東京では桜の満開宣言が出ましたね。残念な事に週末は良い天気ではないようですが、私は一足先に地元の善福寺緑地で花見を満喫してきました。
いつも春は何故か仕事が少ないので、これまでやってきた曲の見直しと作曲の時間に当てています。今回は先日3.11のイベントの時に弾いた「西風(ならい)」という曲がどうにも未消化でしたので、ここ数日で細部をブラッシュアップしていました。その他、薩摩琵琶と他の楽器とのデュオの曲もなんとなく構想しているのですが、これはまだ具体化しませんね。薩摩琵琶の器楽曲は今年の課題になりそうです。
昨年は日経に取り上げられたせいか、ありがたいことに色々な所から声をかけて頂いて、本当に忙しい日々を送っていたのですが、やっとこの頃ゆったりとした時間を頂いています。私は常に作曲をし、新しいものを作り続けていないとどうも気が収まらない性質なので、私にとってはこういう時間がとても必要なのです。世間から見るとお気楽に見えるのかと思いますが、これも仕事の内ということで・・・。世間様とは違う所でぶらぶらしていると色んな発想が浮かんでくるんですよ。
琵琶を弾いていない時はこんな顔してます
今年はちょっと何時もの春と違って、邦楽以外の所に意識が行っているんです。この所意識的に聴かなかった印象派の音楽など聴いて初心を想い出し、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンなども本当に久しぶりに聴いて朝からはまりまくっています。やっぱり音楽は「祈りと叫び」ですね。最後はここに帰ってくる。
そして更に、今年はどういう訳か普段は滅多に聞かない日本のポップスも色々聞いています。よく聞くとなかなか良いものもありますね。以前から尾崎の「I Love You」や中村中の「友達の詩」なんかは、柄にもなく私の中の定番ソングなんですが、ショウビジネスには乗っていない、例えば有山じゅんじの「君に逢いたい」なんか最近聞いてぐっときました。
やっぱり歌である以上、歌詞がしっかり聞こえて来て、そこに表現されている世界がリスナーの心に届いてこそ歌ですよ!。素晴らしい歌は、聞いていれば歌詞がそのまま直接自分に語りかけて、その世界に身も心も誘われてしまうものです。そうした歌を聴いていると、私が歌う琵琶唄などはどれだけ届いているんだろうと、考えてしまいますね。やっぱり私は歌う人ではないのでしょう。器楽に特化して行く方が私には合っているのかもしれません。
伝統邦楽の歌はこれから歌い継がれて行くのでしょうか。琵琶だけでなく、日本の伝統音楽は現代に生きる我々の心にどれだけ届いているだろう??何だか私にはすごく遠い所で歌っているような気がするのです。
世は太古の昔よりパンタレイです。無情な程にすべてのものが変化し続け、音楽も「良い音」というものもどんどん新しい時代に沿ったものが生まれて来ると思うのですが、人間は自分がいったん勉強して獲得したものはなかなか手放すことが出来ない。なまじっか勉強した方は、そう簡単に時代の変化には対応できないのでしょう。「象牙の撥でないと手を痛める」「若い雌の猫の皮でないと良い音がしない」等ということを言う先生方が未だに居ますが、絶滅に瀕している象を殺さなければ鳴らすことが出来ない音色は、果たしてこの現代に何を語るのでしょう。先生方の求める音は、歌は本当に現代の人が求めている音なのでしょうか・・・?。
すぐれた音楽家や文学者など芸術家は何時も時代の先取りをするように、人々に次の時代の扉を開けて見せてくれました。宮城道雄も永田錦心もそうでした。部屋のPCと世界が直接つながっているような現代に於いて、次の時代の邦楽の姿を現し聴かせてくれる音楽家は出て来るでしょうか??。私は伝統邦楽の外側の人が邦楽そのものを変えて行くのではないかと思っています。
花は動き回る事は出来ないけれど、動けないからこそ環境にフレキシブルに対応して必死に生きて、毎年美しい花を我々に魅せてくれます。人間は歩き回り、今や世界中に飛び出して行けるのに、自分という折の中に囚われてなかなか変化する事が出来ない。地球の上で覇者だと思い込んでいる人間は、実は弱者でしかないのかもしれませんね。
とりとめもない春の午後の独り言
先日、秘曲で語る平成絵巻「方丈記」を地元のルーテルむさしの教会にてやってきました。
伊藤哲哉さんの語り、水野俊介さんの5弦ウッドベース、ヒグマ春夫さんの映像、そして私の樂琵琶というチームの公演も昨年の六本木ストライプハウススペースに続き2回目となりましたが、今年に入って次の公演先である、相模原南市民ホールで何度も本番さながらのリハーサルをやってきたせいか、初回よりぐっと充実した公演となりました。
公演日の26日はイースターの前日であり、また大柴牧師のこの教会での最後のイースターイベントでもありました。牧師は4月から大阪に転任ということですが、是非大阪にも一度伺って、あの染み入るいたいと思っています。
今回は伊藤哲哉さんの語りがいつにない迫力で、聞いているお客様をぐっとつかんでいる様子がよく伝わっていました。さすがです。礼拝堂もお客様で一杯になり、本当にありがたかったのです。会場には琵琶奏者のHさん、語り部のBさん、SaxのSoon Kimさん、和久内先生などおなじみの方々から、初めて聞く人迄色々な方が来てくれたのが嬉しかったですね。
こうして舞台となって行くと、作品の魅力が自分でよく見えて来て、色んなアプローチが浮かんできます。ここまでやらないと見えないものが確かにありますね。やはり私は舞台そのものを作って行くことに大きな喜びを感じるようで、先日の日舞の花柳面先生、萩谷京子先生との舞台も、演奏だけ、踊りだけというのでなく、全体の構成から流れまで舞台全体が満足いったからこその充実感だったと思います。
伊藤さんとは「良寛」でも一緒なのですが、こうした舞台をシリーズでやって行けるのは舞台人として、音楽家として幸せですね。
誰しもそうだと思いますが、私は自分の音楽に充実は感じているものの、まだ未熟な面も痛切に感じています。私はコンプレックスもそれなりに多い人間なので、色々な矛盾する部分を自分の中に抱えながら舞台に立っている訳です。しかしこうして多くの機会に恵まれることで自分の本来の姿が見えてきます。出来ることとできないことが見え、伝統やら形式にマスキングされて、上っ面だけはこなして中身が出来ていない部分も見えてきます。伝統芸能は形がある分、ここが見えないといつまで経ってもその先に行きません。
大柴牧師が説教の中でアフリカの諺を紹介していました。「速く行きたいのなら独りで歩きなさい、遠くまで行きたいのなら誰かと一緒に歩きなさい」。素晴らしい言葉だと思います。こうして色々な機会を頂いて、常に視野を広げることが出来るのは実に幸せなことと同時に、色々なジャンルの素晴らしい仲間が周りに居ることが私にとっても一番の幸せかもしれません。いつも仲間が居るからこそ、遠くまで歩いて行けるのです。
とにかく閉じこもっているのは私には似合いません。様々な分野の人とどんどん繋がって、あらゆる場面に出没するのが私らしい。だからこれからもゆっくりと遠くへ歩いて行きたいと思うのです。
外は桜が咲き始めましたね。少し天候が不順ですが、我が家の近くでも5分咲き位になってきました。春は桜だけでなくあらゆる花が競うように咲き出すのが何といっても素晴らしいです。桃、コブシ、モクレン、カイドウ、ハナスオウ、・・ありとあらゆる花が命の饗宴を見せてくれます。桜一つとっても、早咲きから遅咲き、枝振り、色等々、多くの種類の桜がその命を外に向けて輝かせている様を見ますと、琵琶も色々なスタイルが百花繚乱のように世に響いてくるといいな、と思います。それにはまず私自身の琵琶楽が柔軟で、また豊かでなくてはその魅力を享受できません。固定概念を捨てて、琵琶が本来の響きを持って鳴り出し、ありのままの自分自身から、素直にケレン無く音楽を紡ぎ出して行きたいものです。
大柴牧師が説教の中でアフリカの諺を紹介していました。「速く行きたいのなら独りで歩きなさい、遠くまで行きたいのなら誰かと一緒に歩きなさい」
先月、今月と弦楽の素晴らしい演奏会に行ってきました。
先ずはこのブログではおなじみの中島ゆみ子さんの「中島ゆみ子と仲間達Vol.11」。先月、東京文化会館小ホールで行われた公演に行ってきました。
毎年このシリーズは聞きに行っているのですが、毎回色々な趣向を凝らしていて聞きごたえがあります。今回は弦楽4重奏に加え、バスの薮内俊弥さんと郡司博先生率いる合唱まで加わって、いつになくヴァリエーションのあるプログラムでした。ヘンデル、バッハ、モーツァルトという、まあ定番の組み合わせなのに、この内容なら充分に楽しめますね。
中でもチェロの相棒エリック・ウイリアムさんとデュオでやった「ヘンデル=ハルヴォルセン:パッサカリア」が素晴らしかったですね。二人共にそのレベルは申し分ないのは判っていますが、このデュオは聞いていて、技術を超えた所にある何かが語りかけてくるような勢いがありました。
そしてバスの薮内さんの声が良いんですよ。とても深く響く声をしているのです。どれも良かったのですが、アンコールで歌った「峠の我が家」は日本語だけに、歌詞が直接飛び込んで来て、会場のお客様皆さん大感激の様子でした。日本語の発音も全く無理が無く、丁寧にしっとりと歌う姿勢に感激しました。母国語を大事にすることは歌の基本。最近はこういう素晴らしい中身を持った声楽家が出て来て、嬉しい限りです。
以前共演した時の様子 於:北とぴあつつじホール
中島さんは、いつお会いしても素直な感性で、音楽に、人に接するのです。それはそのまま音色に出ていますね。以前何度か共演した時も、何のけれんも無く、素直に音楽に相対している姿勢が印象に残っています。この素直さを今邦楽は忘れているように思えてなりません。音楽にとって何の意味もないような「肩書」を背負ったまま音楽に接している人のなんと多いことか。素直な心で且つ大きな視野を持つことは何事も大切ですね。
そして一昨日は、ヴァイオリニストの濱田協子さんが参加している、アンサンブル・ステラの公演を聴いて来ました。場所はルーテル市ヶ谷センター。ここでは私も演奏した事があるのですが、響きがちょうどいい感じで、今回も十二分に弦楽の魅力を堪能しました。プログラムはまず最初にスタンダードなハイドンの「日の出」。次はグリエールというあまり取り上げられることのない作曲家の作品でした。グリエール(1875年~1956年)は、いわゆる現代音楽の世代ですが、その作風は民族音楽の影響や、リムスキー=コルサコフの影響なども感じられ、聞いていてとても楽し
くなるような作品でした。普段聞くことの無いこういう作品に触れることが出来るというのも良いですね。知られていない素晴らしい音楽をどんどん聴いてみたい私にとって
は、嬉しい演奏会でした。
このアンサンブルステラは、結成20年、公演数ももう今回で27回目だそうです。皆さんなかなかのレベルで、気持ち良く絃の響きに浸れました。濱田さんはセカンドでしたが、トップの方が個性的な音色を持っている分、濱田さんの音色はとてもプレーンな感じで、そのバランスが良い感じでした。濱田さんのお人柄そのものという感じでした。
アンコールで演奏したボロディンの「ノクターン」もしっとりと染み渡るように響いてきて、弦楽の素晴らしさを体感しました。
こうしてレベルの高い演奏を生で聴くのは、何しろ素晴らしいことです。まあ快楽と言っても良いですね。日本の音楽ももっともっとレベルを上げて、日本人だけでなく、世界中の人に聴いてもらいたいのです。
さて今週末は「方丈記」の公演。上記写真のルーテル武蔵野教会にて、3月26日14時開演です。素晴らしい公演になるよう頑張ります!!
昨日、第99回琵琶樂人倶楽部「筑前琵琶特集」をやってきました。
今回のゲストはこちらの絵になるお二人。左が鶴山旭翔さん、右が平野多美恵さん。
鶴山さんが五弦で「安宅」、平野さんが四弦で「湖水渡」を演奏をしてくれました。
これまで琵琶樂人倶楽部では、筑前の演奏家をゲストに呼ぶことはあっても、筑前琵琶の特集はやっておらず、筑前琵琶に関するレクチャーも全くやっておりませんでした。それは筑前琵琶を弾く方にこれまであまり出逢わなかったということが大きいですが、私自身が筑前琵琶について勉強が足りず、私が唯一弾けない琵琶属の楽器が筑前琵琶ということもあります。また筑前は家元制度をしいているので、外側から声をかけることも出来ず、本やCDもあまりなく、どうにもアプローチが出来なかったのです。
色々な琵琶楽を紹介するのが琵琶樂人倶楽部の役割であり、しっかりとした
歴史観を提示するのが、私の使命だと思いますので、これまで筑前琵琶を取り上げなかったということについては、私自身ずっと気にかかっていました。100回目を目前として、やはり琵琶楽の重要な華である筑前琵琶を取り上げない訳にはいかないということで、今回お二人にお願いし、私も少しばかりその歴史や変遷など勉強させて頂きました。
打ち上げも当然のごとく盛り上がり、我らが愛子姐さん、「次代を担う奏者達」シリーズに出演の青山藍子さん、筑前の演奏家でもある三上かおりさんも駆けつけてくれてとても華やかな会となりました。


琵琶樂人倶楽部は、何でもかんでも「古典だ」と言い張ってしまう琵琶の世界に対して、しっかりとした認識を持って世界に出て行こうという趣旨で立ち上げました。
現在、琵琶の歴史において、個人の思い入れのような歴史観や伝説を流布するものがあまりにも多すぎる。史実に基づいた正しい歴史観を提示する事が出来ないような状態では、世界の現場に行ったら琵琶楽そのものが一つのジャンルとして通用しません。特に大学などのアカデミックな場所では、70,80年代に成立した流派が古典と言っても通じないし、かえって音楽史への認識の甘さを指摘され、相手にもされないのです。
びっくりする方が多いのですが琵琶楽に流派というものが初めて出来たのが明治後半。まだ薩摩・筑前の琵琶は100年ほどしか歴史がないのです。100年前というと、世界の音楽史と照らし合わせたら、シェーンベルクやバルトーク等、現代音楽の始まりの時期に当たります。琵琶楽で古典といえるものは、樂琵琶、平家琵琶、盲僧琵琶そして江戸時代中期から後期にあったといわれる古流の薩摩琵琶であり、今一般的に琵琶として認識されている薩摩・筑前の琵琶楽は近代の成立なのです。こういうところをあやふやにしてまともに伝えず、琵琶=古典と言い張る浅はかさは、全くもって情けないと思います。また古典=権威とばかりに吹聴する琵琶界の在り方にも、私はとても大きな疑問と違和感を持っていました。自信がないから誇大広告をする典型だと思います。邦楽では音楽学の分野が、とにかく一番遅れているのですが、その中でも琵琶楽は全く何もされていないと言っていいでしょう。
仲間内だけで通用する、小さな村意識の視野しか持っていないようでは、世界に出て行けません。次代へ琵琶音楽を伝えて行くためにも、自分のやっている流派の曲しかろくに知らない、というのではもう日本の中でも通用しません。個人の勝手による偏狭な思い入れを無くし、比較文化論、音楽史等もっとはっきりと音楽学的な部分を整理・研究して、論文も旺盛に発表し、琵琶楽を世界に向けて紹介して行くべきだと思っています。
これからも琵琶楽に対し、伝説や個人の思い入れではない、正しい歴史が認識されてゆくように、微力ながら琵琶樂人倶楽部を通してレクチャーし、多様な琵琶楽の魅力を紹介して行こうと思っています。とにもかくにも全体が意識のレベルアップをしない限り、琵琶楽がどんどんと衰退して行くのは明らか。そんな意味でもこの琵琶樂人倶楽部をこれからもずっと続けて行こうと思っています。
さて、来月は栄えある100回目。そして6月にはリブロホールにて開催100回記念演奏会があります。改めて御案内をいたします。
これからもまだまだやるべきことは沢山あります。次代に対し為すべきことも沢山あると思います。全て出来る訳ではありませんが、私は私の仕事を淡々と全うして行くのみです。
これからも是非是非ご贔屓に。
先日、第7回「3.11響き合う詩と音楽の夕べ」をルーテルむさしの教会にてやってきました。
哲学者の和久内明先生主催によるこの会には毎年参加させてもらっているのですが、今年も皆の想いが集った夜となりました。

今回もクリスタルデュオブレイズのお二人が駆けつけて
くれて、共演させて頂きました。彼女たちの音はいつ聞いてもけれんの無いピュアな響きで、私のように日々色々な雑念にさいなまれる心には、その生の響きに接するだけで浄化作用が著しく、今回もさわやかに満たされました。また是非共演してみたいです。
今年の演奏者は、尺八の吉岡龍之介君、筝の吉岡景子さん、折田真樹先生率いるオーソドックス合唱団、声楽の富塚研二さん、劇団「まあ二人三脚」の秋元文人さん小原正人さん。私は独奏を一曲と、和久内先生の朗誦とのデュオ、その他「まあ二人三脚」が芝居仕立ての寸劇を交え朗読した福島在住の農民詩人 前田新さんの詩にクリスタルのお二人と共に音を付けさせていただきました。
この教会の大柴譲治牧師の話は、いつ聞いても日々穢れた身に染み渡るように入って来るので、イベントがあるとよく行っているのですが、今回も色々な素晴らしい言葉を頂きました。ルーテル教会は「歌う教会」と言われているように、歌や言葉というものをとても大事にしていて、尚且つ私のような神も仏も解らないような者でも、いつも受け入れるのです。大柴牧師は対外的にも宗派宗教を超えて活動をされていて大変人望も厚い方。私はクリスタルボウルの響きと共に、その言葉に大きな癒しを感じるのです。行く度に色んなことを教えてもらっています。
「understand」という言葉は理解するということだけでなく、字の通り下に立つということ。上から目線ではなく、共に居るということです、という大柴牧師の言葉が印象的でした。支援にしても普段の生活でも、何か「してあげよう」ではなく、共に在るという心を持っているということが大切なのだと改めて感じました。
また最近メディアに流れたローマ法王がおっしゃった「壁を作るべきではない、我々は橋を架けるべきだ」という言葉を声楽の折田真樹先生がこの会の最後に引用して話をされていましたが、その言葉もとても印象に残りました。
私はこのブログで、肩書きをひけらかす邦楽人の姿に対し厳しく書いていますが、流派や位に憑りつかれているような状態では、とても橋を架け、手を取り合うことは出来ません。自ら壁を作り、上下関係を作り出して差別区別しようとする心は、音楽芸術からはもっとも遠く離れたものであり、またこれからの時代に於いてもけっして良い心だとは思えないのです。
世界には色々な暮らしがあり感性があります。相容れないものも当然沢山あります。しかし、これからは世界とどんどん交流して行く時代、せざるを得ない時代です。多様な世界を受け入れて生きて行くことが、これからの感性の基本ではないかと思います。そのような時代にあって、自分と同じ思考やシステムの中だけで寄り集まり、それ以外を受け入れようとしないような狭小な感性と姿勢は、もう滅んで行くということを自ら宣言しているようなもの。
自分と違うと思ったら橋を架け、自分と違うものに対してこそ橋を架け、手を差出し「愛を語り届ける」のが我々音楽家の仕事ではないでしょうか。
多くの想いが繋がった夜となりました。