先日は、フラメンコギターの師匠でもある日野道生先生に誘われて演奏してきました。この間のブログでは静寂感という事を書いたのですが、拘ってばかりでも頭が固くなってしまうので、ちょっと発想を変える為にも、誘われるままにやってみました。ライブ形式というのは本当にもう何年振りだろう??という位でしたが、気軽で楽しい会になりました。
会場は「帽子と少女」という名前のこんな感じの小さな喫茶店。時は選挙期間中でもあり、周りの音がどうしても聞こえてきてしまうので、何処まで表現が出来たかは判りませんが、今回はフラメンコギターとのカップリングでしたので、あまり気にせず気軽に出来ました。
私はもう7,8年程演奏会形式に拘っていて、ライブはずっとご無沙汰だったのですが、久しぶりにやってみて、色々と想う所が有りました。お店という空間で、皆さんがコーヒーを飲みながらリラックスして聞いている環境で演奏してみると、私の音楽はちょっと硬過ぎる。今回は日野先生が居たので何とかなったものの、あれではライブはちょっと厳しい。以前からリスナーを緊張させるのが私の演奏の特徴みたいなものでしたが、まあ相変わらずライブ向きのレパートリーではないのでしょう。改めてもう少し幅の広いレパートリーが必要だと思いましたし、リスナーあっての音楽という事も改めて感じました。
こういった気軽な所でもしっかりと私の音楽を届けられるのであればまた機会を持ちたいし、逆にどんな場所でも聞かせる事もやはりプロのプロたる所だという点も感じました。ただ気を付けたいのは、目の前の受け狙いに走るようになってしまう事です。そういうお客様と直に触れるからこそ、肝に銘じておきたいですね。

ライブをやれば誰しも充実感や高揚感に浸れるものですが、盛り上がっただの受けただのという目の前の快楽に振り回されると、音楽はとたんに底が浅くなってしまいます。楽しいのは結構ですが、これはエンタテイメントの罠だと私は思っています。演奏会に於いても大いに気を付けたい所ですね。
いくら受けの良い演奏だったとしても、ノリだけで大雑把に演奏してしまう事は多々ある事です。そこには音楽の深遠は無い。技術はどんな場合でもしっかりとしたものがないと、自分のやるべき事は実現しないのです。舞台上では、何かの拍子に神憑り的にいつも以上のものが出て来る奇跡のような事が時々ありますが、それとてもまともな技術を持って舞台に臨んでこそです。こういう所に甘えが有ると、やはり全体がぼやけて、姿にも隙が出て来ます。
技術=テクニックというと、良い音程やリズム感、早弾き等が思い出されますが、それらは技術のほんの一つに過ぎないのです。ステージング、所作等舞台に関する事すべてが技術です。これが判らないようでは、音楽を届けられない。この辺りの事は、何時も肝に銘じている事ではありますが、ライブに置いては特に注意すべき所だと感じました。
つらつらと思った事を書きましたが、時々こうしたライブもやっておくと、視点も変わって色々鍛えられそうです。私は、音楽は勿論の事、その先に在る世界を表現したい。お見事だとか、楽しかったという演奏の高揚感だけで終わりたくはないのです。
良き機会をまた得たいと思いました。
PS:この日は久しぶりにジャズ系の仲間も来てくれて、終演後ゆっくり話が出来ました。こうした語らいの時間もライブならではですね。ちょっと面白い展開になって行きそうな気がします。
ちょっとご無沙汰していました。特に忙しいという訳ではなかったのですが、何やら雑用に追われ、あいかわらず曲作りに頭を使っていたので、ブログまで頭と手が回りませんでした。お蔭でタイプの違う独奏曲が2曲出来ました。機会をみて披露して行きたいと思っています。
先日は春の嵐が来ましたが、過ぎてしまえばもう外はすっかり新緑の季節。樹木花々の旺盛な成長は、正に命の息吹。見ている此方も元気になりますね。今年は曲作りも進んで良い滑り出しです。
多摩森林科学園の八重桜 まだまだ楽しめます
今年も色々と声をかけて頂いて、演奏会も充実してきているのですが、樂琵琶のCDを出したこともあって、年々仕事の質が変わって来ています。ちょうど10年前に樂琵琶と笛のReflectionsを発足させたのですが、その頃からより良い響きのする場所も選ぶようになりましたし、要求されるものも変わってきた気がします。こんな風にあれこれやっていれば、だんだんやり方も質も変わって行くのは当たり前ですね。
私の音楽にはやはり静寂が保てる場が必要です。社会全体がそうですが、今、音楽にも静寂が無いですね。私がポップス邦楽等にあまり良い事を書かないのは、静寂を感じないからです。ジャンル問わず一流の演奏家には「姿」があります。そしてそこには静寂を感じるものです。静寂感を保ち、静寂感を感じさせるのもプロとしての大きな条件だと思います。お上手にぱらぱら弾いているだけでは静寂は訪れない。格好だけ付けてもかえって「フリ」をしているのが見すかされてしまいます。心身ともに凛としたものを持ってこそ、静寂は身の上に現れるのではないでしょうか。
最近よく使っている近江楽堂は規模は小さいですが、静寂が保てるのです。静寂から湧き上がって来る音は、私にはなくてはならない部分だし、一音一音を丁寧に聴かせたいともう思うので、響きや雰囲気という事も含め、これからは益々演奏する場所を選んで行くようになると思います。
どんな場所でもそれなりに聴かせる事が出来るのがプロではありますが、何事に於いても選ぶ耳と目を持つのもまたプロというもの。一流になれば成る程に、こうしたこだわりが強くなるように思います。
それは上手という事を超えて、舞台を務めるという意識が強くなるからだと思います。だからより良く表現出来る場を選ばなくてはなりません。こういう所だから、という言い訳は通用しない。ハイクオリティーを実現するには、場所選びは必須なのです。そこまでやってやっと評価の対象となるのです。上手を目指している内はまだまだお稽古事のレベル。一般のリスナーに評価してもらうには、ステージを張ってなんぼではないでしょうか。
演奏家にはソリストタイプも居れば、伴奏タイプの人も居ます。どちらも出来る人というのはなかなか居ないものです。ピアニストなどは特に顕著ですね。どちらのタイプも極めて行くのは厳しいものがあります。しかし琵琶は独奏で演奏するスタイルが基本ですので、人の伴奏というのはまずありえない。皆がソリストにならざるを得ないので、向かない人が居ても仕方がありません。この辺りが琵琶の難しいところです。
2時間のステージでゲストを一人二人入れてたとしても、自分の冠でステージをこなせる人は、今琵琶の世界にどれだけいるでしょう??ライブのようなお酒を呑みながら気軽に聞ける場所は別として、ホールや音楽サロンでじっくりと自分独自のスタイルで、独自の魅力を持った音楽を聞かせられる人は、琵琶にはまだまだ少ないと思います。
また旧来の薩摩琵琶には曲そのものが少ない。また各曲のイントロもメロディーも、曲構成も、琵琶のフレーズも皆同じで、歌詞だけが違うという音楽なので、やっている本人は色々なものを演奏しているつもりでも、聴いている方は全て同じ曲に聞こえる。こういうジャンルも珍しいですね。これではとても2時間もちません。延々と同じようなものを聞かされたら、さすがに優しいお客様でも二度目は来てくれないでしょう。
では、どうしたら2時間の舞台を張れるようになるのか。ゲストに演奏させて時間稼ぎするなんてやり方が以前の琵琶の舞台にはよくありました。またメンバー集めてバンド仕立てでポップスを演奏して、最後は十八番の流派の曲で締めるというやり方も結構多いですね。しかしどのジャンルに、「ポップスのヒットソングとお稽古で習った曲」を演奏して、プロですと言ってお金を取っているようなものがあるでしょう??。お稽古事の発表会ならいざ知らず、私はそんな例を他のジャンルでは知りません。古典ものをやるにしても自分なりの解釈と表現をしてこそ、プロとしてお金が取れるのではないでしょうか。習った通りの事をなぞり、お上手さを披露しているのをプロとは誰も思わない。そんなことは当たり前ではないでしょうか。プロは独自の世界を表現してこそプロなのです。
人それぞれ考え方もやり方もあるでしょう。どんなやり方でもいい。とにかく誰かの音楽ではなくて、本人の音楽が聞こえてくれば良いのです。お上手を披露しても始まらない。
時代はどんどんと変わって行きます。今迄はこれで良かったものが、もう数年したら通用しなくなるのは世の常。お師匠様の時代のやり方では、もうやっていけない、という事も多々あります。我々は次の時代のスタンダードを示していかなければ舞台も時代も張れない。前時代と同じ発想、同じやり方、同じレールの上に乗っている優等生ではプロの演奏家には成れないのです。伝統は何も形を継ぐことではない。志を継いで行かなければ時代に取り残され、陳腐なものになって行ってしまう。
永田錦心も鶴田錦史も、その当時のやり方に反旗を翻し次世代のスタンダードを作ったから、聴衆に、そして時代に支持されたのです。日本の精神・伝統文化の上に立ちながらも、「こいつは今迄とは明らかに違う」と思わせる位でちょうどいい。そしてそれを世間に認めさせれば、次の時代がやってくる。永田・鶴田がやったように・・・。
私は自分に出来る事しか実現できないですが、是非琵琶の世界に、次の時代を感じさせるような演奏家が出て来て欲しいですね。
先日、久しぶりに新宿エルフラメンコにて本場もんのフラメンコを観てきました。
出演はオスカール・デ・ロス・レイジェス率いるチーム。本場の一流はさすがに凄い。以前同じエルフラメンコで観たダニエルトーレスのチームもとんでもなくレベル高かったですが、今回のオスカールさんも負けてないです
ね。実にいい姿をしている。面構えも申し分ないです。
バックを務める面々もなかなかの実力。特にカンテ(歌)のアナ・レアルはど迫力の歌いっぷり。なんだかMetで観たステファニー・ブライスを髣髴とさせるような貫録でした。
とにかくリズムが凄いのです。フラメンコを始め民族音楽系では、ジャズのようなレイドバックしたような乗り方でなく、前に前に突っ込んで行くような取り方をするのですが、その躍動感とビシバシと決まりまくるリズムの疾走は、酔ってしまう程の迫力でした。今回のグループは割と伝統的なスタイルが色濃く残っている感じで、ダニエル・トーレスチームのモダンなスタイルとの比較も出来、気持ち良く聴けました。
一般的に日本人はリズム感が悪い等と言われますが、確かにこうしたフラメンコやジャズのリズム感は日本人には元々無いでしょうね。逆にフラメンコの方々もジャズには上手く乗れないと思いますし、能は舞えないでしょう。結局は自分の持っているリズム感と違うものをやるのは、誰でも難しいのです。だから「日本人はリズム感が無い」という言い方は、ちょっと的外れ。それは西洋コンプレックスから出た言葉でしかないですね。
ジャズやフラメンコ、他ラテン系の音楽はリズムというものがメロディーやハーモニー以上にとても重要な要素ですので、他の文化圏の人にはそう簡単に出来るものではないと思います。日本人でもジャズやラテン、フラメンコのリズム感を本場さながらに体現出来ている人は本当に少ないですね。私も若き日にはこうした音楽を夢中になってやったものですが、今自分で演奏しなくなったのは、正にこのリズム感ゆえなのです。
上手に成ればなる程に、本場の演奏家との違いが見えてくるのです。
ジャズやフラメンコの一流の方々と接してみると、生活習慣から、感情表現、食事、習慣etc.とにかくあまりに違うのです。だから物事に対する感じ方が全く違う。基本的人間性は皆さん素敵な人が多かったですが、日本人からすると自己主張は鬼のように強いし、日本人のように「まあね」なんて事は一切言わないし、「すいません」なんて謝る事は全く無い。そんな彼らの生活の中からあのリズムが出て来るのです。
少なくとも日本の中で日本人として生きていたら、とてもあのリズム感や表現力は身に付かないし、日本の中で彼らのように生きたら、毎日がトラブルの連続になってしまう。そんな風に感じました。
今思うのは、自分が生きているこの生活の中から出て来るものをそのままやれば、必ず素晴らしい音楽に成るだろうという事です。真似をしようとするから無理が出て来るのであって、日本の土壌が育んだ日本の文化には、他の国々には存在しない、深く洗練された「間」という独特のリズムがあるのです。リズムを一定の間隔で刻むものとしか捉えていないから、「日本人はリズム感が悪い」なんていう言葉が出て来るのです。リズムがフラメンコやジャズの根幹だとしたら、「間」こそ日本音楽の根幹です。
名残りの桜
例えば日本語の語りにはとても独特のリズムがあります。一文節の中でも、前半と後半ではスピード感が違うし、抑揚も違う。それを節という名でメロディーのように教えてしまった事が現代の邦楽の間違点だと思います。節を追いかけて唄うようになったら、日本語のリズムが判らなくなってしまう。一つ一つの言葉を吟味して、どの位の勢いや抑揚でやるのか、文節の中で何処を早くして、何処を緩めたり伸ばしたりするのか・・・。語りは自由に出来る分、かなり細かく考察をしないと本来は出来ないのです。それを節の形で覚えて、安易に唄ってしまう事が、一番の問題であり、リズム感に対する大きな誤解のもとになっていると、私は思っています。
かつてアルゼンチンタンゴがヨーロッパに渡り、コンチネンタルタンゴになり、イギリスでは白人達によるブルースが、ブリティッシュブルースとしてジャンルを確立しました。クラシックだって各国それぞれの音楽が在り、ジャズも色々なスタイルのものがある。どんなものであれ自分達のリズム感で、自分達のスタイルに昇華して、ハイレベルの音楽に創り上げてやれば良い事なのではないでしょうか。違う文化圏の音楽を同じようにやる事もない。
日本スタイルのジャズやフラメンコをやればよいし、邦楽だって琵琶だって、其々各人スタイルの違いを打ち立てればよいと思いませんか。それをやろうともしないで、挙句の果てに「リズム感が悪い」なんて事を言い出すのは、思考が「物まね」の域で終わっているという事。コンプレックスの極みとしか思えません。
邦楽に於いても、師匠と自分は違う人格を持った別の人間なのだから、違って当たり前。レベルが高くなればなる程、別のスタイルが出て来て当たり前なのです。守・破・離とは世阿弥の時代から言われている事ですが、いつまでも物真似を繰り返し、低レベルな所で甘んじるのか、それともそれを乗り越え昇華して、新しいスタイルを打ち立てるのか・・・?皆さんはどちらを選びますか?
リズム感は感性そのものであり、自分の生きてきた証でもあると思います。何もジャズやフラメンコのものと同じである必要は無いし、同じであってはいけない。自分の持っているリズム感や感性に誇りを持とう!!。音楽はそこから生まれ、そこから自分の歌が流れ出るのです。ないものねだりや、コンプレックスに囚われていたら、何時まで経っても自分の歌は響かない。自分の歌を高らかに歌おうではありませんか!!
それこそが我らの基本なのですから。
この所寒暖の差が激しく、東京の桜はすでに見頃を終わってしまいましたが、散り行く桜もまた一興。地面や川面に落ちた花弁等とても風情がありますね。
長瀞の桜 先週
こうして毎年梅や桜を追いかけて過ごせているという事は本当に幸せです。そして本居宣長ではないですが、やはり桜は日本人の感性の根幹にあり続けているのだな、と思えてなりません。
日野先生
そんな華やかな日々の一日、フラメンコの日野道生先生が毎月やっている小規模なパーティー(ペーニャといいます)に行ってきました。久しぶりに伝統的なフラメンコを目の前でたっぷりと聴くことが出来ました。日野先生のスペインでの武者修行の話や、色々なカンテ(歌)の話など、現地で勉強してきた人間でなければ解らない、実に興味深い話を聞けて楽しかったです。更にカンテの女性も来てくれて、素晴らしい歌も堪能。我が身にフラメンコが沁み渡りました。実は私は20代の中頃にちょっとだけですがフラメンコギターを日野先生に習っていた事があるのです。その時学んだことは、後の琵琶の演奏技術に大いに役に立ちました。フラメンコギターと薩摩琵琶には共通するものを多く感じます。
そしてつい先日、久しぶりに自分の原点を思い出させてくれる曲を思いがけず聴きました。いつも楽しみにしているFMの「現代の音楽」で、ピーエール・ブーレーズ作曲の「ル・マルトー・サン・メートル」がかかったのです。シェーンベルクやバルトークから続く現代音楽が、次の段階に進んだ第一期が1950年前後でしょうか。その50年代を代表する作品がこの曲なんです。それから更にまた発展して行くのですが、私が作曲の勉強を始めた頃、良く聴いていました。正直なんだかよく判らず、概念論や背景となる哲学ばかりあれこれ考えていたのを思い出しました。
ジャズや現代音楽、フラメンコなどは、自分の中ではもはや大切な音楽体験となっていて、私にとっては音楽的な基礎と言えると思います。しかしこれらは大きな要素ではありますが、ここから音楽が出て来る訳ではないのです。あくまでそのもっと奥にある感性から音楽が湧き上がるのです。日本人として生きて来た私が、ものを観て感じるその感性が先ずあって、その上に様々な音楽体験があって、それらを通して初めて音楽が生まれてきます。
私は自分の芸術的感性の源を中世の精神文化に求めています。平安時代の余情の美から始まり、中世の「わび」から近世の「さび」へと続く精神文化の発展には日本の心の土台を大変感じます。色々な体験や知識なども大切ですが、先ずは何よりもこの土台こそが私の基本となるもの。ここばかりは何が来ようと揺るぎません。
基本や基礎というとすぐに技術的な事ばかりに目が行ってしまいがちですが、その技術も感性の土台があってこそ出来上がったもの。感性が違えば、良い音という概念も全く変わってきます。だから技術よりもその根底にある感性に目を向けない限り、本当の意味での技術は得られません。良い音と感じるその感性を会得しない限りは、多少手が動いたところで、何時まで経ってもまともな音は出せないのです。古典に向かう時には特にこの辺が大切な要素だと感じています。
フラメンコはアンダルシアの民謡という事もあり、
ジプシー達に共通した感性の根本があるし、いまや唄にもギターにも技術的な基盤がしっかりと出来上がっています。薩摩琵琶はどうでしょうか?鹿児島に於いては薩摩ぶりという感性の土台が、かつてあった事と思いますが、それ以降の新しい薩摩琵琶は当時の最先端のセンスで作られたものであり、エンタテイメントとして人気を得てきたので、フラメンコのような民族に直結した感性とはまた違うと思います。ではどこに精神的な根本を求めるのか?。これはしっかり考えるべき課題だと思います。色々な意見があると思いますが、流派や学校で勉強した事だけが基本ではないと思います。そのもっともっと奥をぜひとも見つめて、自分の感性の源を求めて欲しい。それこそがあなたの基本となるものではないでしょうか。
一つ私が思っている事は、薩摩琵琶はまだまだ技術や楽曲に発展の余地があり、それ故にこれから歴史を作って行く音楽であると感じています。今はまだ、時間的な事も含めて古典という段階ではなく、これから日本音楽の古典となって行くものだと思います。そして私達はその歴史の最先端にいるのです。
パコ・デ・ルシア
常に自分の基本となる所を見つめて行く事は、それに囚われるという事でなく、何に相対してもぶれない自分の核を持つという意味で大切な事だと思います。しなやかで
且つゆるぎないプレロマスな姿勢が無いと、結局は新たなものに挑戦しても相対することは出来ず、付和雷同で踊らされるだけで終わってしまいます。「自らを燈火とせよ」とお釈迦様も言っておられます。
それにしても若き日の出逢いは正に運命。こうした運命に導かれて、自分という個性が出来上がって行く事を想うと、どうしてもはからいの中に生きているんだなと思ってしまいますね。