空へ

この所取り組んでいる曲が、なかなかまとまらず、書いては直し、また書いてと延々と繰り返しています。これだけ長引く曲も珍しいのですが、ちょっと発想を広げて、リセットしようと思い、私にとっての秘密基地 三鷹の国立天文台に行ってきました。

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ここはいつ行っても人がほとんど居なくて、且つ明治神宮並に緑が多い。それに見学できる施設は皆大正時代に建てられたレトロなもので、そういうものが好きな人にはぴったりの癒し空間なのです。もう随分久しぶりでしたが、一人でゆっくりした時間を過ごしました。
私は旧い機械が何とも好きで、機械式時計しか身に付けないという大の旧機械好きなんです。車も旧いものに惹かれますね。全然運転はしないのですが、カルマンギアなんか乗ってみたかったですね。おかしなもんで最新の機械には何故かあまり興味が無く、旧い機械にどうしても惹かれてしまうのです。ここには60年代に世界で初めて開発されたばかりの水晶発振(クォーツ)時計や原子時計、さらにはバセロンコンスタンチン(タンタン)のクロノメーター迄あります。勿論天文観測の機械も色々あって、かつてこれで宇宙を見ていたんだと思うとぐっと来てしまうのです。

IMAXIMAXの当時の巨大フィルム2コマ。通常の映画フィルムは音声もフィルムの一部に録音されていますが、IMAXでは音声は別になっていて、大きさも通常の4倍ほどの大きさ。今は記念にしおりとして使ってます。

私はギターから琵琶に転向した最初、まだライブも何も出来ない頃、プラネタリュウムで働いていました。この施設はプラネタリュウムであると同時に、当時初めて東京に出来たIMAXの常設シアターでもあったので、映画好きな私にはうってつけの職場でした。今はIMAXも大変な勢いで3Dドルビーシステムなんて劇場が色々ありますが、当時はまだフィルムの時代。私は日々IMAXの巨大なフィルムを巻き取り、怪物みたいな映写機にセットして、予告編を繋げたりしてニューシネマパラダイスのトトような仕事をしていました。当時はまだIMAXにはドキュメンタリー作品しかなかったですが、スペースシャトルに特殊カメラを乗せて撮った映像や、海の中の映像など、なかなか他では見る事が出来ないハイクオリティーの作品を上映していました。そんな所で働きながら、ドームの中で毎日琵琶の練習をしていたのです。

映写機の方が主な担当でしたので、宇宙に関して詳しい訳ではありませんが、大きな世界の事を考えていると、俗世のちまちました出来事は気にならなくなりますし、人間本来の営みの素晴らしさも感じるられますね。また旧い機械を見ていると、人間がそれを使って未知のものに挑もうとしていた姿が見えてくるようで、とても興味深いのです。

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こんな施設がいくつもあって、中に入ることが出来ます。


国立天文台三鷹キャンパスは、直ぐ近くを野川という川が流れていて、その川べりも自然が多く、お店なども一切ないので、今回はこちらまで足を延ばして散歩しながら良い気分転換になりました。野川の左側には調布飛行場やJAXAの施設などもあり、空に興味のある人にはちょっとたまらないスポットなんです。

現代社会に溢れる情報や物は、とにかく目の前をエンターティンするものばかり。すぐ踊れて楽しくなる曲や、着るだけで様になる服、酒を飲んで気軽に盛り上がれるお店、見ている・読んでいるだけで面白い本や映画、そんなものばかりが溢れています。それは楽しいですが、皆思考を停止させるものばかり。楽しさが先行し深く考えることなく時間が過ぎて行きます。レクチャー講師で有名な方の講演を以前何度か聞きに行きましたが、とにかく楽しませながらしゃべるので、こちらの思考を巡らす時間を与えてくれない。その時は面白いのですが、よく考えると結構突っ込みどころがいっぱいでしたね。それだけリスナーの思考を楽しい方に誘導して、その場での思考を停止させる。まあ見事な話術だなと感心してしまいました。
私はそんな思考停止に追い込まれるものがずっと前から嫌でした。音楽でも文学でも、接している間に、こちらの創造力がかきたてられ、映像を感じてみたり、行ったことも無い世界を感じてみたり出来るそんな特別な時間を感じられるものが好きなんです。一方的に与えられるだけで、こちらがインタラクティブに参加することが出来ないもの、どうにも好きになれませんね。

rock220代の頃、ライブハウスにて
20代のはじめ、ナイトクラブでジャズを弾いていた時も、ただスタンダードナンバーを当たり障りなく垂れ流す仕事が嫌でした。水商売のドロドロとした世界もなじめませんでした。でも当時の給料はかなり破格のもので、大卒の初任給よりもらえたので、それに負けて何年も毎晩演奏していた日々だったのです。そこを抜け出せたのは、作曲家の石井紘美先との出逢いがあったからです。先生から琵琶を勧められ、元々興味のあった古典の世界と琵琶がつながり、本来自分が行くべき道へと人生が大きく方向転換しました。今思えば、あの頃の体験があったからこそ、こちらに来られたと思っていますし、ジャズを離れたからこそ、その良さも改めて再認識出来たのは、音楽家として貴重な体験をさせてもらったと思っています。

一方的に与えられるだけの世界、こちらが発信しても何も帰って来ない世界。こういう所は私の居たい所ではないのです。芸術でも何でも、自分が向かう世界に大きな魅力を感じ、その行く先から沢山の情報も体験ももたらされ、更にこちらの想いも掻きたてられ、同時に命の根本にもつながって、その大きな世界の中に居る自分を感じられる。それが私の行きたい世界なのです。天文台に時々足を運ぶのも、そういう世界を別の所から感じたくなるからです。
インターネットは素晴らしい技術ですが、SNSなんかは、かつて体験した小さな閉ざされた中のドロドロとした人間関係に絡み取られ溺れている、あの水商売の世界のようで、私にはそこに集う人間の想念や情念、自己顕示欲や承認欲求、そんな人間の業が見えてしまって、とても見聞きしてはいられません。最初は面白がってやってみたのですが早々に撤退してしまいました。流派や協会なども私にとっては同じで、一つの価値観の中を出ることが出来ず、皆がどこかでけん制し合って居るような枠の中には到底居られません。

集合写真

ウズベキスタンの首都タシケントのモスク前にて、PerのAki-RaSunriseさん、奄美島唄の歌者 前山慎吾君と

無限に広がる創造性、未知なるものに対する魅力に溢れる世界。そんな大きな空を見上げていようじゃありませんか。「見上げる空は一つにして果てなし」

道しるべ

もうあっという間に桜も散り、のんびり気分も強制的に終了させられ、あわただしい日々を送っています。実は今月は久しぶりに体調が不調で、最初に腰痛が来て、やっと直ったかと思ったら消化器系がやられ、少し楽になったと思ったら花粉症がぶり返したかのように鼻や喉がおかしくなって頭痛も続き、やっとここ数日安定してきた次第です。演奏会中、上手く行かなかった曲も1曲あり、体調管理の甘さを大いに反省しております。

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名残りの桜 善福寺緑地


私は普段から自分にも、教えている生徒に対しても「媚びない 群れない 寄りかからない」が合言葉なんですが、その中には自己管理という事も大事な要素だと思っています。自己管理が出来てこそ良い仕事が出来るというもの。体もメンタルもどこかに甘い部分ががあると、必ず演奏に隙が出来てしまいます。その隙がどれだけ大きなウィークポイントとなって行くかは、これ迄活動をしてきて身に沁みて感じています。

私は邦楽器では珍しく、流派などには入らず自力でやって来ましたが、今になってみれば良い選択だったなと思っています。中には自分の居場所がはっきり解った方がやり易いという方もいるでしょう。人それぞれだと思います。私も子供の頃から習い事のようにやっていたら、また違っていたかもしれませんが、私はずっとジャズをやっていて、30歳過ぎてから琵琶に転向したので、その時点で自分がやりたい音楽の形~日本の前衛音楽~フリージャズの日本音楽版みたいな形が大体見えていたのが良かったと思っています。いきなり1stアルバムからやりたいように出来ました。

デビューアルバムで、こんな曲を創って収録する奴も私以外にはいないでしょうね。この曲が収録されている1stアルバム「Oriental eyes」のリリースはもう20年以上前ですが、今でも私のお気に入りです。

こんな感じで最初から飛ばし気味で活動を始めましたが、やって行けば行く程に、人との良いつながりが大切だと思うようになりました。幸い私の周りには様々なジャンルのアーティストが居て、そんなつてで1stアルバムもJazz Life というジャズ専門誌で取り上げてもらいました。結局私はそんな多くの人間のネットワークに導かれ、ここまで来たのです。その頃の邦楽ジャーナルの記事にもいっちょまえに「縁を繋ぐ事が音楽活動だ」なんて載せています。個としての自立と共に、つながりを大切にすることはやればやる程に実感しますね。人よりも随分と遅い気づきですが、それもまた自分らしいと思えてなりませんね。

1photo  新藤義久
人は孤独では生きて行けません。しかし自立出来ていないまま身を寄せ合って寂しさを紛らわしていては、嫌な事に目をつむって避けているだけで前に進めません。誰しもちょっと不安になったりすることもあるでしょう。そんな時、周りの友人たちや同じ分野の仲間と居ると元気が出るものですが、自立して生きて行く事は必須だと今でも思っています。私には幸か不幸か同世代の琵琶仲間も居ませんでした。しかしその分何のしがらみも無く気楽にやれました。最初の演奏活動から流派の曲は一切やらず、弾き語りもやらず、薩摩琵琶の価値観とは全く違う所でオリジナル樂曲を創って活動していましたので、何でも自分で解決して行かなければいけない状況でした。ふと迷いが出る事も多々ありましたが、そういう時には色んな本を読んで心の糧とし、元気を取り戻したりしたものです。そんな道しるべがあったからこそここまでやって来れたと思っています。

お釈迦様の言葉にこんな言葉があります。

「自らを燈とし、自らをよりどころとして生きなさい。お前はお前の燈火の役割をつとめているではないか。他(ひと)をよりどころにしてはならない。阿難よ、お前は自分自身の燈火を抱いて足元を照らし、自分の行く手を輝かせ」


私はこういう言葉に救われてきました。他には錫工芸の作家 秦世和さんの武道の師匠の言葉
「己こそ己の寄る辺、己をおきて 誰に寄るべぞ 良く整えし己こそ まこと得難き 寄るべなり」

なんて言葉も、随分前に教えてもらったのですが、染み入りましたね。己の行くべき道を行こうと新たな気持ちになりました。

いつも書いている森有正の「バビロンの流れのほとりにて」の中の言葉は今でもしょっちゅう読み返しています

「孤独は孤独であるが故に尊いのではなく、運命によってそれが与えられた時に尊いのだ。自分の勝手で作り出した孤独程、無意味で見にくいものはすくなくない。本当の孤独は孤独からは生まれない」

これらは本当に素晴らしい道しるべとなって今でも、大きな糧となっている言葉です。

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能楽師の津村禮次郎先生、ヴァイオリニストの田澤明子先生と 人形町楽琵会にて


コロナを機に活動の内容も随分変わってきました。お陰様で色々と声を掛けて頂いていますが、最近はとにかく質の良い琵琶曲を創りレコーディングして配信する事が最重要課題です。現在はリリースすればそのまま扉は世界に開くので、やりがいがありますし、CD時代と違い全世界に渡って残って行くものなので、自分の中での充実感が半端ないです。最近は教える事も増えて来ましたが、私は流派や門下という組織を作るのは向いていませんので、教室という雰囲気は全然無いですね。琵琶に対して自由にアプローチをする人が集まって来るという感じです。流派みたいなのが好きな人は寄って来ません。次世代は育って欲しいと思うものの、優等生ではもう次の時代は進めないとも思っていますので、そんな私の元には随分個性的な人たちが集ってきています。新たな感性と作品を琵琶に注ぎ込んでくれるような人が育って欲しいですね。

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photo  新藤義久

今年の暮れには何とか次のアルバムを完成させたいと思っていますし、こういう活動はこれからもずっと続いて行くと思います。道しるべをいつも傍らに見ながら、私らしいやり方でやって行くしかないですね。

超えて行くものⅡ

先日の第194回琵琶樂人倶楽部は大変盛り上がって終える事が出来ました。
皆独自に演奏活動を始めている方ばかり4人に演奏してもらいましたが、それぞれに個性があり頼もしい限りでした。これからもじっくりと取り組んで琵琶樂をもっと広い世界に届けて行ってくれることを期待しています。

阿佐谷神明宮の能舞台と桜

コロナ禍を経て、本当に世の中が変わってきたことを常々実感していますが、コロナの間、どういう訳か琵琶を習いたいという人が若手を中心に集まって来ました。私は教室の看板を上げている訳ではないので生徒募集もしていなかったのですが、縁というものは不思議なものですね。

私は流派の曲を教える訳ではないし、生徒はオリジナルを作って持って来る人も居るので、他の教室とは随分稽古の中身が違うと思います。私が教えられるのは、撥さばきや左手の効果的な動き等の演奏技術、そのほか重心骨格などの体の使い方、呼吸、古典の知識位です。結局これらは生徒本人が自分で体得して行くのもですので、私は後押しする程度の事。あとはこれ迄経験してきた事ですね。現場でないと知り得ない対処の方法など色々ありますし、琵琶はギターのように安定した楽器ではないので、普段のメンテナンスをしっかりやってあげないと、本番で思わぬ事態になってしまう事が多々あります。特にサワリの調整や柱の位置や高さの調整、絃、糸巻の調整等は教わらないと判りませんし、自分でそれらの調整が出来ない限り、いつまで経っても自分の音色は出せません。だからメンテナンスの方法もレベルに合わせて教えます。音楽的な部分に於いては、色んな話をしながら、生徒が何を目指しているか、そんな部分を引き出すようにして、皆自分なりに色々と考え勉強してもらってます。私は少しだけ後押ししているだけです。

キッドアイラックアートホールにて、灰野啓二、田中黎山各氏と

旧い邦楽の稽古では、コブシ回し一つに至るまで先生と同じ色に染めるというやり方でしたが、私はそういう稽古の在り方には最初から大反対でしたし、村社会の中での優等生=ティーチャーズペットを作り出しても音楽家は育たないと確信しているので、旧来の稽古のやり方とは自ずと変わってきます。
習った通りにしか出来ず、別の表現を考えたこともないという様では既に音楽家・芸術家ではありません。それはただの技芸であり、もう音楽ではないと私は思っています。そういうお稽古事や旦那芸はいい加減に脱しないともう琵琶樂は消滅してしまうかもしれないと思うのは私だけではないでしょう。

わび茶の創始者である村田珠光は「和漢の境をまぎらかす」と言いましたが、大陸から伝わったそのままではなく、そこに工夫を加え、新たなものとして創造した所に大きな意味があり、それこそが日本独自の文化だと私は思っています。
太古の鉄器、漢字、仏教、儒教等の伝来もそうだったろうし、明治以降の西洋文化も皆大きな影響を日本に与えたと思いますが、それをそのままではなく、ひらがなや音読み訓読みを創り出し、自分たちで消化・昇華して独自のものにしていったからこそ、日本文化はどこにもない独自のスタイルとセンスを現在持っているのではないでしょうか。もっと言えば人類に文字が誕生した時も紙が発明された時も、皆シンギュラリティーです。そこをどう超えて行ったかで、その国の特有の文化が形成されて行ったのです。
習ったことをそのままでやっていたのでは、そこに文化はありません。かのゲーテは「ひとつの外国語を知らざる者は、母国語を知らず」と言いましたが、文化とは自分以外の者との出会いによって自分の中に在る文化を深く確認し、その影響があってこそ深まって行くのです。村の中に留まっていては文化は生まれない。
他のジャンルや現代のセンスも加えながら「創る」という事を出来る人を育て、その為の技を教え、導き、生徒の創造性を刺激し応援するのが、教える側の務めではないでしょうか。けっして技芸を仕込むのがその務めではない。生死のかかっている武道だったら、習った事しか出来ない武芸者は簡単にやられてしまうでしょう。

川崎アートフェスにて ダンス:牧瀬茜 Asax:SOON・KIM 映像ヒグマ春夫

世の中は驚くべき速さで変化して行きます。新たなセンスと形を持った琵琶樂が出てきて当然だし、そうでなければ琵琶樂は過去の遺物、骨董品となって歴史を終えてしまいます。次世代が次世代の感性で、次世代の琵琶樂を創って行く。それを応援するのが旧世代の役割。我々が先生と呼んでいる永田錦心、、水藤錦穰、鶴田錦史など皆、最先端を創り、次世代にもそれを期待したのではないでしょうか。残念ながらその志を現在受け継いでいる人を私は知りません。
私も微力ながら常に最先端のものを創ってきました。それは大して評価もされないかもしれないかもしれませんが、それでもこれからもどんどん創ります。技も自分でどんどん開発して行く事が出来なければ音楽は創れません。それはクラシックでもジャズでも、その歴史は最先端を走る者による技術革新でもあるのです。カザルス、パガニーニは勿論の事、ピア
ソラ、パコ・デ・ルシア、ジミヘン、ヴァンヘイレンなど、音楽を創る人は技も同時に創り出してきました。当然その音楽は今迄にない独自の形を持って現れ、次の時代へと導いてくれたのです。

旧来と同じものを同じようにやるのが伝承だなどと刷り込み、それが出来る優等生だけを面倒見て賞や流派の名前を与えたりしておだてているようでは衰退するのは当たり前。そんなものを看板にしていること自体がもう創造の正反対に位置しているという事です。それは企業でも老舗のお店でも同じ事ではないでしょうか。忠君愛国の曲を上手にコブシ回して歌えるようにするのが稽古だと思っているようだとしたら、もう琵琶樂は終わったと言われてもしょうがないでしょう。先月御一緒させてもらった尾上墨雪先生は「創作と古典は伝統の両輪、創造の無い伝統はない」と言っていますが、琵琶樂はどうでしょうか。

私の教え方が良いかどうかは別として、皆自分で考えて、それぞれに頑張っています。旧来の基準ではない所で皆どんどん成長していますね。10年前にリリースした琵琶の教則DVDの最後に収録した独奏曲「風の宴」は当時「こんなに難しいものは参考にならない」と随分と言われましたが、今や若手がどんどん弾くようになりました。発表した当時も、ジャズから入った私には別段技術的にもセンスとしても難しいものではなかったのですが、確かに当時の琵琶人の持っていたセンスでは難しく聴こえたかもしれません。現代の若者のセンスからすれば、さして難しいものではないのです。次世代を担う若者のセンスは素晴らしいし、技術はこれからどんどんと上がって行くだろうと思っています。

村の中に閉じこもらず、世の中で個として自立して生きていたら、この激動の世の中の様子は日々感じる事でしょう。その日々の生活の中でセンスは目まぐるしい程に変化し、それに伴って技術も変化する。出て来る音楽も変化する。だからそこに生命が宿るのです。この風土に育てられたものを「根理」としてしっかり土台に持ち、そこからどんどん最先端の琵琶樂を創って世界に飛び出して行って欲しいですね。

超えて行く人がどんどん出て来る事を期待しています。

春の愁い

急に暖かくなって桜も咲き始めましたね。天気が今一つですが、今週末は一気に花開いて華やかな春を楽しませてくれることと思います。いつもの善福寺緑地の早咲の桜「陽光」も良い感じに咲いていました。
春は仕事でもプライベートでも変化の時を迎える方も多いのではないでしょうか。私も春の陽気に乗って10枚目となるアルバム制作に向けて準備を進めていきたいと思っています。

善福寺緑地の陽光

暖かい陽射しに包まれ生命溢れる春ではありますが、割と体調を崩す方もいるようで、私も以前はちょっとめまいがしたり、花粉症が酷かったりしていました。華やかな季節ながらその風情の裏側には、またちょっと違うものを感じている人も多いですね。

大伴家持の歌に「春愁三首」というものがあります。

「春の野に 霞みたなびきうら悲し この夕かげにうぐひす鳴くも」

家持が生きていた当時、大伴氏や家持自身の置かれている状況は結構厳しく、地方に左遷されたり、死後も謀反への関与があったとされ、20年経ってやっと恩赦を受けて地位を回復するという人生でした。この歌を詠んだ時も、とても春を謳歌するような気分ではなかったのでしょう。しかしながら春をただ賛美し謳歌するだけでなく、そこに愁いを感じる感性を、この万葉の頃にこうして表現した事に私は惹かれるのです。
何事も全てに裏と表があるように、春もただ一つの姿のみでは捉える事は出来ません。大体絢爛豪華な桜の美しさも、瞬く間に散ってしまうという事実があるからこその美しさだと、感じる方も多いかと思います。そしてその散り行く姿に美学を感じる人も少なくなのではないでしょうか。梶井基次郎の「桜の木の下には」なんてものもありますし、あの淡い桜色は、根から血を吸い上げてあの色に染まるのだなんてことも言われます。春になるとこうした花々の姿には、旺盛なまでの生命の謳歌と共に、真逆とも言える別のイメージも潜んでいるのです。そう思うと豪華な桜の姿は、見た目の美しさだけでなく物事の真理も感じさせてくれますね。

神田川沿いの桜 昨年
まだ世界では戦争の真っ只中ですし、日本も表面上は平和でも、一歩中に踏み込めば問題はもう山のように出て来ます。知らない内に土地も水源も外資に買われ、豊かな自然はソーラーパネルで覆われ、政治も経済も低下するばかり。今日本はかなり危ない状況とも言えるかもしれません。言い換えれば、日本のこの春は正に愁いの春と言えるのではないでしょうか。

この春の美しい風景と平和を、これからどこまで保ち、次世代に繋げてゆける事が出来るでしょうか。今を生きる我々に突き付けられた課題はあまりにも大きいと思います。
現代人の今の思考で、この生活のスタイルをそのままで続けていたら、確実に明るい未来はやって来ないと誰しも思うのではないでしょうか。現代のテクノロジーは素晴らしいですが、あくまで自然との共生をした上でこそ成り立つものであって欲しいのです。自然と共に生きて来た人類の歴史を今一度思い起こし、豊かな感性を持って欲しいと切に思います。今こそ音楽・芸術が必要な時代ではないでしょうか。

私は風土の無い音楽をやりたくないのです。世界がつながっている時代だからこそ、この豊かな風土を忘れたくない。文化は様々な影響を受けて創り上げられて行くのもですから、色んな国の音楽の影響も時代の影響も受けながら、その上で、この日本の風土に於いて新たな音楽が生まれて行くのは素晴らしいと思います。時代と共に在ってこその音楽だと思っています。しかしだからこそ表面上の物真似はしたくないのです。日本のものであっても、ただ表面の格好良さだけをなぞるようなことはしたくありません。そこには音楽・文化に対するリスペクトは無いし、日本の風土が育み奏でた音色も無いと感じるのです。私はジャズもフラメンコもクラシックも大好きでよく聴きますが、様々に影響を受けながらも、この風土が常に土台となる音楽を創り演奏し、それを世界に響かせたい。日本音楽の最先端を創って行きたいのです。

さて今月の琵琶樂人倶楽部は毎年恒例の「次代を担う奏者達」です。今、琵琶に取り組んでいる方々を紹介します。今回は4人の方に出て頂くのですが、中には既に演奏活動を始めている人も居れば、オリジナルをがんがん作っている人も居ます。また将来をこの道で生きて行きたいと思っている若者もいます。それぞれに琵琶に取り組んでいる頼もしい方々です。

私が活動を始めた30年前とは随分世の中の状況も変わり、のんびりとは生きて行けない現代日本ですが、是非次代に琵琶の音を響かせていって欲しいですね。

4月10日(水)19時00分開演です。詳細は上記のリンクを御覧になってみてください。
ぜひ応援してあげてください。

まことの花

春の陽射しになりましたね。まだまだ風は冷たいですが、もうそろそろ桜が咲き出す頃ですので、気分も少しづつ上向きになって行くのを感じます。世の波騒は多々ありますが、四季の移り変わりに身をゆだねると、心身共にほぐれて行くな気がします。

暖かくなって色んな舞台公演も色々と始まってます。先日はベテラン~中堅が頑張っているいくつかの舞台を観に行きました。エネルギーを感じる舞台は、どんなジャンルでもやっぱりいいですね。

昨年の善福寺緑地

世阿弥は年代ごとの花、つまり時分の花はまことの花ではないといいます。若さゆえの花で目立ったり褒められたりする事で勘違いしないように、かなり諫めています。私のように若き日に花があった訳でもない者は関係ないですが、とにかく調子に乗って滑らないように、常に地に足を付けてやる事を心がけてます。

世阿弥世阿弥は父観阿弥の最後の駿河浅間神社(よく子供の頃行ってました)での演能の姿を「まことに得たりし花」としています。芸の物数を尽くすという方面は若手にゆずり、「安きところを少々(すくなすくな)と色へてせしかども、花は弥増しに見えにしなり、これ、誠に得たりし花なるが故に、能は枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり」と書いていますね。また脇の為手に花を持たせて」とも書いていて、自分の演技を少々(すくなすくな)と抑制し、助演者の芸の花を持たせることが、場を華やかに彩どるとも言っています。そうしながら、一身に場をまとめ上げてしまう。老木でありながら技巧も狙わず、物数を見せる芸(よそ目の花)が無くなった後にこそ、「まことの花」を持っているかどうかが見えてくる。そんな父観阿弥の姿を理想としたのだと思います。

「良寛」の舞台にて 能楽師の津村禮次郎先生と

私も自分がそれなりの年齢になったこともあって常々感じているのですが、年を重ねた時点での芸は、残酷なまでにその人の器をそのまま映し出してしまいます。年を重ねれば重ねる程、器が問われるとは若手の頃よく先輩に言われていましたが、この年になると本当にそうだなと思えて来ます。
人が人生かけてやってきたことは、皆それなりのものがあると思いますが、ベテランと言われる方が、己個人の芸にいつまでも執着し、得意になって大声出したり、お見事な技を披露する事しか頭にないような舞台はさすがに見ていて厳しいものがありますね。世阿弥の言う所の「花」には程遠いです。音楽も演劇も美術も人間の営みや社会、時代と共に存在しているという事を考えれば、己の芸にしか目が行かず、自分が若い頃に見聞きしたものから離れる事も出来ないようでは、いくら上手でもただの旦那芸でしかないのです。

若い頃は色々とチャレンジするのは良い事だと思います。そこから何かを創り出す迄どんどんやる事を勧めたいですね。いつの時代でもどんなジャンルでも、アバンギャルドのような人の方が結局本物の伝承者になる例はいくらでもあります。パコ・デ・ルシア、アストル・ピアソラ、ドビュッシー、ラベル、永田錦心、鶴田錦史、ジミヘン、マイルスetc.もう切りがありません。創造の為に破壊することを厭わない、その時点での反逆者こそが、次の時代を創り導いて行ったのです。既存のレールの上に立ち、優等生をやっているような人は次の時代を切り開けません。だから何でもどんどんやれば良いと思います。

30代 フルートの吉田君とDJ2人でバンド組んでいた頃


ただ残念な事に、若い時期に少しばかり暴れても、年齢が行くと、しだいに優等生に成りたがる人が多いのも事実ですね。私の周りにも若い頃は派手な格好でライブやっていた人が、そこそこの年になると肩書を並べ連ね。○○大学やら流派の名前や賞などをぶら下げ出して、権威の鎧を纏うようになる人が結構多いです。そういう例を見ると本当に残念に思いますが、それがその人の器という事です。習った技をきちんとやっていればいいのだ、と優等生的惰性の中で肩書を追いかける人は、音楽よりも先ずは自分を取り巻く社会に目を向けてしまって、幻想でしかない現世の成功を正統や真実だと思ってしまうのでしょう。幻想の鎧で自分をがっちり硬め、小さな村のお仲間になるより、心身共に軽やかな姿で舞台に立って、等身大の自分の音楽を多くの人に聴いてもらう方が私は好きですね。

photo 新藤義久

私は何も持っていないからこそ、何でも自由にやって来れたし、若い頃は実力も評価もお金も何にも無かったのが本当に良かったと思っています。何もないから一から何でも自分で創って行くという事を自然とやって来ました。それは修行だとか苦労という事でなく、ただやりたいからやって来れたのです。何か一つでも手に入れていたら、私のように弱い人間は、つまらん欲に駆られ寄りかかり、がんじがらめになってもがいていたことと思います。いつも書いている「媚びない、群れない、寄りかからない」は自由で居られるための必須条件なのです。魯山人の言う通り「芸術家は位階勲等から遠ざかっているべきだ」というのは本当だと思いますね。
長くやっていると色ん
なものが身に蓄積してきますが、キャリアを積めば積むほどに、身軽になって行く位でちょうど良い。音楽をやるのに余計なものはどんどん手放して、いつまでも自由に琵琶を弾いていたいですね。重たい鎧をまとっていたら、そこに花はおろか、蕾も付きません。

まことの花を持っている舞台人は本当に少ないですが、幸いな事に私の身近には、そう思える大先輩たちが何人も居ます。及ばずながらも、そういった先輩たちの姿を目指したいですね。

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