昨日は、琵琶樂人倶楽部100回目「琵琶と文学シリーズ~建礼門院右京太夫と平資盛の恋」をやってきました。まあいつものように地味な会ではありました
が、久しぶりにお越し頂いた方や初めての方も居て、気軽な感じでやってきました。毎回静岡から新幹線で駆けつけてくれるTさんからは、今回はどうしても参加出来ないということで、電報とお電話を下さいました。ありがたい限りです。
Tさんよりの電報、海老と鯛の絵のコースターが10枚付いてました。
地味な会ではあるのですが、とにもかくにも皆様のお蔭です。これからはレクチャー色を増やしてやって行こうと思います。今後は前回のブログでも書きました「日本橋富沢町樂琵会」と並行して、レクチャーの琵琶樂人倶楽部、演奏の樂琵会という二枚看板で頑張ります。

いつもお越しの常連Mさんが取ってくれた演奏中の写真
琵琶でプロとして活動を始めて約20年。私はちょっと普通の琵琶奏者と違い、どんな仕事でもほぼ作曲込みで演奏の仕事をしてきましたので、本当に色んな仕事をさせていただきました。
薩摩琵琶はまだ歴史が浅く、流派の曲はあっても、いわゆる何百年も経った古典というものが無いのです。ほとんどの曲が古典文学を題材としてはいますが、皆大正から昭和に出来た曲ばかりなので、いわゆる新曲の類です。それらを守るだけではどうにもならない。どんどん作曲して行かないと時代に取り残されてしまいます。軍国時代の曲や忠義の心云々というような価値観の内容を歌っても誰も聴いてくれませんので、どんどん作曲して行かなくては演奏の場が無くなってしまいます。仕事にもなりません。また器楽曲は皆無なので、その分野はこれから私が作って行かなくてはいけない使命でもあります。
私のレパートリーは、スタンダードな弾き語りスタイルのものでも、作詞作曲共にオリジナル。その他の邦楽器や舞踊、演劇、洋楽器との共演などでも既成の曲がある訳ではないので作るしかないのです。という訳で作曲家の作品以外は全て自分が作曲した作品を演奏しているのです。
そういう事情で、塩高に頼めばどんなものにでも対応出来るという訳で、色々とこれまでご贔屓にあやかったと思っています。特に舞踊関係の舞台は活動の最初より毎年関わっていまして、舞踊のテーマや舞台の進行に合わせて作曲・編曲をしてきましたので、良い勉強をさせて頂きました。
こうして活動の節目を迎え、振り返ってみると作曲込みの仕事は自分から売り込んだわけではなく、最初からなぜかそういう仕事が舞い込んで来て、このスタイルが自然と出来上がったのです。まあ琵琶で活動するにあたって、与えられた運命のようなものですね。
クラシックやジャズのように業界全体のキャパシティーが大きければ、古典から現代まで曲があり、愛好者も多い。だから演奏がずば抜けて上手いというだけで充分に生活の糧になるし、仕事も山のようにあり、世界を市場として出て行けます。しかし琵琶のような超の付くマイノリティーの楽器・ジャンルでは、マーケット自体が全く無いので、自分でマーケティングからプロデュース、作編曲、広報や営業活動まで全部やらないと、とても生活の糧にはなりません。簡単に言うと仕事が発生しないのです。
私も最初はそんなことを考えてもみなかったし、上手に成ればよい、とただそれだけだったのですが、どういう訳か、最初から色んなものを求められ、何かの「はからい」なのか、生活の糧にする術を身に付けさせられたのです。
特に日舞の花柳面先生と、数多くの仕事をさせて頂きましたが、先生から舞台の話が来た時点で、すでに作曲をすることが前提になっていて、舞台全体を作って行く形で関わるようにやってきました。だから1曲1曲でなく、舞台全体をプロデュースして行くという感覚は面先生からの影響が大きいですね。今になってみると実にありがたい。正に現代に於いて琵琶人として生きるように導かれ、生かされて来たとしか思えないのです。
節目にはこうして我が道を振り返るのも良いですね。やはりいつもうそぶいているように「生かされている」ということに尽きます。我が道を今生でこうして歩んで行けることに「ありがとうございます」というしか言葉がありません。
さて21日には第2回目の「日本橋富沢町樂琵会」があります。筑前琵琶の平野多美恵さんをゲストに「敦盛対決」をやりますので、是非是非お越しください。富沢町の小堺化学KCIビルの地下1階MPホールスペースにて、19時00分開演です。
そして25日にはヒグマ春夫さんの映像作品に、久しぶりに大型塩高スペシャルで挑みます。こちらは19時30分開演。会場となるキッドアイラックアートホールは、今年で閉館だそうですので、この機会をお見逃しなく!。久しぶりにバリバリの即興で暴れます。
時々振り返ると色々見えてきますね。こういう余裕もないと、前に進めません。まだまだやりたい事が沢山あるのです。

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今年はちょっと天気に恵まれませんでしたが、なんだかんだ言ってお花見をたっぷり楽しみました。こうして花を愛で、仲間と語らい、呑み、一緒に過ごすことが出来るというのは本当に幸せなことですね。
そして今月はお祝いが一つ。お蔭様で毎月開催している琵琶樂人倶楽部が、この4月13日の会で開催第100回目となるのです。こちらもまことに幸せなこと。小さな会とはいえ、何しろ100回。よくぞここまでやりました。勿論これからも続いて行きますが、先ずは節目を迎えられたことが嬉しい限りです。

作:鈴田郷 琵琶樂人倶楽部の看板絵
2007年の秋に始めた琵琶樂人倶楽部は、琵琶楽の多様で豊かな音楽を紹介すると共に、歴史の中でどのような変遷を辿って来たかを知ってもらうべく立ち上げた会です。2005年辺りから「こんな会をやってみたい」と思っていて、琵琶制作の石田克佳さんなんかにも相談していたのですが、2007年の春頃になって古澤月心さん(当時は錦城さん)から声がかかり、古澤さんが薩摩四弦と平家琵琶、私が薩摩五弦と樂琵琶を担当し、それぞれの琵琶の歴史のレクチャーをするということで話が決まりました。
2007年9月号邦楽ジャーナル
すぐさま名曲喫茶ヴィオロンのマスターに掛け合って、先ずは2007年の11月から2008年の12月までの毎月の第2(または第3)水曜日を抑え、且つ毎月のテーマも1年分一気に全てを決めて発足したのです。我ながら素早い仕事でした。邦楽ジャーナルにも発足の時には記事に取り上げて頂きました。
私がまだ協会や流派と関わっていた頃、15,6年前の琵琶界は全てに於いて曖昧で、薦田治子先生のような研究者もまだ表立って活動しておらず、とにかく趣味人の集まりのような有様でした。その中で最先端を行くT流の先輩に、「なぜ数十年しかたっていない流派の曲を古典というのですか」と尋ねても、うやむやにしか答えない。更に20代30代の若手が「古典をやっています」と言い出し、先生方もそういうことに対し何も言わない。そんな状態でした。私自身はすでに各大学などで特別講座やレクチャーコンサートをやっていましたので、そんなアカデミックな場に於いては、70年代から80年代に創流した流派の曲が「古典」などと言っても、音楽史としても音楽学的にも、とても通用しないし、シェーンベルク、バルトークと同じ時代の音楽が、国家として世界一長い歴史を誇る日本の古典音楽になってしまったら、長唄、能、平曲、雅楽の位置づけすらあやふやになってしまう。もし世界の大学でレクチャーしたら、いい笑いものになってしまいます。
以前書いていただいた私の演奏姿
これでは本当に琵琶楽が崩壊すると思っていたので、それじゃあ自分で啓蒙活動を始めるしかないか、ということで古澤さんと二人で毎月やってきたのです。私が琵琶楽の古典・近代・現代という区分を色々な所で発言したせいかどうか判りませんが、最近やっと、何でもかんでも古典などという安易な発言も少なくなってきましたが、これからも積極的に発言して、琵琶楽の歴史と豊饒な文化をもっと多くの人に判ってもらうように活動して行こうと思っています。
長唄や能などは、その辺が辺りがしっかりしていて、研究者も多く、音楽そのものは勿論、古典としての学問的環境が整っているのです。どれが新作でどれが古典なのか、明確な線引きも出来ている。こうしたことは琵琶楽に於いても、今後とても大事な部分になってゆくと思います。
現代は、私のような無名の者のCDですらネット配信で海外に販売されていて、外国に於いても気軽に聴くことが出来る時代です。これから海外の人で琵琶楽に興味を持つ人もどんどん出て来るでしょう。海外の大学でも琵琶楽を講義するような機会が増えて行くと思います。またそういう海外に発信する研究者もどんどん増やしていかなければなりません。ドメスティックな狭小な視野でしかものを見ないような感覚はこれから通用しない。今はまだあまりにも内向き過ぎる。邦楽の中だけでなく、邦楽以外のジャンルとの比較文化論や音楽史の分野を整備して、外に向かって琵琶楽の多様な素晴らしさを発信して行くことが、琵琶楽を次世代へと伝えて行くことに繋がると思います。
井之頭公園水面の桜
まあこんな想いを持って始めたのですが、琵琶樂人倶楽部をやりながら私も古澤さんも数多くの演奏会に恵まれるようになりまして、大変順調に回を重ねて行きました。本当に色々なテーマで琵琶の多様な魅力を紹介してきましたが、琵琶樂人倶楽部はレクチャーがほとんどで演奏会ではないので、100回を迎えるこの時を良いきっかけとして、気軽に演奏をたっぷり聞いてもらう会、「日本橋富沢町樂琵会」を今年から発足させました。これからはレクチャーの「琵琶樂人倶楽部」、演奏の「日本橋富沢町樂琵会」の二本立ててやって行こうと思います。
先ずは第100回目「琵琶と文学シリーズ~建礼門院右京の太夫 平資盛との恋」
4月13日午後7時30分開演です。是非是非お越しください。
そして開催100回を記念しまして、6月19日参宮橋のリブロホールにて、記念演奏会を開きます。
ホールと言いまして
も、60名くらいがキャパのこじんまりとした音楽サロンです。お気軽に、お越し頂ければありがたいです。此方は今までの軌跡を話ししながら演奏中心でやります。
永田錦心生涯の目標、「琵琶を芸術音楽にするのだ」。私もこの言葉を胸にこれからも精進して行こうと思います。今後とも宜しくお願い申し上げます。
花見には少々残念な天気が続いていますが、今年も満開の桜を観ることが出来ました。感謝ですね。
友人と花見をしていて、稽古について話が弾みました。考えてみれば、私は小学生の頃からお稽古三昧でした。小学生の頃はクラシックギターの竹内京子先生に、中学生の時はブラスバンド部でコルネット、高校生の時はジャズギターの沢田俊吾先生、潮先郁男先生に、20代には作曲の石井紘美先、フラメンコの日野道生先生に、そして琵琶という具合によくまあレッスンに通ったものです。その他ちょっと謡曲も習ってました。
習い方も色々あるのでしょうが、私は一貫して個人レッスンでした。一番最初に音楽を習ったのは小学生の時。そのクラシックギターの竹内先生は、今思えばまだうら若き20代の女性で、本当に優しい先生でした。クラシック以外にもフォークソングをアレンジしたものなど、楽しく面白い曲をよく教えてくれました。当時は「かぐや姫」などが人気だったので、日本ではフォークブームだったと思いますが、私はこの頃からとにかく曲を作るのが好きで、フォークソングもどきを作っては母や友達に聴かせてまわっていました。中学の部活でブラバンに入り、コルネットを吹いていた私は、ジャズに目覚め、高校生になってジャズギターの沢田駿吾先生、後に潮先郁男先生の所に通いだしました。ジャズはとにかく自分で作って行く自由な音楽なので、何でもアリなだけに、タッチや音色、リズム、和声等音楽のあらゆる表現力を身につけて行く勉強の場でもありましたね。沢田先生にはジャズの雰囲気や風情というものを、潮先先生には音楽の基礎的な技術や知識理論を徹底的に教わりました。とにかく寝ても覚めても音楽、音楽、音楽という幸せな時代でした。どの先生も「好きなようにやりなさい」という方で、考える道筋を示してくれ、何時も手綱を持っていてくれた。けっして「こうしろ、ああしろ」という先生は居ませんでしたね。楽器で「うたう」というということを知ったのもこの頃でした。
基本的に演奏家というのは舞台に立って表現する人なので、実はあまり教師や師匠には向かないのです。特にソリストタイプは教師に向かない。それは自分が簡単に出来ることが、何故生徒に出来ないのかが良く判らないからです。私が習った先生は皆さん伴奏タイプの先生たちだったというのが良かったのかもしれません。私が教室を開いていないのも、自分が伴奏者タイプからは程遠い、かなりソリストタイプの演奏家だと思うからです。

鶴田錦史は「私の真似してても駄目よ」とよく言っていたそうですが、言われた通り真似ていても、その中身が理解出来ていなければ、上っ面の物真似芸以上にしかならないのは当たり前で、その先に思考が向かない限り、演奏はいつまで経っても上手くはなりません。どうしてこの音が良い音なのか。そういう感性を育てない限り、まあお稽古の曲は多少流暢に弾けるという程度。人によって感性が違って当たり前なので、誰に習おうと自分の感性を磨かない限り、音楽は深まりません。
常にいろんな工夫をして、考えて、試して、作って、壊して・・・。色んなことを試行錯誤しながら、その先に視線を向けられるかどうかは、本人の持って生まれた器もありますが、私の経験からすると、師匠の指導の質に大きなウエイトがあると思います。師匠は生徒の音楽的視野をどれだけ広げてあげられるかが仕事です。他の音楽や芸術に触れさせてあげる機会を作り、現代という時代としっかり向き合うことを教え、自分独自の音楽性を育んで行くことの重要性を教えていくことがお稽古なんではないでしょうか。少なくとも私は今迄の師匠達からこういう事を教えられてきました。
優れた師匠と一緒に居ると、本当にいろんな話をしてくれものです。色んなジャンルの音楽のことは勿論、美術、歴史等々本当に見識が広い。皆さん生き字引みたいな方々だった。師匠は、生徒一人一人に合う道筋を示して、生徒が求める方向、又は良いだろうという方向に導いてあげるのがその役割と考えれば、そういう知識経験を持っている人が師匠という存在に成るとも言えますね。曲や技を教えるだけならカルチャーセンターで充分。
つまり創造性を育むのが稽古であり、生徒の感性を受け止めて伸ばしてやるのが師匠の役割。生徒の中にはプロ志向もアマチュア志向も居るだろうし、のんびりやる人もいれば、がつがつやる人もいる、そういう生徒それぞれに対応するのが師匠の役目です。稽古場はそういう各生徒に合った様々な学びが出来る場でなくては通う意味は無いですね。何か一つのやり方、一つの価値観を押し付けて、生徒をそれに染めさせるようでは、今や誰も通わないでしょう。そういう意味で私は本当に良い師匠達に恵まれたと思っています。
芸は手から手へということを言われています。私も大いに頷く次第でありますが、現代に於いては色んなやり方があって良いと思っています。色々な間口を作ってあげるのは我々の役目だと思うのです。最近では「先生はYoutube」なんて人も結構いるそうですが、私はその人に掴む力があればそれで結構だと思います。今はCDも本もネットも、あらゆる教材が溢れている。稽古するには幸せな時代です。下手な「師匠」に習いに行くよりも、きっかけになる技術やアイデアさえあれば、感の良い人はどんどん自分で作り上げてしまうものです。昔の人は皆レコードを擦り切れるほど聞いて勉強するのが当たり前でした。それが稽古だったし、なかなかレッスンに行くことも出来ず、自分で必死に勉強して第一線のプロとして活躍した先輩も沢山居ます。こうした先輩達のことを想うと、師匠に就いて稽古に通っていなければだめだなんて思考は、ここ何十年かの温室育ちの甘ったれた考え方だとしか思えませんね。
やるやつはSPレコー
ドの雑音の中から、確実に何かをつかみ取り受け継いで行きます。会った事がなくても、永田錦心が本当に素晴らしいと感じれば、その感性と志を受け継いで行くやつがいつの時代にも必ずいる。それはマイルスでもバッハでも同じことではないでしょうか。
武満も竹山も独学です。自分で腕を磨いていったのです。世界一の技術を持つウェスモンゴメリーやジョージベンソンが誰か
に習ったという話も聞いた事がありません。皆さん自分で勉強し、自分なりに核心をつかみ、何かを受け継いで世界の一流になったのです。
また自分で師が必要だと思えば、自分に見合う師匠を選んで行けば良いし、自分に合わないと思ったら別の師を探せばよいし、教える側も自由に師匠や流派を選択させればよい。面と向かってお稽古したところで、核心が解らない奴はいつまで経っても解らない。名前を継いでも、名取になっても、ろくに何も出来ない例は、今邦楽には山のようにあるじゃありませんか。
一昔前は教える側の高飛車な態度がとにかく酷かった。「師匠といえば親も同然」「弟子は未熟なのだからつべこべ言わず、考えず、ただ真似ろ」という父権的パワハラとも言えるようなものがまかり通り、弟子の思考を止めて、何が何でも言う通りにさせて、結局師匠に絶対服従を誓うような者だけしか残りませんでした。先ずは師匠のやり方を叩き込むというやり方しか認めないし、他の考え方や弾き方をすると「癖がついている」などと言って、自分のやり方の方が正しいとばかりに押し付ける。そうした一方的で理不尽な洗脳まがいの稽古が現代に通用する訳がありません。
先生と生徒では体格も骨格も筋肉も性差も年齢も違うのに同じ弾き方を強要する。同じフォームで良い音が出る訳がない。年齢が違えば「良い」という感性も当然違って当たり前なのに、自分の感性を押し付ける。指導に対し理論も無ければ、フォームにおける根拠もなく、肉体の構造も知らず、挙句の果てに生徒に腱鞘炎が続出する。まるで腱鞘炎になる方が一生懸命頑張っているとでもいうような雰囲気すら出来上がる。これでは上達や発展がある訳ないのです。
私は2時間のフルコンサートをやってもどこも痛くならないし、大して疲れない体ですが、私と他の人では体格も体力も筋肉も全く違うので、他人が私の真似をしたらかえって体を壊してしまいます。フォーム一つ、発声一つとってもどれもがスペシャルケースであって、ゼネラルケースというものはありえないのです。
生徒の個性を伸ばすという発想が師匠にあればよいですが、システムからフォーム、果ては音楽までも、全て枠の中に収めようとするようでは次代を担う人材は生まれ得ようがないですね。何処までも押し付けて、従わないものは追いだし、中には作曲を一切認めないという流派さえあるのです。その結果が今の邦楽界琵琶界の著しい衰退なのです。小さな視野、凝り固まった思考の中に閉じ込めたら、どんなものでも衰退するのは当たり前です。
現代は自分で情報をつかみ、自分で考え、自分で行動して行く時代。教える師匠が、個々にあった教え方、時代に合った教え方が出来ないということは・・・まあ愛が足りないと言うしかないですね。
もし音楽に伝統という言葉があるとすれば、それは革新とイコールでしょう。永田錦心、鶴田錦史、チャーリーパーカー、マイルスデイビス、ジミヘン、ビートルズ、ドビュッシー、ラベル、シェーンベルク・・・・etc.を見れば明らかです。次代へ受け継がせたいのなら、何でも言う通りになる優等生より、革命児をこそ育てなくては!。
琵琶をどうやって勉強しようが、ピックで弾こうが指でアルペジオしようがそんなことはどうでも良いのです。レコードやテープの無い時代と今では稽古のやり方自体が違うし、奏法などは時代と共にどんどん変わるものです。表面の形ではなく、もっと核心は何かという部分を教えるのが稽古ではありませんか。形骸化した形に惑わされて本質を見失っているのは、実は師匠達の方かもしれません。
長い歴史の中で受け継がれた型や感性にはどんな意味があるのか、それを次世代にどう伝えて行くのか、今琵琶や邦楽は、稽古というものをどう捉え、教えて行くか、教える側のその器と質が問われているのです。
東京では桜の満開宣言が出ましたね。残念な事に週末は良い天気ではないようですが、私は一足先に地元の善福寺緑地で花見を満喫してきました。
いつも春は何故か仕事が少ないので、これまでやってきた曲の見直しと作曲の時間に当てています。今回は先日3.11のイベントの時に弾いた「西風(ならい)」という曲がどうにも未消化でしたので、ここ数日で細部をブラッシュアップしていました。その他、薩摩琵琶と他の楽器とのデュオの曲もなんとなく構想しているのですが、これはまだ具体化しませんね。薩摩琵琶の器楽曲は今年の課題になりそうです。
昨年は日経に取り上げられたせいか、ありがたいことに色々な所から声をかけて頂いて、本当に忙しい日々を送っていたのですが、やっとこの頃ゆったりとした時間を頂いています。私は常に作曲をし、新しいものを作り続けていないとどうも気が収まらない性質なので、私にとってはこういう時間がとても必要なのです。世間から見るとお気楽に見えるのかと思いますが、これも仕事の内ということで・・・。世間様とは違う所でぶらぶらしていると色んな発想が浮かんでくるんですよ。
琵琶を弾いていない時はこんな顔してます
今年はちょっと何時もの春と違って、邦楽以外の所に意識が行っているんです。この所意識的に聴かなかった印象派の音楽など聴いて初心を想い出し、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンなども本当に久しぶりに聴いて朝からはまりまくっています。やっぱり音楽は「祈りと叫び」ですね。最後はここに帰ってくる。
そして更に、今年はどういう訳か普段は滅多に聞かない日本のポップスも色々聞いています。よく聞くとなかなか良いものもありますね。以前から尾崎の「I Love You」や中村中の「友達の詩」なんかは、柄にもなく私の中の定番ソングなんですが、ショウビジネスには乗っていない、例えば有山じゅんじの「君に逢いたい」なんか最近聞いてぐっときました。
やっぱり歌である以上、歌詞がしっかり聞こえて来て、そこに表現されている世界がリスナーの心に届いてこそ歌ですよ!。素晴らしい歌は、聞いていれば歌詞がそのまま直接自分に語りかけて、その世界に身も心も誘われてしまうものです。そうした歌を聴いていると、私が歌う琵琶唄などはどれだけ届いているんだろうと、考えてしまいますね。やっぱり私は歌う人ではないのでしょう。器楽に特化して行く方が私には合っているのかもしれません。
伝統邦楽の歌はこれから歌い継がれて行くのでしょうか。琵琶だけでなく、日本の伝統音楽は現代に生きる我々の心にどれだけ届いているだろう??何だか私にはすごく遠い所で歌っているような気がするのです。
世は太古の昔よりパンタレイです。無情な程にすべてのものが変化し続け、音楽も「良い音」というものもどんどん新しい時代に沿ったものが生まれて来ると思うのですが、人間は自分がいったん勉強して獲得したものはなかなか手放すことが出来ない。なまじっか勉強した方は、そう簡単に時代の変化には対応できないのでしょう。「象牙の撥でないと手を痛める」「若い雌の猫の皮でないと良い音がしない」等ということを言う先生方が未だに居ますが、絶滅に瀕している象を殺さなければ鳴らすことが出来ない音色は、果たしてこの現代に何を語るのでしょう。先生方の求める音は、歌は本当に現代の人が求めている音なのでしょうか・・・?。
すぐれた音楽家や文学者など芸術家は何時も時代の先取りをするように、人々に次の時代の扉を開けて見せてくれました。宮城道雄も永田錦心もそうでした。部屋のPCと世界が直接つながっているような現代に於いて、次の時代の邦楽の姿を現し聴かせてくれる音楽家は出て来るでしょうか??。私は伝統邦楽の外側の人が邦楽そのものを変えて行くのではないかと思っています。
花は動き回る事は出来ないけれど、動けないからこそ環境にフレキシブルに対応して必死に生きて、毎年美しい花を我々に魅せてくれます。人間は歩き回り、今や世界中に飛び出して行けるのに、自分という折の中に囚われてなかなか変化する事が出来ない。地球の上で覇者だと思い込んでいる人間は、実は弱者でしかないのかもしれませんね。
とりとめもない春の午後の独り言
先日、秘曲で語る平成絵巻「方丈記」を地元のルーテルむさしの教会にてやってきました。
伊藤哲哉さんの語り、水野俊介さんの5弦ウッドベース、ヒグマ春夫さんの映像、そして私の樂琵琶というチームの公演も昨年の六本木ストライプハウススペースに続き2回目となりましたが、今年に入って次の公演先である、相模原南市民ホールで何度も本番さながらのリハーサルをやってきたせいか、初回よりぐっと充実した公演となりました。
公演日の26日はイースターの前日であり、また大柴牧師のこの教会での最後のイースターイベントでもありました。牧師は4月から大阪に転任ということですが、是非大阪にも一度伺って、あの染み入るいたいと思っています。
今回は伊藤哲哉さんの語りがいつにない迫力で、聞いているお客様をぐっとつかんでいる様子がよく伝わっていました。さすがです。礼拝堂もお客様で一杯になり、本当にありがたかったのです。会場には琵琶奏者のHさん、語り部のBさん、SaxのSoon Kimさん、和久内先生などおなじみの方々から、初めて聞く人迄色々な方が来てくれたのが嬉しかったですね。
こうして舞台となって行くと、作品の魅力が自分でよく見えて来て、色んなアプローチが浮かんできます。ここまでやらないと見えないものが確かにありますね。やはり私は舞台そのものを作って行くことに大きな喜びを感じるようで、先日の日舞の花柳面先生、萩谷京子先生との舞台も、演奏だけ、踊りだけというのでなく、全体の構成から流れまで舞台全体が満足いったからこその充実感だったと思います。
伊藤さんとは「良寛」でも一緒なのですが、こうした舞台をシリーズでやって行けるのは舞台人として、音楽家として幸せですね。
誰しもそうだと思いますが、私は自分の音楽に充実は感じているものの、まだ未熟な面も痛切に感じています。私はコンプレックスもそれなりに多い人間なので、色々な矛盾する部分を自分の中に抱えながら舞台に立っている訳です。しかしこうして多くの機会に恵まれることで自分の本来の姿が見えてきます。出来ることとできないことが見え、伝統やら形式にマスキングされて、上っ面だけはこなして中身が出来ていない部分も見えてきます。伝統芸能は形がある分、ここが見えないといつまで経ってもその先に行きません。
大柴牧師が説教の中でアフリカの諺を紹介していました。「速く行きたいのなら独りで歩きなさい、遠くまで行きたいのなら誰かと一緒に歩きなさい」。素晴らしい言葉だと思います。こうして色々な機会を頂いて、常に視野を広げることが出来るのは実に幸せなことと同時に、色々なジャンルの素晴らしい仲間が周りに居ることが私にとっても一番の幸せかもしれません。いつも仲間が居るからこそ、遠くまで歩いて行けるのです。
とにかく閉じこもっているのは私には似合いません。様々な分野の人とどんどん繋がって、あらゆる場面に出没するのが私らしい。だからこれからもゆっくりと遠くへ歩いて行きたいと思うのです。
外は桜が咲き始めましたね。少し天候が不順ですが、我が家の近くでも5分咲き位になってきました。春は桜だけでなくあらゆる花が競うように咲き出すのが何といっても素晴らしいです。桃、コブシ、モクレン、カイドウ、ハナスオウ、・・ありとあらゆる花が命の饗宴を見せてくれます。桜一つとっても、早咲きから遅咲き、枝振り、色等々、多くの種類の桜がその命を外に向けて輝かせている様を見ますと、琵琶も色々なスタイルが百花繚乱のように世に響いてくるといいな、と思います。それにはまず私自身の琵琶楽が柔軟で、また豊かでなくてはその魅力を享受できません。固定概念を捨てて、琵琶が本来の響きを持って鳴り出し、ありのままの自分自身から、素直にケレン無く音楽を紡ぎ出して行きたいものです。
大柴牧師が説教の中でアフリカの諺を紹介していました。「速く行きたいのなら独りで歩きなさい、遠くまで行きたいのなら誰かと一緒に歩きなさい」