花の行方2015春

春の逍遥の時期となりました。外はもう梅が満開。先日用事で湯島天神の近くに行きましたが、天神様の境内には梅が盛りの時を迎えていました。写真撮る暇が無かったですので、此方でも。

yoshinoーume1今は無き吉野梅郷

やっぱり梅の花はどこか密やかさがあって良いですね。桜の華やかさとは一味違って、控えめな感じが好きなんです。人も同じかな・・・。
毎年2月の半ばから4月の半ばまではオフシーズンと称してぶらぶら散歩したり、美味しいものを食べに行った2014年阿佐ヶ谷ジャズストリートり、映画を観たりコンサートに行ったりします。家の中ではボロンボロンととりとめもなく琵琶を弾いたり、たまにギターを弾いたり、酒を呑んだり…とまあ、世間でいう所の遊んでるという具合なんですが、これがなくては物は創れない?。まあ芸人の常套句のようないい訳ですな???
しかし色々な人に会い、おしゃべりをして、色んな場所に顔出して日常から離れ、色々なものを観て感動し、杯を傾けて語り合う。こういう所から自分の意見が見えて来たり、新たな方向性や発想を得たりするものなのです。真面目な人にはこんな非生産的な日常は耐えられないかもしれないですね。でもこれがあるがゆえに、私は色々な考えを巡らし、それが作品となって行くのです。私のような適度に鈍感な性格の方が、音楽家には向いているのかもしれません。

白桃photo MORI Osamu

毎日目標を立てて、自分に成果を科すというのは良い事ではあるかもしれませんが、同時に野に咲く花に美を見たり、梅花に心を掻き立てられ歌を詠んだりする位、抒情が溢れ出ていないととても音楽は生まれません。現代の邦楽人は皆ある種真面目過ぎるのだと思います。口の悪い友人は「真面目という所に逃げているんだ」なんて言う人も居ますね。確かにきちんとやっていれば間違いないという発想は確かに何の不安もありません。組織の中の肩書きがあれば自分のスタンスや姿もはっきり見えるでしょうし、収入的にも安定するのかもしれません。

DSC09916しかしそんな所に音楽は無いのです。安定とは真逆の不安や焦燥、時に絶望。そして感動、感激そういう劇的なものを日々の中に感じていてこそ音楽は生まれて行くのです。更にもっと言えばそういう劇的なものを乗り越え、感情に振り回されない境地に自分が辿り着いて初めて音楽が流れ出て来る。周りと自分を比べて、稼ぎが無いとか、実績が無いとかそんなことを気にしている内は大したものは創れません。私くらいの年齢になると、社会の中では責任ある世代等と言われますが、自分自身の内面は常に何にも囚われる事無く、自由でないと芸術の女神は微笑んでくれませんね。

椿1photo MORI Osamu

私は若者に「教室なんかやるんじゃない」といつも言っているのですが、月謝を当てにするようになったら音楽家はお終い。音楽家はあくまでも舞台で日銭を稼いでナンボです。それが出来ない人は趣味に留めておいた方が良いでしょう。
お金があろうが無かろうが、飯が食えてりゃそれでいいか、位な気持ちで居られるますか??。若い頃はそうでも、40代50代になってもそんな気持ちで居られるでしょうか?そこが音楽家として生きて行かれるかどうかの分かれ目です。
随分前に浪曲師の方が、「腹が減ったら寄席の楽屋にでも挨拶に行けば、弁当の一つや二つありつける」なんて言っていましたが、その位の感覚は常に持っていたいですね。きちんとしなければいけない、責任ある世代はこうでなければ、という硬い考えしか出来ない人は、音楽を仕事にしてはいけません。逆にマイナーな存在を気取って小さな世界でうそぶいているのも同様。周りを不幸にするだけです。
余計な欲を持つよりも、梅花を観てその美しさに感動し、溢れて来る想いを歌に詠んで、ついでに一杯呑って、そこから世紀の名曲を書くぞ!!と譜面に向かう位でなくては!!

photo MORI Osamu
日々どれだけ喜びがあるか。音楽を生み出すのに一番必要な事はここに尽きます。酒を呑もうが、花見をしようが、オペラを観ようが、そこに喜びを感じているかどうかという事です。彼女とお茶しているだけでも楽しいし、川べりを散歩していて、珍しい花を見つけただけでも楽しい。味噌汁が旨い・・そんなことあんなこと、どんなことにも喜びが日々満ちていれば、きっと素敵なメロディーが出て来るでしょう。そしてそこには何の規制も囚われも無く、自分から湧き上がる自分の音楽が出来上がる事と思います。

何処に所属していようが、誰の弟子だろうが、音楽を生み出すのは私、そしてあなたなのです。

GTlive イラスト

私は何時も大仰なパフォーマンスや、派手な出で立ちの舞台人に対し良い事を書きませんが、それは飾り立てているのが見え見えだからです。無理な化粧はやっぱりおかしいし、音楽以外に気を取られていたら、音楽は薄まりじっくり聞いてもらえない。以前とある黒人のジャズシンガーを聴きに行った時、普段着で歌っているのに、その姿からはリズムが溢れだして、会場中を巻き込んで躍らせてしまう程の躍動感に満ちていましたが、無理やりそういうものを真似しても逆に滑稽なだけです。自分自身を曝け出さない限り、花は咲きません。

花とは自分自身です。飾り立てたから咲くとい
うものではないのです。自分が一番自分らしくある時に初めてその美しさが匂い立つのです。桜のような人、梅花のような人、色々な花があるからこそ面白いのです。

あなたらしい、あなただけの花。そして私だけの花を共に咲かせたいですね。

さて今季も名作を創りますよ!!

文学(ほん)を聴く~Images

先日、朗読家の櫛部妙有さんの会に行ってきました。

櫛部妙有櫛部妙有さん

櫛部さんとは、数年前に地元のかんげい館という芸術サロンで出会ってから、お付き合いを頂いているのですが、会う度に物語の背景、多面的な視点、言葉音の時間軸の話等々、芸術的な話を色々と聞かせてもらってます。実は7月に櫛部さんと出会いの場でもあるかんげい館で一緒にやってみようという事で、ただ今準備を進めています。どんな感じになるか、乞うご期待。

櫛部22012年の櫛部さんの公演チラシ
櫛部さんの朗読を聞いたのは、この芥川龍之介の「奉教人の死」が最初でした。それから色々とお話を頂いているのですのですが、櫛部さんは大げさな表現は一切しません。聞き手の感性が櫛部さんの朗読を通して広がって行く。そんな感じと言えばよいでしょうか。演者の技を前面に出すの
ではなく、淡々とした語りを聴いている内にその世界に入り込んで、もはや最後には演者という存在すら消えて、聴いている自分の方が物語の中に存在しているかのような・・・。それは何とも魅力的な時間です。私は能にも近いものを感じます。

今回は櫛部さんが主宰する「文学(ほん)を聴く会」の毎年の懇親会だったので、普段の舞台と違い、実に興味深いものを朗読してくれました。
最初は、別役実の「なにもないねこ」という短い作品。これを先ずは大人が聴くという前提で読み、全く同じものを今度は子供に聴かせるという前提で読むという二つの形を聞かせてくれました。
次に夏目漱石の「夢十夜より第一話」。これを先ずは幻想的な物語として読み、次にナンセンスなちょっと滑稽な話として読んでくれたました。舞台では同じものを2回やるという事はしないので、こういう会ならではの面白い試みでした。意識の持ち方で同じ言葉も全く違う印象になって物語が伝わって来るのがよく判りました。さすがの技というのは勿論ですが、私が何時も書いている事と大変共通するものを感じました。
邦楽をやっていると、言葉というものと密接に関わらずを得ません。それだけに言葉に寄りかかって、固定化された言葉の意味、物語の内容に囚われてしまう事が多々あるのです。

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琵琶を習いに行くと稽古に於いて、物語や言葉を多面的に解釈し、色々な角度から登場人物の事を語り合ったり、歴史的背景を検証する等という事はほとんどしません。それが良いか悪いかは別として、言葉というもの、または稽古という事に対して、もっと幅があったらいいと私は思います。

津村禮次郎先生 先日の良寛公演にて
能のように長い時間を経て洗練に洗練を重ねてきた古典には、型そのものに意味があり、汲めども尽くせぬ先人たちの知の蓄積や、創造の歴史や経験が型の中にあるので、先ず型の中に自らを入れて、そこから自分の表現を見出して行くという過程にとても重要な意味があり、先人たちの知の蓄積が、自分の中の創造性という事をあらためて考えさせてくれるでしょう。鷹姫以前このブログでもイェーツの「鷹の井戸」を原典とした新作能「鷹姫」の事を書きましたが、能は常に新作を作り続けています。この姿勢こそがゆるぎなき継承に繋がっているのではないでしょうか。

しかし薩摩琵琶はまだ歴史が短く、錦心流でも100年、新しい流派は数十年という時間しか経ていない。そういうものには、知の蓄積や洗練、型の持つ深い味わい等が残念ながらまだありません。私が常に創造という事を薩摩琵琶に於いて掲げているのは、まだ薩摩琵琶は型の継承をするような時期ではなく、今はどんどんと新しいものを創り、薩摩琵琶の世界を豊かにしてゆく時期だと思うからです。また継承には旺盛な創造力が必要です。創造無き継承は、ただの保存になって意味も伝えられずに形骸化が進み、やがて衰退してしまう。私は表現をする者として、現時点の薩摩琵琶に於いては、近代日本の最先端の琵琶楽を創った永田錦心の創造性と先進性を実践出来たらいいな、と思います。

椿1表現というものにルールはないし、その深さはやればやるほどに感じます。また言葉に対しても思う事は、「伝えるべきは言葉面ではなく、その言葉の背景にある」という事です。極論すれば言葉に意味は無いとも考えられます。
「愛してる」という言葉の裏側に本当に愛があるとは限らない。愛が無いということを「愛してる」という言葉で表現する事もあるでしょう。ラーメン屋さんのメニューを読んでも、お腹が空いてたまらない時に読み上げる「ラーメン500円」と、満腹の時に読み上げるのとでは全く違って聞こえるものです。そこに「何を表現したいのか」という部分がしっかりと自分の中に在れば、言葉ではなく、その背景が現れて行くのではないでしょうか。背景こそ表現すべき事ではないでしょうか。そして受け手がただ理解するのではなく、「感じる」という所まで行って初めて伝わるのだとも、私は思っています。演者はその表現の在り方や手法について深く研究する必要があると思います。表面の形をなぞって満足する事が一番良くないですね。

こういう事は邦楽に携ってからずっと感じている事で、「泣くも~~~悲し~~~き~~」なんてコブシ回して得意になっていても、演者に明確な意思と想い、それも底の浅い思い込みではなく、旺盛な勉強、研究、研鑽に裏打ちされた視点や哲学がなくては、受け手に「お上手」以上のものは聞こえて来ないと、私は常々感じています。

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何かを表現しようとする時、技術はともかく、演じるものに対し、どんなイメージを持っているか、そのイメージは何処から来るのか、どんなものを根底としているのかということが自分の中ではっきりと掴めていなければ、作品は成立しないと思います。櫛部さんの作品に対する真摯な態度に接し、そんなことをあらためて考えさせられました。

自分のヴィジョンを明確にもっているかという事がとても大切だと思います。なんとなくこんな感じ、というような浅い意識で行き当たりばったりに出て来るイメージを追いかけても、とても表現には至りません。せいぜいその場限りの賑やかしのパフォーマンス止まり。薄っぺらい独りよがりのオタク目線では人を納得させるようなものは出て来ないのです。自分の「音楽」を聴いてもらいたいのなら、伝わる所までやってこそ!。お稽古事の上手さを披露しても何も始まらないのです。明確なヴィジョン、そこから湧き上がるイ
メージ、それを具体化させる為の技術、それらが揃ってはじめて形を成し、表現が成立すると私は考えています。

京都御所2012

櫛部さんとの共演が楽しみです。

熱狂的声楽愛好のススメXVIII~ロイヤルオペラハウス「さまよえるオランダ人」

先日、久しぶりにLive Viewingでオペラを観てきました。昨年秋辺りからレコーディングやら演奏会やら、とにかく忙しくしていましたので、本当に久しぶりになってしまいました。

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今回はいつものMetではなく、イギリスのロイヤルオペラハウスのもので、中継による映像。といっても時差がありますから結局録画してあるのですが、映像の乱れもちょっとあったりして、臨場感はなかなかです。一日しか流さないというのも本番を観に行った感じがして良い気分なのです。

今回の演目は私のようなワーグナー初心者でも判り易い「さまよえるオランダ人」。呪いで7つの海をさまよい続けるオランダ人の話です。短い作品ですので、途中休憩も無く一気に楽しめました。さすがワーグナーの作品だけあって、どこまでもダイナミックなオケと、フルパワーで歌い続ける歌手達がもの凄く、十二分に堪能しました。

1ブリン・ターフェル
今回のキャストは以下の方々。オランダ人:ブリン・ターフェル、オランダ人の宝に目がくらむダーラント船長にはピーターローズ、船長の娘でオランダ人とボーイフレンドとの板挟みになるゼンタはアドリアンヌ・ピエチョンカ、ゼンタの恋ボーイフレンドのエーリクにミヒャエル・ケーニヒ。皆さん素晴らしい実力を持っていて、演技にも歌にも余裕がある。当たり前ですが、やはり世界の一流は凄いですね。
舞台はMetと随分感じが違っていて、あまり派手な演出も無く、私の印象ではちょっと地味な位に感じました。まあMetを観慣れているせいもあるかと思いますが、煌めくようなスター性を前面に出すMetに対し、ロイヤルやパリオペラ座のオペラは物語全体を表現して行く感じです。だからスター歌手が綺羅星の如く・・・・、というのはないのです。

今回オランダ人をやったブリン・ターフェルは、かつて(89年)このブログでも良く登場する、ディミトリー・ホロストフスキーとBBC国際声楽コンクールで優勝を争い、1位2位を分け合ったという方。アドリアンヌ・ピエチョンカ1道理で声が豊かなはずです。どうしたらああいう声が出るんでしょうね。ホロストフスキーもそうですが、実に魅力的な声をしています。多少なりとも声に携っている者として憧れますね。勿論他の出演者も皆レベルが高く、中でもゼンタの役をやったアドリアンヌ・ピエチョンカ(右写真)は見事なまでの歌いっぷりでした。

全体に地味目な感じではありましたが、私はロイヤルオペラハウスの演出はなかなか良いと思いました。過度な装飾が無く、物語に集中できますし、スター歌手云々というより中身で勝負、という所に大変好感が持てます。勿論Metのきらびやかさは大変計算されていて内容が損なわれるようなことはありませんので大好きなのですが、ヨーロッパのオペラもこれからどんどん観て行こうと思っています。

京都御所の白梅1photo MORI Osamu

久しぶりのオペラを観て思うのは、やはり「舞台」です。私は音楽家ですので、演技したり演出したりすることはほとんど無いですが、舞台での姿にはやっぱりこだわりたいですね。邦楽では、時々舞台袖から出て来る歩き方を見るだけで幻滅してしまうような若手の舞台が少なくないです。残念でなりません。40も越えればもう直しようもないですが、若手には是非日本の美である所作を身に付けて、美しい姿で演奏してもらいたいものです。相変わらずパフォーマンスをやりたいのか、音楽をやりたいのか判らないような舞台も多いですが、派手な化粧や衣装よりも、先ずはしっかりと音楽を届けるという姿勢は第一に持っていてもらいたいものです。

充実のオペラを観て、気持ちも引き締まってまいりました。

音色の秘密

水野俊介先日、コントラバス奏者の水野俊介さんのソロライブに行ってきました。水野さんはジャズ出身ですが、様々なジャンルで多くの人と共演を重ね、現在はオリジナルな音楽で活動をしているベテランの演奏家です。けっしてテクニック派ではないですが、ピチカート中心に演奏した、「What a wonderful world」や「鳥の歌」などなかなかしっとりと聴かせてくれました。
この日は、キャンドルナイトという事で、照明を消してろうそくの光だけ。マイク無しの生音で演奏してくれたのですが、静かに響く音色には、長い事コントラバスと関わってきた水野さんの姿がそのまま表れているよう。とても柔らかく優しく場に満ちて、気持ちの良い音色に包まれました。

残念ながら演奏した場所はどうにも雑音が多く、スタッフが音楽を愛しむ感じはほとんど無かったですね。スローライフを標榜する店でしたが、音楽や芸術をただの表面を飾るファッションとして軽く見ているんでしょう。水野さんの音楽の持つ静寂性とは対極にあるようなスペースでした。

それにしても水野さんは懐が深いな~~。私ならああいう場所では到底演奏出来ません。今度は音楽を待ち望む人たちの愛情溢れる場所で、水野さんの深い音色をゆっくりと聞いてみたいです。

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高橋竹山7私が思う一流の演奏家は、どんなジャンルであってもその人だけの音色を持ち、その音が魅力的であることが必須条件。歌う人だったら声そのものが何よりも第一なのは言うまでもありませんね。残念ですが邦楽や琵琶の世界で、惹き付けられるような魅力ある音色を出す人は今・・・。高橋竹山や古楽の波多野睦美さんのように、人の心の奥底を震わせるような音色はもう出て来ないのでしょうか・・・?。

音色は演奏家の命です。少なくとも私には音楽理論よりも、演奏テクニックよりも音色が先ず第一。音色は色々なものが自分の中に備わってくると一段と深まって行くもの。音色を聴いただけでその人の実力は聞こえて来ます。だから私も音色にはこだわってしまいますね。私は自分専用のモデルを使っていますが、自分が思う世界を表現する為には、どうしてもそれが必要だったのです。

ギタリストでもピアニストでも、たった一つのタッチを見つけ自分のものにするのに、膨大な時間を人生の中に費やします。いつも書くように音楽は技芸ではないので、しっかりお稽古して流派の曲を上手に弾けても自分の音楽を見出さない限り、自分の音色は出来上がらないのです。タッチ一つにしても、何故そういう風に弾くのか、何を目的として弾くのか、その先に在る世界は何なのか、色んなことを考え、沢山の経験をして、自分のやるべき音楽・世界をとことん追求して、長い長い時間をかけて、初めて自分の音色が出来上がるというもの。つまり音色の先に在る世界を表現出来、自分のやるべき音楽に至ってはじめて、その音色が出来上がり、それが聴衆を魅了するのです。

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あの肌をざわつかせるような、琵琶にしか出せない、日本にしかありえない琵琶の生の声を、ただ歌の伴奏だけに使うなんて、私にはとても出来ません。唄がどこまでも主だというのなら、伴奏は三味線だっていいのですから・・。私はあの音色を聞かせ、聴衆を納得させてこそ琵琶奏者と名乗れるのだと思っています。

音楽家は皆そうだと思いますが、私にとっても音色は何処までも追及すべきもの。それは私の音楽そのものであり、哲学であり、そのまま私の人生なのです。歌手が人生の全てをかけて声を創り上げて行くように、私も私の音色をぜひ響かせたいですね。

水野さんの音色を聴きながら想いが募りました。

音の風景2015

先日、筝の中島裕康君がやっている邦楽四重奏団の演奏会に行ってきました。

邦楽4重奏団

彼らは年に2回、すみだトリフォニーの小ホールで、現代邦楽の演奏会を開いています。若手作曲家に新作を委嘱したり、ベテラン作曲家の現代曲を再演したりしていますが、今こういう活動を定期的且つ真剣にやっているグループは彼らだけだと思います。
今回は、山根明季子作曲「水玉の愛の中に消える」、松本直祐樹作曲「Mistic Focus」、吉沢検校作曲「冬の曲」、丹波明作曲「音の干渉 第一番」、廣瀬量平作曲「雪綾」というプログラム。古典の一曲を除き、若手の作品二曲、ベテランの作品二曲という内容でしたが、どの曲からも色々なアイデアを頂きました。

5中島裕康君
演奏家としての彼らの姿勢は実に真摯です。古典は全て暗譜ですし、現代曲の解釈も研究の跡が良く伺えます。勿論若さゆえの部分も多々あると思いますが、演奏レベルはかなり高いですよ。あれだけのプログラムをこなすにはかなりの練習量も必要でしょう。手慣れた技で弾けるようなものではありません。こういう演奏会を年に2回やっているという事は、人生の全てを音楽に掛けているという事だと思います。彼らの姿を観ていると、自分自身も元気が出ますし、背筋も伸びますね。

                             

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郡司敦作品個展にて中島君、田中黎山君と

今、30代40代の演奏家がポップスに行ってしまう例が多い中、20代の若手が現代日本の芸術音楽を真摯に追求しようとする姿勢には、実に頼もしいものを感じます。エンタテイメントばかりでなく芸術音楽に人生賭けて取り組む人がもっともっと居て良いと思います。ポップスが悪いという事ではないですが、売れる事ばかりが頭にあって、「人気者になりたい、有名になりたい」という連中ばかりではクオリティーは上がって行かない。派手な化粧や恰好をし、誇大な宣伝をして「売る」事に執心し、パフォーマンスばかりに気を取られているようでは、音楽はいつまで経っても磨かれない。舞台人としてそういう部分が必要な事はよく判りますが、先ずは音楽。音楽が何よりも優先して行かなければ、良いものは創れません。邦楽四重奏団にはこれからも期待したいですね。

さて、ここからは作曲家としての視点。

           黛敏郎武満徹2
現代邦楽を聴いていて思うのは、作曲家の質です。現代日本の作曲家は、皆西洋クラシックの勉強を子供のころからやってきた人達が、大人になってから邦楽器に取り組んでいる。だからその発想や様式、哲学等は洋楽のままというのが残念でならないのです。あの発想ではいつまで経っても「春の海」のような新時代の日本音楽は生まれて来ない。グローバリズムの時代ですから、色々な音楽のミクスチャーがあってしかるべきだと思いますし、邦楽に対し色々なアプローチもあって良い。しかし彼ら日本人作曲家に盤石な西洋の文化基盤があるとは思えないし、日本の文化基盤もろくにも無い。コスモポリタンと言えばそれまでですが、人間はそんなに器用ではありません。誰しも親族や生まれ育った地域風土というものを持ち、そこにアイデンティティーを見出してこそ、人として成り立つのではないでしょうか。文化というものを持たない人間には文化は創れない。彼らが、土台となるべき自国の文化をろくに知らないという所に、大いなる疑問を感じるのです。

こういう部分は武満さんや黛さんもかなり考えたのではないでしょうか。ただ二人の生きた時代には、まだ邦楽というものが世の中にわずかにありました。しかし現代には社会の中に邦楽というものが全く無い。せいぜいお正月にどこかでお筝を聴くのが関の山でしょう。今回の演奏会で出品した二人の若手作曲家も、邦楽が土台に無い事は明らかだし、一人は、「邦楽は中東のマカームやガムランよりも遠い存在」と書いています。

鷹姫全く違う所からの視点や発想は大いに歓迎なのですが、それは往々にしてアイデアという所で止まってしまう。やはり文化というものにはアイデンティティーが無くては文化たりえません。日本には日本のアイデンティティーがあってこそ、日本音楽の最先端となるし、現代邦楽というものになって行くと思います。
今回の作品は、どれも大変アイデアに富んでいて参考になりましたが、もし邦楽四重奏団が弾かずに、洋楽器の演奏家がやっていたら、「邦楽」という音の風景は感じられなかったかもしれません。

若手の作曲家にはもっともっと文化や風土、歴史等日本とは何か、日本人として作曲をやって行くとは何か、邦楽器作品を発表して行くとは何か、深く考えて欲しい。全然考察が足りない。現時点で彼らにとって、結局邦楽器はただの一民族楽器であり、飛び道具でしかない。

若き才能を聴きながら、現代に於ける邦楽の存在に想いが広がりました。

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