日本橋富沢町 樂琵会

ちょっとご無沙汰しました。ここ一週間ほどカリブ海の国々を周っておりました。素晴らしい風景が沢山ありましたが、これはまた日を改めましてご報告したいと思います。

船上甲板から見たカリブ海の夕暮れ

さて今日25日は、「日本橋富沢町 樂琵会」の記念すべき第一回目演奏会を開催します。この会は毎月やっている琵琶樂人倶楽部とは性格を異にしていまして、とにかく琵琶の生演奏を堪能していただくということが趣旨なのです。琵琶樂人倶楽部では琵琶楽の色々な側面をテーマに取り上げ、レクチャーを中心にやって来ていますが、樂琵会の方は、隔月開催で、且つ演奏を中心に、毎回ゲストを入れてやって行きます。またゲストも若手や異ジャンルの人で、なるべく魅力的なものを持っている人を頼んでやって頂きます。

日本橋富沢町 樂琵会の看板絵

琵琶樂人倶楽部が100回を迎えるにあたって、当初の目標通り琵琶楽の歴史や関わる文学等、文化全般に渡り、正に文化としての琵琶楽を色々な側面からレクチャーして行く教養講座的な会に育ったこともあって、この樂琵会ではレクチャーより先ず実演ということでやって行こうと思います。

第一回目は、私が薩摩琵琶・平家琵琶・樂琵琶を演奏して、その違いを聞いていただくお披露目の会です。
第二回目は、4月21日。筑前琵琶の平野多美恵さんを迎えて、薩摩と筑前の違いを聞いていただきます。それも「敦盛」対決!
第三回目は、6月16日。尺八と共に現代曲を合奏で楽しんで頂きます。
第四回目は、8月18日。語りと共に怪談物をやります
とりあえずここまで決まっています。

何れも第3木曜日、19時開演。1000円でお茶付です。
とにかく新たな気持ちで発信して行きます。是非是非是非ご贔屓に!!!

カリブ海の船上からの朝日

琵琶でやってみたい事はまだまだいっぱいあります。樂琵琶は器楽専門に色々やって来て、一応の作品も出来上がってきましたが、薩摩琵琶の器楽曲に於いては、まだまだこれからという感じがしています。声に関しても従来の語り物ではなく、声を使った新たな作品を創るのが私の仕事。発想だけは色々ありますので、これからもっともっと曲を作ってゆきたいのです。

ただ、それらをちゃんと舞台に上げてこそ、初めて形になるので、舞台として聴かせることが出来る所までやらなくては意味はありません。1時間2時間の舞台を自分で張ることが出来る人は琵琶人にはまだ少ないです。上手いのは当たり前。それを自分の舞台で、観客を魅了する所までやらなくては舞台人とは言えません。賑々しいエンタテイメントにしなくても、しっとりとした静かな会をやっても良いと思います。色々なやり方が出来たら良いですね。

昨年12月の料亭福田屋での演奏会にて

自分なりのやり方でこれからもやって行きます。是非演奏会にお越しくださいませ。

間合いの美学

立春も過ぎたせいでしょうか。まだまだ寒暖の差はあるものの、日々春を感じることが多くなりました。今年は花粉症も出ないし、お仕事もまあそれなりに頂いているので、なかなか順調なのですがスケジュールがタイト過ぎて、ちょっと時間配分が大変です。

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少しづつ仕事の質が変化してきていて、今までやった事のないような面白い仕事が、年を追うごとに増えてきました。ありがたいことです。そしてそんな変化と共に「間合い」というものが益々気になってきました。
この「間合い」というやつは数字ではとても捉えきれないし、同じものでもやる度に違って感じることも多々あります。一筋縄ではいきませんね。「間合い」は常に変化するし、同じということはありません。音と音の間合いだけでなく、リスナーとの間合いというものも大切です。場との間合いも同様、「間合い」は自分を取り巻くあらゆるものとの関係性ではないかと思っています。

ティアラ2016

踊りが入ると音楽は一気にその間合いを変えて行きます。これはフラメンコでも日舞でも、音楽だけの時とはぜんぜんちがう「間合い」になって行きます。来月舞踊作家協会の定期公演にて、日舞とモダンダンスの踊り手が私の曲で踊るのですが、その稽古で先日、日舞の花柳面先生の稽古場でリハーサルをしていた折、当たり前ですがいつもと全然違う「間合い」を感じました。結構前ノリで弾いていたつもりなんですが、こちらが遅れそうな勢いなのです。ちょっと不思議な感じがしました。
シルクロードの国々での演奏会では、演奏だけで行ったので、どこへ行っても「踊りは無いのか?」と聞かれました。民族舞踊系は音楽だけ聞いていると、前ノリで突っ込んで行くようなリズムを感じがしますが、日舞なども、一見ゆったりした雰囲気にみえて、その中ではもっと違う流れがあるのかもしれませんね。まだまだ修行が足りません。

国立音楽院ホール本番1
ウズベキスタン国立音楽院ホール演奏会

左ウズベキスタン イルホム劇場演奏会リハ
右旧グルジア ルスタベリ劇場大ホール演奏会

音楽それぞれにリズムやノリなど色々あると思いますが、そういうものは体に染みついた感性でもあるので、いくら真似した所で自分の基本は大して変わらないのではないか、と近頃は思うようになりました。この我が身に染みついた「間合い」でやるからこそ、自分の音楽になるのでしょう。憧れて真似ているようでは、辿り着けません。私は20代の頃フラメンコギターなどもやってみましたが、なぞるのが精一杯で、とても音楽にはなりませんでした。ジャズも同様でしたね。
いつも書いているように、タンゴもブルースもジャズも色々な国で、新たな命を得て、一つのスタイルやジャンルを創ってきたのです。物真似しているようでは所詮はそこまで。異国のものであれ何であれ、自分の言葉でしゃべることが出来ないと、自分の想いは伝わらないのです。少なくとも自分の「間合い」がはっきりとあり、且つ日本の風土と歴史を感じるような風情が無くては、私が思う琵琶の音楽は響きません。この風情を一番現すのが「間合い」。「間合い」は歴史であり、文化であり個性であります。つまり「間」一つに深遠な美学があると言っても過言ではないと思うのです。

「間合い」を取る事は、自分の存在を自ら確認し表現することだと思います。そこには調和も反発もあります。様々な条件下で、現在の自分がどういう形で存在したいのか、舞台はそこを問われているのかもしれません。
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一つお知らせがあります。今月25日より「日本橋富沢町 樂琵会」という会がスタートします。以前両国でちょっとだけやって頓挫していたのですが、場所を変え新たな気持ちで始めたいと思います。
何時もの琵琶樂人倶楽部は琵琶に関する色々な側面を、レクチャーを主体にして教養講座的にやっていますが、樂琵会ではとにかく演奏を聴いてもらおうというのが趣旨です。難しい話は抜きにしてどんどん聞いてってください。

第一回目は 樂琵琶:楊真操、薩摩琵琶:壇ノ浦、そして平家琵琶をほんのサワリだけ。
第二回目は4月21日、筑前琵琶の平野多美恵さんを迎えて、「敦盛」対決す。
第三回目は6月16日、尺八の田中黎山君を迎えて、現代の琵琶楽を合奏。

先ずは2月25日、午後7時開演、料金:1000円(お茶付)。場所は日本橋東京都中央区日本橋富沢町11-7 KCIビルディング B1階です。最寄駅は小伝馬町です。

是非是非ご贔屓に!!

孤独ということ

お江戸日本橋伝承会及び、近江楽堂でのReflections演奏会、無事終わりました。年を重ねるごとに演奏会の数も増え、多くの方々に聞いてもらえるのは本当に嬉しいです。小さな会ではありますが、私にとっては正月よりも、この毎年の近江楽堂演奏会が終わると一区切りという感じで、一段落つきます。まあ後は確定申告でしょうか。

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今年はReflections の活動もそうですが、新しいプロジェクトとして「日本橋富沢町 樂琵会」という定期のサロンコンサートを始めることにしました。以前両国でもやっていたのですが、あらためて新しい形で再開することになりました。また詳細はお知らせしますが、是非是非足をお運び頂きたいと思います。

音楽活動を続けて行けばいくほどに、音楽家や芸術家は孤独な存在であり、孤独な作業を日々繰り返しているのだな、と実感します。まあどこかに収まってしまうようでは、思考も固まってアイデアも出てこないし、創造性も掻き立てられないかもしれませんね。
近頃はワイドショーでも日舞の家元問題などが取り上げられ、筝曲でも新しい団体が出来たりして、邦楽界は相変わらずという感じですが、正に邦楽衰退の原因がそこにあると思うのは私だけではないでしょう。音楽を聴いてくれるのは一般のリスナーであり、その良さを判断するのもリスナーであるということを邦楽人はすっかり忘れてますね。判断するのは業界関係者でもなく、マニアでもなく、「一般」の観客ですよ。
組織を固め、肩書きを沢山付けてご満悦というのも人間らしいと言えばらしいですが、例えば武満さんのような我流の人は駄目なんでしょうか???高橋竹山のような門付け芸の演奏家も駄目???・・。観客はどちらを選んだでしょうか・・・・?邦楽はもう明清楽のように滅んで行く運命にあるのかもしれませんね。

ラウンジリザーズ時代のセンスはどんどん変わります。せっかくお稽古してお免状もらっても、時代は既に先へ先へと移って行くので、時代を見抜くセンスがなければ、世の中に受け入れられません。これはクラシックだろうがロックだろうが同じことです。かつて「ラウンジリザーズ」というグループがデビューした時には、「ジャズ」マニアの方々から猛反発が出ました。お決まりの「こんなものはジャズじゃない」というやつです。それも頭固くしているのは、年配者よりも20代30代の若手の方が多かったですね。正に永田錦心の時と同じです。でも「ラウンジリザーズ」は、そんなマニアの方々以外の多くのジャンルのアーティスト、リスナーに受け入れられ、ジャズという枠を超えて、未だに多くのファンを持っているし、新しいセンスを世の中に示し、世界的なアーティストとして未だに多くの影響を与えています。

どの世界でも、志ある者達が頭の凝り固まった連中と戦いながら、少しづつ変わってきています。そういう孤独な戦いが出来る者が居る音楽には、まだ次世代を担う若手が育ってゆく土壌があります。そして次代を示した者が歴史として残って行くのもまた一つの現実。古くは世阿弥、明石覚一、千利休、八橋検校、宮城道雄、沢井忠夫、観世三兄弟、永田錦心、鶴田錦史のように・・・。次の時代を創るにはレールの上に乗っているような感性では駄目なのです。正統等と言う時点でもう、その時の優等生でしかなく、既に次代は見えていないのです。


古典をやりたかったら「異端」になれ!!!


SHIO03若かりし頃厳島神社にて
私は若かりし頃、とある先輩からこういわれました。異端は孤独です。最初は誰も応援してくれないし、常に孤高の存在にならざるを得ない。しかしその孤独を受け止められたものだけが、次の時代を生きることが出来るのです。今ではよくその意味が解ります。それまでの古典を人一倍勉強していなければ、異端に成りえません。人一倍やっているからこそ、自分なりの意見が持てるのです。もし過去を知らなかったら、全く違う、ただの別物でしかない。それもまた新たな刺激でもありますが、過去を乗り越えてこその歴史であって、過去と切り離されたものは歴史になりえない、と私は考えています。そしてまた異端であることは、時の権威や常識から身を置いて生きるということでもあります。そうでなければ古典の継承されるべき本質は見えないのでしょうね。

琵琶も師匠についてお免状もらうというシステムでなければいけないなんてことは全くありません。学ぶという事は形ではないので、形式だけのお免状をもらっても意味はありません。かつてジャズミュージシャンは皆レコードを擦り切れるまで聞いて、ジャズを学んだのです。現代だったら、奏法までしっかり見て取れるYoutube 見て多くを勉強する人もいて当然です。マニアではなく、一般のリスナーがすべてを判断することを忘れてはいけません。どんな時代であっても音楽は音楽が全てです。流派でもお免状でもありません。

偉い大先生による、どうにもならない程に酷い演奏を、皆さんも聞いた事がきっとあるでしょう。私も一度や二度ではないです。音楽より前に正統だのなんだの口にする者は既に音楽家ではないのです。ただの組織人でしかない。そういう輩があちこち出て来ているということは、もう末期状態ということなのでしょう。でもそういう時にこそ、状況をぶち破り時代を次の時代へと牽引して行く者が出てくるのも、歴史が証明しています。永田錦心、鶴田錦史しかりです。

私の演奏をコピーしたりするやつ出て来て欲しいですね。「風の宴」なんかで弾き比べ勝負したいものです。でも生ぬるいコピーでは誰も聴いてはくれませんよ!!。自分で考えて研究して独自のスタイルを打ち立てて欲しい。ウエスやジミヘン、ベンソン、ヴァンへイレン、メセニー、日本だったらチャー等々皆我流ですよ。ジャズやロックの分野に於いて、学校で勉強した人など聞いたことがない。日本人は、きちんとしていることを優先して、形が整ってるだけで満足してしまう。芸術においては最悪の習慣と言ってよいでしょう。お稽古事では音楽は創れないのです。皆自分一人でものすごい研究と勉強をしているのですよ。与えられた課題を頑張っているのではない。自分で探して、自分で研究して創り上げているのです。だから誰にも似ていない。つまり皆孤独に立ち向かっていたのです。

私が以前習ったT先生は、最初のお稽古で「先ずは敦盛をやるから、僕のCD聞いておいてね」と言って特にああしろこうしろとは教えてくれませんでした。すべては自分で考えてやってこいという訳です。勿論私も意地っ張りですので、コピーして来いと言われたからには、自分流の譜面書いてコピーして行きましたよ。T師匠にしたらやりにくい生徒だったでしょうね。
私の質を見抜いた上でのレッスンだったと思いますが、本当に良い師匠でした。素晴らしいレッスンを受けたと今でも思っています。

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心が真摯で素直でまともであったら、師匠につこうが、レコードコピーしようが、音楽の中からその精神を学び取る人間は必ずいます。逆にお免状や肩書きに意識が行って、看板挙げて自慢しているような心で、その精神を学び得ることが出来るでしょうか。私には到底出来るとは思えません。ジャズをやっていた人間からすると、邦楽人のこの音楽以外での自己顕示欲はどうにも、どうしても解せないのです。本当に音楽をやりたいという衝動を感じない。舞台で輝いていたい、主役を張りたいというのなら判りますが、肩書もらった所で誰も聞いてはくれないとは思はないのでしょうか。舞台で輝き、作品を創り、リスナーに支持されてこそ音楽家ではないでしょうか。音楽家は舞台で表現してナンボです。

学び方は時代と共にどんどん変われば良いのです。やり方がどうであれ、上っ面ではない質の良い音楽が出来ればそれで良いのです。こういう系統で勉強しなければいけない、この流派のお免状がなければ認められない、というような硬直した感性は既に音楽家・芸術家の精神ではないし、もうそんなものは音楽ではないのは明らかじゃないですか。モンドセレクションを取った酒を飲みたいですか?。私は自分で旨いと感じる酒を飲みたいです。
そんな心と姿勢は、そのまま音楽に反映されてしまいます。世のリスナーは皆判っていると思いますよ。人の心は全て目つき顔付、姿勢、言動に現れて来るものです。邦楽人はその感性や概念を変えられるでしょうか????正に邦楽の今後はそこにかかっていますね。

世阿弥世阿弥
音楽の本質は「祈りと叫び」だと私は思っています。そこには正統も亜流も無い。肩書きを持たないと自分を保っていられないような心には、孤独という、音楽・芸術に携わる人の持つべき基本的な姿勢が無いのです。

音楽家はどんな時代に有っても、我が身にまとわりつく余計な衣を払い、本質をめざし、孤高の姿勢を保っているべきではないでしょうか。「芸術家は位階勲等から遠ざかっているべきだ」と言った某大家が居ましたが、私も常にそう思っています。そうして人生を貫いた音楽家・芸術家に憧れ、そういう人達を目標として目指してきました。余計なものを背負っていたら観の目も、見の目も曇ってしまう。武道家ならとっくに死んでます。

孤独の淵に立ちながら音楽を創造して行くような琵琶人が出て来て欲しいですね。

Reflections

寒い日が続きますね。もう1月も終わりですが、1月は年の始めというだけでなく、私の誕生月でもあるので、何かとバタバタと動き回る季節です。そして年が明けてから新年の仕事を始めて、この月末で改めて今年一年の活動の方向や計画を確認するのが、毎年この1月末なんです。2月の始めには毎年恒例のReflections 演奏会があり、それに向けて準備にも追われるのですが、この演奏会を軸に新たな一年が始まるという感じですね。
2月5日、オペラシティの中にある音楽サロン近江楽堂にて、19時の開演です。是非是非よろしくお願いいたします。

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昨年の演奏会では、オリジナルの樂琵琶独奏曲をいくつか演奏しまして、樂琵琶奏者としての面をアピールさせてもらいました。そのせいか昨年から樂琵琶のお仕事がかなり増えて来て、樂琵琶が「自分の楽器」となってきた一年でした。2011年頃より、樂琵琶がぐっと自分に近づいてくるのを感じていましたが、自分の手足同様になっったと感じたのは昨年2015年でした。けっしてサブではなく、薩摩琵琶同様、メイン楽器として自分の手の内に入ったのです。琵琶界の二天一流という所でしょうか??。
今年はこのコンビの原点であるシルクロードへの想いを描いた作品を並べてみます。枠に囚われない自由な精神こそ私の求める世界ですので、正に自分への原点回帰となる演奏会になりそうです。

IMGP0011笛の大浦典子さんとは、コンビを組んでもう10年以上になりますが、これだけの年月を経たからこそ自分達の行くべき道筋が見え、感じられます。そして10年を経て樂琵琶と笛のコンビネーションが我が身の血肉になったことを実感するのです。

グループ名のReflectionsとは、水や鏡に映った映像や影、反響、反映、乾燥、熟考、内省、黙想、回想等々の意味があります。樂琵琶はまるで鏡の
ように、私の中の深い記憶を照らし出して、薩摩琵琶では感じられない、遠いルーツへの想い、辿ってきた道、歴史を感じさせてくれます。そして樂琵琶が媒体となって、権威の塊のようで苦手だった雅楽と私とが繋がって行きました。勿論独自の視線を注いでいるので、雅楽の世界に身を置いている訳でも、雅楽そのものをやっている訳ではありませんが、雅楽に対するネガティブな感情が溶け、視野が開けたことで私の音楽が大きく変わりました。また樂琵琶は私が小さいころから興味を持って眺めていたシルクロードにも直接つながり、私の中の音楽世界が飛躍的に豊かになりました。

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波騒は世の常と申しますが、世の中を生きていれば、物事すんなりとはなかなか行きませんね。難しかったり、苦手だったりするものや人は、どこか自分自身の嫌な部分を相手の姿を通して、見てしまうから苦手に感じるのかもしれません。ネガティブな反映を感じるのでしょうね。これも一つのReflectionsでしょう。しかしそんな所も何かのきっかけで、媒介となってくれるものがあるとポジティブな繋がりが出来て来ます。私にとって樂琵琶はその最たるものであり、苦手だった世界への媒体となってくれました。そしてその媒介のお蔭で、私の音楽は、流派や固定化された伝統という枠を超えて、自由に広がって行ったのです。

我々二人の紡ぎだすReflectionsの音楽がリスナーにとって、新たな音楽へと導いて行く媒体となって行けたら嬉しいです。

演奏会でお待ち申し上げます。

雪景色の記憶2016

東京でも先週雪が降り、今週は関西や九州、日本海側では大雪になっていますね。年明けがまるで春のような暖かさでしたから、何だか今年も妙な天気になりそうな気がします。

ちょっとご無沙汰しましたが、先週は、久しぶりに手妻の藤山新太郎師匠とセルリアン能楽堂で演奏してきました。能楽堂はキリリと背筋が伸びる気分になって良いですね。週末はいつものヴィオロンで琵琶樂人倶楽部番外編「琵琶で聞く冬の怪談」をやってきました。

  デュオ2青山2

先ずは、「雪おんな」「幽霊滝の伝説」を伊藤哲哉さんにやってもらいました。やっぱり年季入っているな~~。伊藤さんとは方丈記の公演でももうシリーズ化するような勢いですが、怪談話もまた是非やりたいですね。この日は尼理愛子さん率いる「童心」(尺八:吉岡龍之介 Per:金沢白文)そして琵琶樂人倶楽部の「次代を担う奏者達」シリーズに出てもらっている青山藍子さんも参加してくれました。薩摩琵琶が3つ並ぶとなかなか壮観です。

12571186_10153996321211320_338164060_n日曜日には近江楽堂で演奏会。朝10時開演という特殊な時間にも拘らず、お客様は結構沢山来てくれて、すっきりと良い会になりました。

毎年1月は忙しくさせてもらっているのですが、今年も良いペースで始まりました。2月は恒例のReflections演奏会を近江楽堂でやるのですが、この年明けのペースがだんだん定着してきました。更に更に充実した内容にして行きたいですね。

雪の日は色々なことが甦り、多くのものごとに想いが渡って行きます。雪は人の気持ちを落ち着かせる力があるのでしょうか。

雪景色1

初めて東京に出て来た日、4畳半のアパートに引っ越して、夜床に就いたら、余りに寒くて起きてしまったのですが、窓を開けると雪が降っていました。静岡育ちで雪が降るという現象自体をほとんど体験していない身としては、雪が降る様を窓越しに見て「東京に来たんだ」という実感を持ったことを想い出します。
そのせいか、私にとって雪というのは、親や家族に守られていた人生からの旅立ちであり、「自分の」人生の始まりの象徴です。自然の情景への想いは人それぞれにあるのでしょうね。

ジェシヴァンルーラー先週の雪の日は予定が次々にキャンセルになり、今年もゆったりと家の中で過ごしました。琵琶の手入れをし、ジェシ・ヴァン・ルーラーのライブ盤を聞きながら、演奏会のプログラムを考え、これからの活動のこと等々のんびりと思いを巡らしていました。

自分がやらずにはいられない音楽、どうしてもそこに行ってしまう音楽、それを素直にやろう、といつも思います。余計なものはどんどんと削ぎ落とし、音楽そのものにばく進したいですね。それは自分に素直になるということでしょうか。人間、生きて行くと多くのものに振り回され、意地も出てくれば、プライドも持つものです。なかなか純粋に素直に生きることは難しいものですが、こと音楽に関してだけは、世俗の垢は排したいですね。

少しづつですが、私は私の音楽に近づいて行く気がしています。今月は私の誕生月。少しは成長しなくては!!

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