けれん

城ケ島4城ケ島

もう毎日半袖で過ごすようにになりましたね。季節の移り変わりの速さが身に沁みるこの頃です。日々なるべく色々なものに囚われないように生きたいと思うのですが、社会と共に生きざるを得ない人間としては、世の流れには関わらずにはいられません。致し方ないですが、だからこそそこから音楽も生まれてきたのでしょうね。

最近よく「けれん」を感じる舞台に出会う事が多くなりました。この「けれん」という言葉は、高田栄水先生の所で琵琶の稽古を始めた時に聞いたのですが、一般的には、ある程度上手な方が、もっと上手に見せようとして、余計な装飾をしてしまったり、極端な表現をした時に言われます。自分の演奏にもこの「けれん」をどこかに自ら感じているからこそ、気になるのでしょう。

森1人間は何かの枠の中で自分というものを認識する生きものですが、それ故どうしても枠の中での自己顕示、優劣の感覚等々様々な意識が湧き上がります。「けれん」は正にそうした「枠の中での自分」という意識から生まれてきます。そんな心は誰にも少なからずあるものですが、それに振り回されてしまった時、自分自身を失ってしまいます。そういった所にこそ、その人の器が試されるというものですね。

「けれん」は、ある程度技量が無いと出て来ません。上手で、ある程度の事が
出来てしまうからこそ、やらなくてもいいようなコブシを回してみたり、極端な表現をしてみたくなってしまうのでしょう。何か一ひねりして、目の前の枠の中で自分の存在を知らしめようとする小さな心が「けれん」を生むのです。つまり上手に成ればなる程、高く深い精神を伴わなければ、良い音楽は響かないのです。派手な格好をして、調子っぱずれの歌を歌っている内は「しょうがねえな」で済みますが、一見ベテランのような顔をしていて、そこに「けれん」が見えてしまうと、かえってその質に疑問を持たれてしま
う。

問われるのは、技量ではなくて器であり、精神なのです。

P2069455
けれん無き姿をしているか?

「けれん」が見える内は、多少の技量があっても結局そこまでしかないという事。その先にヴィジョンも無ければ、音楽の喜びも無い。自己顕示欲だけが聞こえてく
る。しかし「けれん」がまとわりついている人は、ひとたび想う所、見ている所が変わると演奏ががらりと変わります。技量も無く、勘違いしたプライドで固まっている人は論外として、心の持ち方一つで何もかもが変わるのです。それは元々ある技量が、ちゃんと理由を持ち始め、それら一つ一つが表現のスキルになるからです。音楽は結局の所、何を考えているかという所で成り立っています。技術で成り立つものではありません。その心が音楽という形になるだけなのです。ただその心を開いて行くのが一番難しい。練習したところで凝り固まった心や偏狭視野は変わらない、更に凝り固まって行くばかり。大きな世界を見て心を開けるかどうか。もうその人の器でしかありません。

ヴィジョンが定まって、柔軟な心と視野を持っている人は、そのヴィジョンを実現するための技量がどんどん身に付いて来ます。知識や技術に意味を感じているからです。最初はがむしゃらにやっても結構だと思いますが、自分が何をやりたいのか、何故それが必要なのか、何故やるのか。そうしたものがはっきりと見えた時に、勉強してきた技術や知識が自分の中で意味を持ちはじめます。
そしてある程度来た時にまた更に先の大きなヴィジョンを持てるかどうか。こうして段階を一つ一つクリアできる人は成長して行きますが、ある所で止まってしまう例が多いですね。私自身も常に柔軟な心でいたいと思っていますが、自分では自分の事はよく見えないので、多くの友人達と関わり話をすることで、様々な示唆や気付きを頂いています。何かをやり続けるには大切な部分ではないでしょうか。

日の出1

いつまでも大きな視野、ヴィジョンを常に持ち、柔軟な心で居たいものです。「こうでなくてはならない」「こういうものだ」という狭く小さな感性、硬直した心では何も生み出せない上に、次世代へとつなげて行く事も出来ない。

魅力ある音楽を創りたいのです。それを更に良きものに、そして更に次世代へ。そんな想いが年を重ねるごとに増してきました。

過ぎゆく日々2015皐月

先日は、日経新聞の記事に沢山のエールを頂きまして、誠にありがとうございました。大変反応が大きく、私もちょっとびっくりしました。この場をもってお礼に代えさせて頂きます。これからもどんどんと活動を展開して行こうと思っていますので、是非とも御贔屓にお願い申し上げます。

演奏会2

記事では樂琵琶の事ばかり書いてありましたが、薩摩琵琶もどんどん弾いて行きますよ。ただいわゆる従来の弾き語りのスタイルは少なくなって行くと思います。弾き語りはやるべき人がやって行くでしょう。私は私の音楽を追求します。薩摩琵琶では現代音楽的なアプローチや、声や唄を使った今までに無い形をもっとやって行きたいし、独奏曲も更に作りたい。樂琵琶の方も雅楽という枠ではなく、汎アジアという視点を持って色々な作品を作って行きたいと思います。

y30-6s若き日
私は有難い事に、15年ほど前から色々とメディアには取り上げて頂いていたのですが、今回ちょっと整理する意味で、以前のインタビューや掲載記事等読み返してみました。
昔から言いたい事を吠えてますね。言ってる内容も今と同じ。雑誌的には私のような反乱分子は面白いのでしょうが、30代の頃邦楽ジャーナルに書いた長文など、ここまで言っていいんだろうか?という位言いたい放題。

ジャズから始まった私の音楽人生ですが、邦楽の世界に入ってみて、これほどまでに名前や肩書きにすり寄る人がいるとは思いもよりませんでした。また邦楽界の低迷がそこにある事も痛感しました。そんな想いを吠えまくっていたんでしょうね。
それにしても邦楽はこれから変わって行くのでしょうか。本当に音楽をやる事が出来るのでしょうか・・・・・・?。

biwa-no-e2

この絵を書いてくれたのは鈴田郷さんというおばあちゃまです。私のCDジャケットにも使わせてもらいましたが、今は毎月の琵琶樂人倶楽部の看板にさせてもらってます。実に自由に感じたままを書いてくれている。良い絵だと思います。私はこの素直な感性を大変気に入っているのです。
今邦楽にはこの素直さがあるとは思えません。我々は舞台が全てなのです。偉い先生でもお名取さんでも、大学の先生でも、はたまた私のように何にも書くことが無い人でも、舞台に立ったら皆同じ演奏家です。とにかく舞台がつまらなければお客様は二度と来てくれない。音楽は一般の方が聴くものなのだから、現代に生きる人々の感性に訴える力の無いものは、すたれて行っても仕方がない。解りやすくするというのでなく、何か魅力を感じさせることが必要なのです。

皆さんはお上手なものではなくて、素敵なものを聴きに来ているのです。核心を伝えながらも、感性は柔軟に時代に対応して行かないと伝わりません。村の中の価値観やお上手さは、現代社会に生きる一般の人には通用しないのです。仲間内にしか見えない重い幻想の鎧はもうそろそろ脱ぎ捨てて、素敵な舞台をやろうじゃありませんか!!!

kawasaki2009-11

とにかく素敵な琵琶の音を聴かせたいのです。かつて私はジミヘンやヴァンへイレンに衝撃を受け、ジェフベックに涙し、マイルスやコルトレーンにやられ、ウエスやジムホールに心酔し、青春時代を過ごして来ましたが、いつか次世代の若者が、純粋に音楽として私の残した作品を聴いて何かを感じてくれたら本望です。

まだまだ長い旅は続きそうです。

樂琵琶宣言2015

今月は刺激的な演奏を何度も聴かせて頂いたせいか、何だか気分が興奮気味だったのですが、やっと魂が落ち着き(?)家でゆっくり琵琶を弾けるようになりました。今月は灰野さん、中島さんのコンサートの他に、箱根のサロンコンサートも面白かったし、手妻の藤山新太郎師匠の公演にも毎週参加しましたが、本当に刺激の多い半月間でした。
良いものを聴くのは素晴らしい事ですが、興奮状態では自分の仕事が出来ません。落ち着いて我が身を振り返り、自分のやるべき事をしっかりと見据えないといけませんね。

2

先日、樂琵琶の事で取材を受けたのですが、その時に主に話したのが、樂琵琶に対する私の視点です。私が見ているのは雅楽の琵琶という事でなく、もっと汎アジア的な弦楽器という所。記者の方は充分に判ってくれたようなので嬉しかったです。私は雅楽もそれなりにやるけれども、雅楽師ではないのです。現行の雅楽も含め、樂琵琶はその歴史にアジア全般を背負っています。私は樂琵琶やそれ以前の弦楽器達の辿った歴史に興味がありますので、雅楽という限定された中で樂琵琶を見てはいません。

以前からシルクロードを視野に於いて樂琵琶を弾いて来ましたが、樂琵琶で秘曲や、古典曲のアレンジ物などオリジナルのCDを3枚出してみて、更にその想いは強くなったと思います。薩摩琵琶は日本で生まれたものですから、現代日本の音楽を高らかに歌い上げるべきだと思いますが、樂琵琶はどんどん国境を超え、時代を超え音楽を奏でるべきと思っています。

やっとゆっくり琵琶を向き合う時間が訪れ、ここ数日は改めて琵琶楽に対するアプローチを考える良い機会となりました。
私が樂琵琶に取り組むきっかけとなったのは、「殿上人の秘曲」というCDです。多忠輝さんの演奏する「啄木」をじっくり聴いてみて、やっぱり「これだな」っとあらためて頷いてしまいました。この演奏は家元や樂家に良くある、「確かに間違いのない伝承だけれども、どうも腑に落ちない」という所を全く感じない。弦楽器をあるべき姿に豊かに鳴らし、歌わせている。多彩なタッチも素晴らしい。実は私が、雅楽や邦楽で一番腑に落ちないのが、ぶっきらぼうとも言えるヴァリエーションの無いタッチなのです。そこに豊かな感性は感じられないですね。
この多先生のタッチは実に繊細で、表情がある。樂琵琶を大きく歌わせている。もしこの演奏に出逢わなかったら、私は樂琵琶を弾いていなかったでしょう。機会は無いと思いますが、一度多先生にお目にかかってみたいものです。

中でも「啄木」は今聞いてもモダンな感じで、古臭いという所がみじんも無いですね。一番好きな曲です。おおらかで明るく、大陸の風を感じます。樂琵琶の音色は全体にこのイメージがあるのですが、「啄木」は特にこうしたイメージを喚起させますね。薩摩琵琶は逆にあの何とも言えない湿った暗さが一つの魅力なのですが、携わる人の感性が変わると、同じ琵琶でもここまで変わるんですね。

また「啄木」が時代を超えて魅力を放つのは器楽という所が大きな要因だと思います。例えば新古今のような和歌だったら、古風な言葉でもその感性は今でもそのまま通じるものがありますが、歌詞の入った曲は、時代が変わってしまうとどうにも感覚的に判らないというものも少なくないです。特に近代の曲は時代が近いだけにかえって判らないものが多いような気がします。例えば「石堂丸」や「戦艦大和」等はどうにも解せない部分が多々あります。明治以降、時代と共に人々の感性が大きく変化したのですから、これは致し方ないですね。
「啄木」は器楽だからこそ、色々な時代の感性に晒されても、魅力を感じてもらえたのではないでしょうか。筝曲の「みだれ」もそうですが、現代音楽とも言えるようなモダンを感じます。武満徹は「音楽には国境がある」といいました。確かに武満の言葉は十二分に頷けるものがありますが、私はそれを判った上で、あえて音楽は時代も国境も越えると言いたい。

gakubiwa1

そして改めて感じたのは伝統を守る最前線にいる人と、次世代の日本音楽を創ろうとする私とでは、同じものを同じように弾いても違うんですね。表面上は同じです。そっくりそのままコピーしましたから、さらっと聞く分には同じに聞こえるかもしれませんが、確かに違う。その違いは是非先入観を取り払いお聴きになって感じて頂きたいと思います。

しかし継承という部分と、ある意味真逆な創造という二つの両輪が「啄木」という曲で繋がっているというのは面白いじゃないですか。それだけこの曲には大きな器や懐の深さがあるという事だろうし、だからこそ今聞いてもとても新鮮な魅力が溢れていると思います。

樂琵琶の魅力をどんどん聞いてもらいたいですね。

光と影 その間(あわい)に煌めくもの達~中島由紀ピアノリサイタル

先日、浜離宮ホールで行われたピアニスト中島由紀さんのリサイタルを聴きに行きました。

Scan0003

2年前のリサイタルは、ツアー中で聴きに行けなかったので、今年は何としても行きたいと思っていましたが、本当に行ってよかった。未だに体中に彼女の音が満ちている。それ位の充実ぶりでした。
以前の彼女の演奏とは全然違いました。勿論以前も素晴らしかったけれど、今回は音が煌めいているかのように会場に満ちていたのです。生命感が溢れるとはこういう事なのでしょう。特に第2部で弾いたドビュッシーの「ベルガマスク組曲」等は、ほとばしると言った方が合っているほどに、曲がまるで生きもののように自由に舞っているようでした。

とにかくタッチのコントロールが細部に渡って効いていて、自由自在にあらゆる表現が飛び出してくる。そしてダイナミック!。けっしてこじんまりした小さな演奏ではありません。あくまで自然に、曲のありのままの姿が流れ出て来るのです。ここまで作り上げて行くには、ありとあらゆる努力と研究があったのでしょうね。それにきっとここ数年、彼女は何か精神的な充実を得たのではないでしょうか。そうとしか思えないような驚くほどのレベルアップでした。元々技量も経験も積んできた方ですが、ここに来てそれが花開いたような気がします。

Scan0004先日聴いた灰野さんもそうですが、人生と音楽が一致している、そんな風に感じました。そこ迄行くには技術だけでなく、人間としての経験も重ねる事が不可欠だろうと思いますが、彼女はそんな音楽家としての人生をつかんだという事でしょう。きっと多くの物を通り越して、自分なりのペースで音楽を人生として生きているのでしょうね。

こんなに豊かなピアノは初めて経験したかもしれません。今迄クラシックは弦と歌ばかり聞き入っていたのですが、俄然ピアノに興味が湧いてきました。家に帰って思わず、リヒテルやグルダ、グールド、館野泉なんか引っ張り出して聞いてしましました。

私はとても彼女のようなレベルにはいけませんが、結局は自分のやるべき事をやるしかないと思います。自分のやり方で自分の道を歩むことが一番自分らしいし、またそれしか出来ません。素晴らしい音楽家に接すれば接する程、自分の行くべき道を進もうという想いも強くなります。

本当に素晴らしいコンサートでした。これ程にピアノを堪能したのは生まれて初めて。また一つ音楽の世界が広がり、視野が開けました。ありがとう!!

PS:いつも書いていますが、一流は姿が良いのです。今回久しぶりに中島さんの姿を拝見しましたが、姿が一段と良くなっていました。彼女は常に体も鍛えているそうですが、何時見ても姿勢が良く、写真のように大変絵になる方なのです.。久しぶりに見たら、凛とした眼差しの中に柔らかさが加わって、余裕のようなものを感じました。充実ぶりが姿にも表れているようでした。

音楽の喜びⅥ

先日、箱根やまぼうしにて演奏してきました。このやまぼうしでは昨年も演奏の機会があり、また是非やってみたいと思っていましたので、お話を頂いて嬉しかったです。今回は樂琵琶も持って行って、啄木も演奏させて頂きました。

7

やまぼうし http://www.mies-living.jp/termsofuse.html

とにかく素晴らしい所なのです。緑に囲まれ、芦ノ湖のすぐ近くという立地の上、建物も空間も、こうした催しやサロンコンサートには申し分ない条件が整っているのです。

1ちょうど大涌谷が話題になっているこの時期ですが、離れているせいか全然心配は無く、お客様もリラックスして、とても良い雰囲気で演奏が出来ました。今回もいつもお世話になっているICJCのDr.アマトさんが通訳(超訳)をしてくれまして、外国の方にも楽しんでいただきましたが、演奏後の質問コーナーでは、Hzの話やリズムなどについて、結構レベルの高いお話が出て、充実した会となりました。

こういう演奏会は大好きですね。演奏活動を続けていれば、色々な現場に出会いますが、演奏していて気持ち良いという場所は、そう多くはありません。気持ち良いとは、場と人と音楽がアンサンブル出来るという言い方をしたら良いでしょうか。自分の気持ち、リスナーの気持ち、そして響きが一体となる瞬間はやっぱり音楽家にとってとにかく嬉しいし、気持ち良いのです。

29
2015年「良寛」公演ラストシーン

自分でCDを作っておきながら言うのも変ですが、つくづく音楽は生演奏が一番だな、と思います。CDやレコード、最近はネット配信などで様々なものが自由に聴ける訳ですが、リスナーがどんな時に、どんな場所で聴くのかで、その印象は大きく異なります。音楽家をやっていると見逃しがちなのですが、音楽は音だけでなく、場や人、時、等々色々な条件の中で初めて成立するものなのです。オーディオも素晴らしいですが、音楽はスピーカーから出て来る音よりも、何の付け足しも無い、演奏者から湧きずるそのものの生演奏がやはり基本です。

ryokan222014年「良寛」公演
そして音楽や演奏に対する姿勢も大事ですね。音楽に対してどこまでも素直で居ないと、音楽はすぐにねじれます。背伸びをせず、気負いの無い、自然体の心持で、落ち着いた穏やかな姿。これが私の理想ですが、音楽の前には偉いも、肩書きも、キャリアも何も無い。誰でも一演奏家です。演者は、自分を大きく見せようとしている時点で、もう舞台に支配されてしまっています。何者でもない等身大の自分自身の姿を、音楽と舞台にどこまでも晒す覚悟が出来ていないと、ベールをかけたままで思うようには伝わらない。衣装でも照明でも同じなのですが、何かを付け足してしまうと逆に音楽を妨げてしまうものです。皆様はどう思いますか・・・?。

どんな場でも音楽には喜びがありますが、気持ち良い場所で、気持ち良い会をやると、ひときわ音楽の喜びが感じられますね。その気持ち良さは皆音楽と成って出て来ます。何か気にかかっている時の演奏と、気持ち良く音楽に、場に身を委ねるようにしている時の演奏とではずいぶんと違います。

人間は精神的生きものと言われますが、何を感じ、どんなヴィジョンを持って、何処を見ているか、そういう精神の在り方一つで、目つきも顔つきも体つきも歩き方も変わってきますし、勿論音楽も大きく変わってきます。
場と、人、更には季節や時代ともコミュニケーションし、その場でしか響かない音楽を紡いで行く事は音楽家の幸せであり、喜びだと思います。どうだ!とばかりに肩書きぶら下げて自己顕示欲の塊になって、一方的にご披露しても、何も届かない。分かち合う喜びを知らなければ、音楽は響かないのです。

okumura photo6

良き時間を頂きました。

© 2025 Shiotaka Kazuyuki Official site – Office Orientaleyes – All Rights Reserved.