりのオペラを観て思うのは、やはり「舞台」です。私は音楽家ですので、演技したり演出したりすることはほとんど無いですが、舞台での姿にはやっぱりこだわりたいですね。邦楽では、時々舞台袖から出て来る歩き方を見るだけで幻滅してしまうような若手の舞台が少なくないです。残念でなりません。40も越えればもう直しようもないですが、若手には是非日本の美である所作を身に付けて、美しい姿で演奏してもらいたいものです。相変わらずパフォーマンスをやりたいのか、音楽をやりたいのか判らないような舞台も多いですが、派手な化粧や衣装よりも、先ずはしっかりと音楽を届けるという姿勢は第一に持っていてもらいたいものです。

充実のオペラを観て、気持ちも引き締まってまいりました。

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