舞台を創る

GWも過ぎ、気分も仕切り直しという感じになってきました。この春に作った曲も随分こなれて来て、これからの演奏会にお目見えすると思いますが、こうして曲を作るという事は、どんどんと自分の世界が極まって来ることであり、且つ変化して行く事でもあります。お蔭様で薩摩琵琶の独奏曲が2曲、タイプの違う合奏曲が2曲、樂琵琶独奏曲が1曲出来ました。これから夏にかけては、面白そうな演奏もいくつか予定されているので、レパートリーを増やして、どんどん演奏の幅を広げて行きたいと思います。いい感じです。勿論まだまだ作りますよ。

IMGP8058若き日
30代の頃は、今と同じく最先端に居たいと思っていましたが、「20年程したら、自分のスタイルが確立して、それを熟成させていくだろう」なんて事をうそぶいていました。しかし今その20年後になってみると、「更に最先端、最前線に居たい」という気分満々です。常に曲を作り続け、常に自分のスタイルを貫いて行くのに限りなどというものは無いですね。創作意欲が無くなったらおしまいだし、落ち着いてしまったらそこで終わりです。多分、後20年しても、やり方は変われど想いは更に強くなっているように思います。

私は、日々なるべく沢山の舞台を観るようにしていますが、観る度に様々な事を思います。舞台を創って行くという事は、何と言っても我々舞台人にとって喜びですね。自分が生きている、という実感が湧きあがります。
そしてどんなものでも一流の舞台には、そこに「美」というものを感じます。先日の灰野さんのライブもそうでした。こうした優れたものに接すると、自分の中に表現すべきものがはっきりしているかどうかという事をあらためて感じます。舞台に対する喜びは結構なことですが、高揚感充実感だけに浸っていたら、何も表現していないのと同じ。ただのパフォーマンスであり、発表会以上にはなりません。
よく御一緒させてもらっている、江戸手妻の藤山新太郎師匠の舞台も実にしっかりと出来ています。構成は勿論の事、演出、舞台運び迄、レベルの高い内容と共にかなりの精度で出来上がっているのです。結局はどのようなジャンルのものに於いても、表現すべきものを明確に持ち、且つ創造性に溢れていないと、舞台は成り立たないという事だと思います。

戯曲公演「良寛」より 右は伊藤哲哉さん
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人それぞれの仕事のやり方があるのですが、私の場合は自分主催の公演は勿論、手妻をはじめ、頼まれる舞台全ての作編曲と演奏をするのが私の仕事です。戯曲公演「良寛」でも全ての曲
を私が作曲しましたが、ただ言われるままに作っていたのではお話にならない。私にしか出来ない、私らしい仕事をしなければ!!

聴衆は「おみごと」を聴きたいのではなく、「音楽」を聴きに来ているので、中途半端な技のひけらかしは、浅いヴィジョンや生ぬるい感性が丸見えになって評価を下げます。得意になってやっているようでは、何も成就しないですね。常に肝に銘じています。
灰野さんも新太郎師匠も、古来からあるものを自分の中で昇華して、時代と共に形も技も変え、あくまで自分の表現として舞台にかけている。けっして過去の真似しているのではないのです。それは永田錦心も鶴田錦史も同じ事です。

戯曲公演良寛より 手前津村禮次郎師

色々な表現の形を取って良いと思いますが、何よりも自分のやるべき事が定まっていかどうかではないでしょうか。演奏会は勿論ですが普段からの音楽に対する姿勢が問題ですね。奇をてらったものや、お得意なものを羅列したようなプログラムでは、何も実現しません。
今年はこれから色々な方々との共演・饗宴が色々とありそうです。実験的なものもあえてやって行こうと思っています。その為にも自分の音楽がしっかりと確立されていないと、ただ振り回されるだけになってしまいます。自分を保ちつつ、柔軟に対応して行く、つまりは音楽家としての器が問われてゆくと思います。

戯曲公演良寛での津村禮次郎先生、伊藤哲哉さんとの共演、新太郎師匠との仕事、フラメンコの日野先生とのジョイントライブ、灰野さんのライブ、そして勿論我がReflectionsでの演奏会等々、今年の上半期は刺激的な舞台が続きましたが、凄い舞台に接すると、自分が良く見え、且つ至らぬ点が浮き彫りになります。それらを観て感じて、少しづつ自分の舞台を創って行くしかないですね。音楽は終わりの無い仕事です。


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不失者

昨日は、灰野敬二率いる「不失者」のライブに行ってきました。

灰野3

凄い。超ド級とはこの事。これ程のライブは人生の中でもいくつも無いでしょう。ジミヘンやコルトレーンを初めて聞いた時以来と言っても過言ではないような衝撃でした。いかに自分が「俗」に汚染されているかを突きつけられるような、衝撃的なライブでした。会場は爆音が引き起こすサチュレーションの渦に脳も体も揺さぶられるかのような音空間。完全にやられました。勿論ただの爆音という単純な浅いものではないです。サイケ・ノイズ・トランスetc.あらゆるものが呑みこまれ、灰野敬二の音楽と成って放出されていて、そこにはかなり高い音楽性を感じました。歌詞や声の扱い方、静寂、轟音、ビート、シンコペーション・・・。ディストーションと空間系エフェクトの織り成す独自の世界は手法も良く考えられていて、けっして雰囲気に流されない、繊細さと超絶を行き来する圧倒の内容でした。
時に混沌の中に見え隠れする「道」のような秩序のような、存在が浮かび上がり、そこへ聴衆の意識が集約されて行く瞬間が何度もありました。皆がトランス状態に入って行く光景を見て、音楽の力を、魔力を感じずにはいられませんでしたね。正に現代のカリスマ。強力なエネルギーを感じました。

灰野

私は何時も日本の風土や文化、そして音楽について考えていますが、ロックは現代音楽と共に、そういう風土や歴史、民族性を乗り越えて存在して行ける稀な音楽ではないでしょうか。勿論カントリーやブルース等色々な要素を盛り込むことが出来ますが、ロックには限定された民族性、地域性というものはない。どうやっても良いし、どんな形でもロック足りえる。ただその核になるものさえ掴んでいれば、あらゆるものを呑みこむとてつもないエネルギーに満ちている。当然その中にはショウビジネスという一面も抱え、清濁併せ持つ現代社会そのものがロックと言っても良いような気がします。
そしてそこにはエレクトリックギターという20世紀のチャンピオンとも言える楽器の存在が大きいですね。特にジミヘン以降のディストーションの発展は、現代の音楽にとって無くてはならない要素になっていると思います。

灰野2

灰野さんは昨年ドキュメンタリー映画も上映されましたが、アメリカやヨーロッパでは、第一級のアーティストとして認められている人物。100タイトルを超えるアルバムを発表していて、その音楽は多岐に渡ります。実際話をしていると、世界中の音楽を聴いているのではないか、と思う位に音楽への見識が広く深い。今回目の当たりに彼の音楽に接してみて、彼の語る言葉がそのままが音楽に成っていると思いました。
日本では前衛的なものはどうしてもキワモノ的に見られがちですが、灰野さんの演奏に改めて接してみると、耳当たりの良い品行方正な体裁を整えたようなものの中にもはや「音楽」は感じないですね。私は以前からお稽古事やら肩書きやらについては随分と書いてきましたが、そういうものは結局「音楽」ではない。またポップスのような売れる売れないの範疇で成り立っているものも同様、あれは商品であって音楽ではない、と思えて仕方がありません。

演奏会9夏から秋にかけて灰野さんと組む演奏がいくつかあるのですが、実に楽しみです。また自分の音楽もあぶり出されると思います。上手等というものは全く通用しない。何を観て、何を感じているのか。そしてそこからどんな音を生み出して行くのか。本当の「音楽」が私にあるかどうかが試される事でしょう。
私は常に色々なものに囚われないように、自分のスタイルというものを見つめてきたつもりですが、灰野さんの音楽を実体験した今となっては、まだまだ自分の中に多くの囚われがある事を感字ずにはいられません。

今回はSoon Kimさんというサックス奏者と一緒に聞きに行ったのですが、彼とも色々な話をしていて、私は私の音楽をもっと研ぎ澄ませていこうと、はっきりと思いました。その為にはもっと明確なヴィジョンや手法が必要です。そして余計な事をどんどんと削って、自分のやるべき事だけをやりたい。そんな想いを抑えることが出来ない程に、自分の原点を感じた夜でした。


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その先の世界へ2015

先日は、フラメンコギターの師匠でもある日野道生先生に誘われて演奏してきました。この間のブログでは静寂感という事を書いたのですが、拘ってばかりでも頭が固くなってしまうので、ちょっと発想を変える為にも、誘われるままにやってみました。ライブ形式というのは本当にもう何年振りだろう??という位でしたが、気軽で楽しい会になりました。

帽子と少女会場は「帽子と少女」という名前のこんな感じの小さな喫茶店。時は選挙期間中でもあり、周りの音がどうしても聞こえてきてしまうので、何処まで表現が出来たかは判りませんが、今回はフラメンコギターとのカップリングでしたので、あまり気にせず気軽に出来ました。
私はもう7,8年程演奏会形式に拘っていて、ライブはずっとご無沙汰だったのですが、久しぶりにやってみて、色々と想う所が有りました。お店という空間で、皆さんがコーヒーを飲みながらリラックスして聞いている環境で演奏してみると、私の音楽はちょっと硬過ぎる。今回は日野先生が居たので何とかなったものの、あれではライブはちょっと厳しい。以前からリスナーを緊張させるのが私の演奏の特徴みたいなものでしたが、まあ相変わらずライブ向きのレパートリーではないのでしょう。改めてもう少し幅の広いレパートリーが必要だと思いましたし、リスナーあっての音楽という事も改めて感じました。
こういった気軽な所でもしっかりと私の音楽を届けられるのであればまた機会を持ちたいし、逆にどんな場所でも聞かせる事もやはりプロのプロたる所だという点も感じました。ただ気を付けたいのは、目の前の受け狙いに走るようになってしまう事です。そういうお客様と直に触れるからこそ、肝に銘じておきたいですね。

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ライブをやれば誰しも充実感や高揚感に浸れるものですが、盛り上がっただの受けただのという目の前の快楽に振り回されると、音楽はとたんに底が浅くなってしまいます。楽しいのは結構ですが、これはエンタテイメントの罠だと私は思っています。演奏会に於いても大いに気を付けたい所ですね。
いくら受けの良い演奏だったとしても、ノリだけで大雑把に演奏してしまう事は多々ある事です。そこには音楽の深遠は無い。技術はどんな場合でもしっかりとしたものがないと、自分のやるべき事は実現しないのです。舞台上では、何かの拍子に神憑り的にいつも以上のものが出て来る奇跡のような事が時々ありますが、それとてもまともな技術を持って舞台に臨んでこそです。こういう所に甘えが有ると、やはり全体がぼやけて、姿にも隙が出て来ます。
技術=テクニックというと、良い音程やリズム感、早弾き等が思い出されますが、それらは技術のほんの一つに過ぎないのです。ステージング、所作等舞台に関する事すべてが技術です。これが判らないようでは、音楽を届けられない。この辺りの事は、何時も肝に銘じている事ではありますが、ライブに置いては特に注意すべき所だと感じました。

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つらつらと思った事を書きましたが、時々こうしたライブもやっておくと、視点も変わって色々鍛えられそうです。私は、音楽は勿論の事、その先に在る世界を表現したい。お見事だとか、楽しかったという演奏の高揚感だけで終わりたくはないのです。
良き機会をまた得たいと思いました。

PS:この日は久しぶりにジャズ系の仲間も来てくれて、終演後ゆっくり話が出来ました。こうした語らいの時間もライブならではですね。ちょっと面白い展開になって行きそうな気がします。

プロの条件Ⅳ

ちょっとご無沙汰していました。特に忙しいという訳ではなかったのですが、何やら雑用に追われ、あいかわらず曲作りに頭を使っていたので、ブログまで頭と手が回りませんでした。お蔭でタイプの違う独奏曲が2曲出来ました。機会をみて披露して行きたいと思っています。

先日は春の嵐が来ましたが、過ぎてしまえばもう外はすっかり新緑の季節。樹木花々の旺盛な成長は、正に命の息吹。見ている此方も元気になりますね。今年は曲作りも進んで良い滑り出しです。

高尾桜
多摩森林科学園の八重桜 まだまだ楽しめます

今年も色々と声をかけて頂いて、演奏会も充実してきているのですが、樂琵琶のCDを出したこともあって、年々仕事の質が変わって来ています。ちょうど10年前に樂琵琶と笛のReflectionsを発足させたのですが、その頃からより良い響きのする場所も選ぶようになりましたし、要求されるものも変わってきた気がします。こんな風にあれこれやっていれば、だんだんやり方も質も変わって行くのは当たり前ですね。

私の音楽にはやはり静寂が保てる場が必要です。社会全体がそうですが、今、音楽にも静寂が無いですね。私がポップス邦楽等にあまり良い事を書かないのは、静寂を感じないからです。ジャンル問わず一流の演奏家には「姿」があります。そしてそこには静寂を感じるものです。静寂感を保ち、静寂感を感じさせるのもプロとしての大きな条件だと思います。お上手にぱらぱら弾いているだけでは静寂は訪れない。格好だけ付けてもかえって「フリ」をしているのが見すかされてしまいます。心身ともに凛としたものを持ってこそ、静寂は身の上に現れるのではないでしょうか。

P2069424最近よく使っている近江楽堂は規模は小さいですが、静寂が保てるのです。静寂から湧き上がって来る音は、私にはなくてはならない部分だし、一音一音を丁寧に聴かせたいともう思うので、響きや雰囲気という事も含め、これからは益々演奏する場所を選んで行くようになると思います。
どんな場所でもそれなりに聴かせる事が出来るのがプロではありますが、何事に於いても選ぶ耳と目を持つのもまたプロというもの。一流になれば成る程に、こうしたこだわりが強くなるように思います。

それは上手という事を超えて、舞台を務めるという意識が強くなるからだと思います。だからより良く表現出来る場を選ばなくてはなりません。こういう所だから、という言い訳は通用しない。ハイクオリティーを実現するには、場所選びは必須なのです。そこまでやってやっと評価の対象となるのです。上手を目指している内はまだまだお稽古事のレベル。一般のリスナーに評価してもらうには、ステージを張ってなんぼではないでしょうか。

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演奏家にはソリストタイプも居れば、伴奏タイプの人も居ます。どちらも出来る人というのはなかなか居ないものです。ピアニストなどは特に顕著ですね。どちらのタイプも極めて行くのは厳しいものがあります。しかし琵琶は独奏で演奏するスタイルが基本ですので、人の伴奏というのはまずありえない。皆がソリストにならざるを得ないので、向かない人が居ても仕方がありません。この辺りが琵琶の難しいところです。
2時間のステージでゲストを一人二人入れてたとしても、自分の冠でステージをこなせる人は、今琵琶の世界にどれだけいるでしょう??ライブのようなお酒を呑みながら気軽に聞ける場所は別として、ホールや音楽サロンでじっくりと自分独自のスタイルで、独自の魅力を持った音楽を聞かせられる人は、琵琶にはまだまだ少ないと思います。

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また旧来の薩摩琵琶には曲そのものが少ない。また各曲のイントロもメロディーも、曲構成も、琵琶のフレーズも皆同じで、歌詞だけが違うという音楽なので、やっている本人は色々なものを演奏しているつもりでも、聴いている方は全て同じ曲に聞こえる。こういうジャンルも珍しいですね。これではとても2時間もちません。延々と同じようなものを聞かされたら、さすがに優しいお客様でも二度目は来てくれないでしょう。

では、どうしたら2時間の舞台を張れるようになるのか。ゲストに演奏させて時間稼ぎするなんてやり方が以前の琵琶の舞台にはよくありました。またメンバー集めてバンド仕立てでポップスを演奏して、最後は十八番の流派の曲で締めるというやり方も結構多いですね。しかしどのジャンルに、「ポップスのヒットソングとお稽古で習った曲」を演奏して、プロですと言ってお金を取っているようなものがあるでしょう??。お稽古事の発表会ならいざ知らず、私はそんな例を他のジャンルでは知りません。古典ものをやるにしても自分なりの解釈と表現をしてこそ、プロとしてお金が取れるのではないでしょうか。習った通りの事をなぞり、お上手さを披露しているのをプロとは誰も思わない。そんなことは当たり前ではないでしょうか。プロは独自の世界を表現してこそプロなのです。
人それぞれ考え方もやり方もあるでしょう。どんなやり方でもいい。とにかく誰かの音楽ではなくて、本人の音楽が聞こえてくれば良いのです。お上手を披露しても始まらない。

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時代はどんどんと変わって行きます。今迄はこれで良かったものが、もう数年したら通用しなくなるのは世の常。お師匠様の時代のやり方では、もうやっていけない、という事も多々あります。我々は次の時代のスタンダードを示していかなければ舞台も時代も張れない。前時代と同じ発想、同じやり方、同じレールの上に乗っている優等生ではプロの演奏家には成れないのです。伝統は何も形を継ぐことではない。志を継いで行かなければ時代に取り残され、陳腐なものになって行ってしまう。

永田錦心も鶴田錦史も、その当時のやり方に反旗を翻し次世代のスタンダードを作ったから、聴衆に、そして時代に支持されたのです。日本の精神・伝統文化の上に立ちながらも、「こいつは今迄とは明らかに違う」と思わせる位でちょうどいい。そしてそれを世間に認めさせれば、次の時代がやってくる。永田・鶴田がやったように・・・。

私は自分に出来る事しか実現できないですが、是非琵琶の世界に、次の時代を感じさせるような演奏家が出て来て欲しいですね。

A Love Supreme

ルーテルイースター2015

この間の日曜日は、地元のルーテルむさしの教会で行われたイースターコンサートに行ってきました。この教会では、以前のブログでも報告した通り、ここ数年私自身も何度か演奏しているのですが、色々なイベントで演奏会をやっているので、毎回楽しみにしています。この教会は住宅街の中にあって、けっして荘厳で豪華という訳ではないのですが、何とも気持ち良い場所なのですよ。礼拝堂はノアの方舟を模して造られたとの事ですが、まあ私にとってはちょっとしたパワースポットですかね・・・?
私は毎日のんびり生きているつもりでも、知らない内に普段の生活で、ストレスやら毒が溜まるようで、ここに来るとそれがス~っと消えて身が軽くなり、気分が変わるのをいつも感じます。不思議なもんですね。私は神も仏も判らん者ですが、この教会の大柴牧師はそんな私に常に声をかけてくれます。教会の皆さんも「愛を語り、届ける」という姿勢に溢れている。この殺伐とした世にあってありがたい事です。貴重な場所ですね。かつてお寺なんかもそういう所が街の中にいくつもあったと思うのですが、残念ながら今、街中のお寺では気軽に集まれる所は見かけなくなってしまいました。たまにはこういう所に来て、心身共に清めなくては。

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このイースターコンサートは50年近く続いているそうで、出演している東京バッハアンサンブルは第一回からずっと演奏しているとの事。勿論レベルもなかなかのもの。今回もじっくりと聴くことが出来ました。
昨年同様、バロックを中心に弦楽合奏、協奏曲、歌とヴァリエーションのあるプログラムで、オーボエの姫野徹さんやソプラノの田村桂子さんなど、素晴らしいソリストの演奏も堪能させて頂きました。出演の皆さんがクリスチャンなので、皆さんにとってバロック音楽はとても身近な音楽なのでしょうね。無理も無ければ、けれんも無い。正に万物への愛情に溢れていたコンサートでした。

ルーテル武蔵野教会私はクリスチャンではないですが、民族色の強い音楽よりもバロックや現代音楽の方が断然しっくりと来ます。土着性のある民謡や、いわゆる民族音楽にも結構魅力を感じるのですが、どうしても最後には洗練の極みのような世界に行き着いてしまいます。これは昔から変わらないですね。私が雅楽や能に惹かれるのは、そこにハイレベルな洗練を感じるからです。

どんな音楽が在っても良いし、どれも魅力があるからこそ皆に受け入れられ、世に存在していると思いますので、優劣は無いと思いますが、自分にとって無理のあるものをずっと聞いたりやったりするのは難しいですね。しかしまだまだ保守的な世界では、どうでしょうか・・・・?。
音楽をやっている人の精神が何かに囚われているようでは音楽は響きません。音楽がイデオロギーで固まったり、意味の無い因習や形式等で形骸化していたり、権威を示すようなものに成ってしまったら、そこからは押しつけしか聞こえて来ない。音楽はどんなものであれ「 A Love Supreme」に溢れていなくては、聞き手に届きません。それはコルトレーンでもマイルスでも、宮城道雄でも永田錦心でも、モーツァルトでもマーラーでも皆同じです。

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ルーテル教団は歌う教会といわれているそうです。だからいつも気持ち良く音楽を聴くことが出来るのでしょうか。私はあまり器用な方ではないので、すぐに周りの事柄に振り回されてしまうのですが、ここに来ると、いつも気持ちが軽くなります。
「〇〇のようでなくてはいけない」、「〇〇でなければならない」という事は、何事に於いても無いのです。ただ只管に己の人生を生き、この身から湧き上がる自分の歌を歌えば良いのです。意地で歌っても自分の歌にはならないし、歌いながら戦っていても何もならない。
本来の自分の歌がなかなか歌えないのが世の中というものかもしれませんが、自分の歌を歌える場所、そんな歌を聴ける場所を持つことは、人生の幸せかもしれません。

私の歌を、あなたの歌を、存分に歌おうではないですか。

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