ちょっとご無沙汰してしまいました。GWの頃は結構時間が合って、ぶらりぶらりとしていたのですが、急に用事が立て込んで、やっと一段落付きました。これからまた忙しくなりそうです。
琵琶奏者というものは世の中のおめでたい時期には大概仕事が無いもので、クリスマスや正月に加え、GWもいつものんびりしてます。これが6月に入るころから猛烈に演奏会が増え、きりきり舞いするのが常なのですが、今年もそろそろ怒涛の演奏会ラッシュが始まります。
琵琶のこれまでの曲は主人公が死んでゆく話ばかりでしたから、早いとこ画一的な内容から脱却し、音楽的な豊かさを創ってゆけるかどうか。琵琶楽の今後はここら辺にかかっていますね。ぜひ正月に仕事をしてみたいもんです!!。私はとにかく愛を語り届ける琵琶楽をどんどん創ってゆきたいのです。
もうちょっと前のネタですが、GWは丸の内でやっている「ラ・フォル・ジュルネ」に行ってきました。今年も素晴らしい若き才能に巡り逢うことが出来、心が豊かになりました。ケレンのない無垢な魂というものは素晴らしいですね。
「ラ・フォル・ジュルネ」に選ばれるくらいの人はかなりのレベルなのだと思いますが、皆さん20代であれだけの技術と表現力があるというのは素晴らしい。聴いた中ではピアノの矢島愛子さんの演奏が耳に残っています。オールスクリャービンプログラムで、かなり研究した様子が聴こえて来ました。全ての曲を暗譜し、真摯に曲に対峙している姿は聴きごたえがありましたね。また聴きながら自分の演奏も振り返り、色々と勉強にもなりました。
ジャズなんかでもそうですが、世界的には実力ある若手がかなり出て来ていると思います。飛び抜けた存在はそう多いとは思いませんが、全体のレベルは高くなっているのではないでしょうか。まあ邦楽は別として・・・・・。ヨーロッパ、特にオランダは国全体でジャズに力を入れているようで、かなりハイレベルの若手が出て来ていますね。ジェシ・ヴァン・ルーラー、マーチ・ジン・イターソン。イギリスだったらマーティンテイラー、またスウェーデン出身のウルフ・ワケーニウスという凄腕の方も大活躍しています。最近は本当に綺羅星のごとく素晴らしい技術と感性を持ったプレイヤーが出てきていますね。
日本でもクラシックでは期待の若手が何人も居ます。技術も感性も素晴らしいし、これからが本当に楽しみです。ただ日本の現状は、アマチュアとプロの境が無く、リスナーも厳しい目で見る人は少ないですね。これでは演奏家が育ちにくい。リスナーも含め、これからの音楽家を育てる社会的な土壌、日本人全体の芸術的な感性がもっともっと豊かになってゆくことを期待するばかりです。
以前東保君と一緒に出た演奏会
私は、頑張っている後輩達には「とにかくライブハウスを抜け出せ」と言っています。ライブハウスは、独特の魅力もあるし、ライブハウスでしか成立しない世界も音楽もあると思います。そういう場所での演奏も良い体験ですが、ジャンルを超えて多くの人に認められてゆくには、やはりライブハウスでやっているだけではどうにもなりません。若き才能は小さな所に留まっていたら厳しい意見ももらえないし、大きな世界が見えてこない。あえて厳しい環境に立ち、自ら向かって行くようでないと、音楽が小さくこじんまりとしたものに成ってしまう。仲間内というぬるま湯の中に居たら、せっかくの可能性も閉じ込められてしまう。もっともっと飛び出して、羽ばたいて欲しいのです。
最近私の仲間ではウッドベースの東保光さんがかなり頑張ってますね。民俗学的な視点を持ってオリジナルの楽曲を書き上げてなかなかに旺盛な活動を展開しています、この程やっとライブハウスではなくホールでの公演を実現します。5月15日武蔵野芸能劇場でやるそうです。
http://hikarunews.exblog.jp/24192324/ 是非興味のある方行ってみて下さい。
邦楽でも素晴らしい若手は居ると思います。ぱっと思い浮かんだだけでも中島裕康君がやっている邦楽四重奏団はじめ筝や尺八には有能な連中が居ますね。しかし中には音楽的レベルよりも、活動の方に目が奪われて、音楽よりも活動する事に酔ってしまっているような人も結構見受けられます。舞台人として演出は大事だと思いますが、ノリノリで踊りながら弾いても、派手な衣装や化粧をしても、とにもかくにも自分の音楽を奏で、聞いてもらわない限り、音楽家としては認められません。古典でも新作でも、自分の音楽として舞台で演奏できるかどうか!!。ぜひ若手の方々にこそ、売れる音楽よりも魅力ある音楽を演奏してもらいたいですね。


晴海埠頭から出港まじかの客船と武相荘(HPより写真を転載)
GWには色々な所に行ってリフレッシュしてきました。ときどき行くのですが、先日も晴海ふ頭に行って初夏の風を感じ、白洲二郎・正子の武相荘にも行ったりしてのんびり英気を養ってきました。自然の緑や広い海に囲まれていると気分も穏やかになりますね。自分の持っている世界が世の中の全てではない、とは判っているつもりでも、いつしかその小さな世界に囚われてしまうのが人間というもの。だからこそ時々音楽人塩高ではない、ただの一人間として存在し、一番「素」になれる所に身を置くことはとても大事なのです。
さて、琵琶樂人倶楽部の開催100回記念演奏会も来月に迫りました。その他相模原南市民ホールでの「秘曲で語る方丈記」の公演もあります。
初夏の風に乗って、気分もぐっと盛り上がってきました。

今月からは小さな会やレクチャーが目白押し。ありがたいことです。
琵琶楽をもっと豊かなものにしたい。哀れや悲しい情念の物語ばかりでなく、聴いている人が笑顔になり、愛に満たされ幸せになるような曲を創りたいですね。何故今まで無かったのでしょう・・・・これだけ魅力的な音色を持っている琵琶はもっともっと発展するべきだと思うのです。
休暇はオワリダ!
暖かくなりましたね。外はもう新緑に溢れ、眩しいほどに生命の息吹を感じさせてくれます。この時期はすっかり花粉の心配も無くなり、一応語り物をやる身としては、存分に声を使うことも出来るし、街が緑に囲まれて、暑くも無く寒くも無く実に気持ち良いですね。
私の住む杉並は、とにかくイベントお祭りが一年中目白押し。特に若き日20年に渡り住んでいた高円寺は年々街全体がパワーアップしていて、今では大イベントが年に4つもあります。先日も大道芸フェスがあったばかり。凄い人出でした。名前の通りびっくりする芸からクスクス笑ってしまうもの迄、たっぷり楽しんで来ました。それにしても活気なんて言葉では表せない程に高円寺パワーは凄まじい。こういう街に導かれて住んでいたのも何かの縁ですね。
そして現在の我が街阿佐ヶ谷もジャズの街として、七夕祭り以外に大きなジャズフェスがあり、ここ数年私も参加しているのですが、この他にも小さなイベントが色々とあります。そのまたお隣り荻窪にはクラシックの音楽祭があり、これもまた盛り上がるのですよ!。という具合で、もう中央線沿線界隈は年がら年中週末毎に人が満杯状態なのです。
ロック、ジャズ、クラシックと音楽が密接に関わり、街それぞれにそれぞれの音楽があり、一年中にぎわっているというのが素晴しいですね。この辺りは正にオールジャンルな音楽の都と言えるでしょう。正に私が住むに値する街だと思っています。こういう街や地域は他にはありえませんね。
前のブログでも書きましたが、今年は薩摩琵琶の演奏が多くなりそうです。私の5,6,7月は毎年演奏会がお祭りの如く目白押しで飛び回っているのですが、今までのレパートリーを更にブラッシュアップさせて、とにかく舞台全体を見据えてプログラムを作りたいと思っているので、今はソロ(器楽・弾き語り)とデュオの曲の見直しと、新たな作曲のことが頭から離れません。
これまで色々とやって来て、自分なりに充実した活動が出来たかな、とも思うのですが、私の行く道はまだまだ先があると感じています。だから何か一つ成果が出ても、だから常にNext Oneへと思考が向いてしまうのです。いつかはどこかに辿り着くのかもしれませんが、今はただ歩むのみ。こういう小さな方向転換も、普段から色んなことを考え考え模索して、それらが期を熟して新たな展開として具体的になって来たということです。
そんな新たな展開の為には、色々なものに触れ、多くの人と会い、話し、あちこちへに出歩いていることが私にとって発想の大きな糧となります。よく散歩しているのも、食べ歩いているのも、皆どれもが明日の舞台に直結している言ってもいいですね。とにかく一つ一つ実体験してこそ想いが湧き上がるというもの。勿論、感動もあればその反対もありますが・・・・。
先日もあるトリオのアンサンブルを聴きいてきました。3人共立派なキャリアをお持ちで、オケなどで活躍しているようでしたが、二重奏や独奏では正直とても聞けたものではありませんでした。中途半端に手慣れてしまったのか、常に謙虚な姿勢で音楽を学ぶということをいつしか忘れてしまっているのでしょうね。残念だったと同時に思わず我が身を振り返りました。
かと思えば、先日Youtubeで観たオーディション番組に出ていた少女の歌にはもうびっくり。アリアを歌っていたのですが、聴いていて涙が出てきました。久しぶりに歌声で心が震えましたね。ああいう飛び抜けた才能を目の当たりにするととても幸せな気持ちになります。そういうものも体験できるのも現代という社会です。
こうして日々色々なものに接することで、想いも膨らみ、我が道も見えてきます。日々の感動がいかに自分を豊かにし、また新たな発想と音楽を生み出して行くか・・・・・。音楽は日々を生きることと同じですね。少なくともこういう姿勢でなければとても音楽は続けていられません。
日常には驚きや感動が満ちています。と同時に自分を振り回すようなネガティブな言葉や出来事も数多い。現実はなかなか厳しいものです。そういう中で音楽は生まれ奏でられているのです。だから清濁溢れる現実としっかり向き合わないことには、音楽は作れません。
ここ何年か樂琵琶に専念していたおかげで視野が大きく広がりました。薩摩琵琶では体験できない舞台を沢山経験しましたし、シルクロードへの想いが形になって行くのは実に楽しく、新たな仲間も増えました。
また今迄のCDが全てネット配信されたことで、ターゲットが世界に広がったというのは良いことだと思っています。業界や自分の周りの知り合いなど小さな村社会に目が行っている内は、仕事にもならないし活動は広がりません。大きな世界に身を置いて、初めて見えるものがあります。そうやって世界を見てみると、薩摩琵琶の音色は実に魅力的。他には絶対にない音色であり、パーカッシブな奏法もかなり個性的です。特に私の琵琶は低音から高音までのダイナミックスが大きい。そのダイナミックな音色と演奏を世界に向かって弾いて行こうという訳です。
そして私は永田錦心のスローガンと同じく「民族音楽ではなく、芸術音楽」として演奏して行きたいので、芸術音楽として聞いていただくためには、何よりも楽曲が受け入れられる内容であり、且つクオリティーが高いこと、そして演奏がずば抜けて素晴らしいことも大切です。上手なんて程度では駄目。ずば抜けて凄くなければ琵琶のような珍しい楽器は浸透して行きません。ジミヘンやヴァン・へイレンクラスのインパクトを持っていないと、世界では新しい音楽として注目されないでしょう。せいぜい珍しい民族音楽止まりです。
その上でどうプロデュースするのか。そこが大事ですね。私はエンタテイメントにはしたくない。あくまでアートとして聴かせたい。楽しかったという感想も勿論有難いのですが、それだけでは終わらない、もっと深いものをリスナーの心に残したい。
大それた望みとも言えますが、望みは大きくなくちゃ。
今年も面白くなりそうです。
この春は震災もあり、何時もの春とは気分も随分と違いますが、新緑もまぶしい季節となり、演奏の機会が活発になってきました。先週は第二回日本橋富沢町樂琵会、そして高久国際奨学財団の認定式での記念演奏があり、週明けにはキッドアイラックアートホールで行われたヒグマ春夫さんのパラダイムシフトVol.77で演奏してきました。
日本橋富沢町樂琵会にて、
ゲストの平野多美恵さんと、ここのオーナーで色々と応援を頂いている小堺ひとみさん
まあ自分でもこれだけ幅広く演奏する人も珍しいだろうと思う位に、同じ薩摩琵琶でもアプローチから内容まで全然違う演奏をやっています。どれもが私であり、正に多面体がそのまま音楽になったようなもの。これに樂琵琶が加わると更にバリエーションが広がって、結果的に色々な所に出没するということになるのです。自分の知らない所に呼ばれ、多くの様々な方々に出会うというのは実に楽しいものです。音楽家冥利に尽きますね。
ヒグマさんのパラダイムシフトで演奏したキッドアイラックアートホールは、いつかここで演奏してみたいと思っていたホールですし、ヒグマさんとは是非組んでみたいとも思っていたので、願ったりかなったりでした。ヒグマさんの映像作品をバックに尺八の田中黎山君、ダンスの小松睦さんと3人でやったのですが、久しぶりに大型琵琶を存分に弾き倒し、琵琶を最初に手にした時のあの感触が甦りました。
琵琶で活動を始めた頃は、常にあの大型琵琶を背負って全国に出かけ、弾き語りから即興まで、様々な楽器の演奏家やダンサー達と演奏会に明け暮れていました。月に5本10本のライブは当たり前でしたね。まあ本当に色んな人が居ました。思い返しても面白い体験を沢山させて頂き、今となっては貴重な体験だったと思っています。あれが私の原点なのです。このパラダイムシフトでは、あの頃同じワクワクするような、躍動するような、血沸き肉躍るようなあの感触が甦り、古巣に戻ってきたような気分になりました。



私は活動の最初からいつもダンサーと一緒にやることが多く、色んなジャンルのダンサー達と本当に沢山共演してきましたが、ここしばらくは樂琵琶でダンサーとの共演することがほとんどで、薩摩琵琶のあのスリリングな感触は本当に久しぶりでした。それがキッドアイラックアートホールで封印を解かれたかのように甦ったのです。あの場所こそ私の帰る所だったのです。
ここ4,5年樂琵琶に随分と時間を割いて来ましたが、樂琵琶ではCDも3枚作る事が出来、作品も色々と出来て来ましたので、今年からは今一度薩摩琵琶の作品作りにシフトして行こうと決めていました。だからこの機会は実に良いタイミングだったのです。とにかく私は樂琵琶も薩摩琵琶もその音色に惚れ込んだのです。音色を前面に出したい。音色が充分に届く音楽をやりたいのです。
弾き語りも素晴らしい文化であり、琵琶楽の大切な部分だと思います。平家琵琶から始まる日本の琵琶楽では弾き語りこそが琵琶楽ですから、そこは外して接する訳にはいかないと思います。しかし現代の日本社会は、古代から続く文化の伝統を一度は明治に、2度目は昭和の敗戦後に断ち切ってしまった、と私は感じています。今の日本の文化はこうした断絶の上に成り立っていると思うのですが、そんな意味では、私は断絶の申し子のようなもので、日本の伝統文化を後追いで体験しているのです。特に琵琶に関しては、全くと言っていいほどに何も知らず、とにかくその音色に惹かれて弾き出したのです。弾き語りをする物という感覚も無く、ただその音色、それだけに魅せられたのです。
現代では和服でも芸能でもなんでも、もはや伝統の延長線上には無いのではないでしょうか。逆に新しいものとして日本の伝統文化に接する。これが今の現代人の伝統に対する素直な感覚ではないかと思います。着物の季節ごとのしきたり等関係ない。格好良いと思うようなファッションとして着て楽しんで良いじゃないですか。そこを入り口として、伝統文化の素晴らしさに目が向いて行く、という形があっても良いじゃないですか。琵琶も同じだと思います。あくまで今の感覚として琵琶を捉え聴く。私はこれで良いと思います。
旧来のお稽古の仕方で「琵琶とはこういうものです」と押し付けるのではなくて、まずは自由に琵琶に接する所から始めて、やって行きながら、それぞれ自由なやり方で伝統の形をやりたい人には、そちらも教えて行くようにすれば、もっともっと琵琶の愛好者もプロ演奏家も増えて行くと思っています。現在はステレオタイプの人が多過ぎるし、そういう教え方をしない所に大きな問題があると思えてなりません。門戸を広げ、新しい感覚を持った人をどんどん受け入れて行けば、私のようなタイプの奏者も珍しくはなくなるでしょう。
私は今回のこの演奏で、自分が琵琶を手にした最初の感覚をあらためて手に入れました。これはもう逃さない。人はどうであれ、私は琵琶の音色を世の中に響かすのが仕事であり、使命だと感じています。弾き語りも含めつつ、器楽分野をどんどんとやって、琵琶の音色の素晴らしさを聴いてもらいたい。唄ではないのです。あくまで琵琶の音色なのです。
芸術に携わる多くの先輩や仲間とこの夜を過ごせたことに乾杯!

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先日稽古について書いたら、反応が沢山ありました。まあその反応を狙ったともいえますが、お前の言う通りという人もいれば、お前は判っとらんという意見もあり、それぞれの意見が皆、その人「らしいな」と思えました。
小さな島国でしかも、ほぼ単一の民族だけで歴史を継いで来たからでしょうか、日本人は多様なものを受け入れるということが苦手ですね。そういう精神的土壌が無いのでしょう。急激なグローバル化に、ある一定以上の世代の意識がまるでついて行ってない。時代の流れに乗れないその感性が、今の国や経済の状態をそのまま表しているような気がします。
日本人の代表的感性として「べき論」ということがよく言われます。何か一つのやり方を貫くことが美徳で、色々な選択をしようとせず、「かくあるべき」という考え方からどうしても抜けられない。邦楽のような超の付く保守的な世界では、まあお決まりの「これは◯◯ではない」などということが未だによく言われます。どんな邦楽や琵琶楽があっても、判断するのはリスナーですし、別に法律がある訳じゃなし自由だと思うのですが、どうしても自分の関わっているものとそれ以外を区別し格付けし、正統だの亜流だのと、「◯◯でなくてはならない」という排他的とも言えるような頑なな態度から離れることが出来ない。このままで本当に良いのでしょうか・・・・・?。
そしてまた体裁というものを整えないと落ちつかないのも大きな特徴ですね。琵琶は明治から大正にはそれこそ、30も40も流派会派があり、それぞれ宗家やら代表やらを名乗っていたそうですが、まあ今も「俺様一番」のような小さな村社会意識は相変わらずですね。
厳島神社にて
先のブログにも書いたように、私は「芸は手から手へ」というやり方がとても良いと思っています。しかしその他のやり方を認めないという姿勢はいただけない。CDやYoutubeを聴いて勉強するのは結構だし、独学だろうが何だろうが、良い音楽が出来上がればそれで良いのです。力のある人は、みるみるまに伸びて行くし、人が出来ないことをどんどんと実現して行きます。しかしながら、一人でやるにはかなりの感の良さや、様々なスキル、素養が必要なこともまた確か。独学で一流になるには並の力では到底出来ません。誰もが出来るというやり方ではないですね。
今の邦楽教育の問題点は、どういう人にも一律に同じ教え方をしようとする所だと思います。生徒それぞれの個性や能力を見極め個々に合わせて教え方や内容を変えることをしない。つまり先生側のスキルが時代に追いつかず、対応できていないのです。時代と共に変わることが出来ないものが衰退して行くのは世の習いですね。
いつも色々な事を教えてくれる江戸手妻の藤山新太郎師匠
師匠について稽古する事の良さはどんな所にあるのでしょうか。それは、形の上からでは見えないものを教えてもらえる事ではないでしょうか。例えば日本の土壌が育んだ深い感性、更には舞台上での所作の持つ深い意味、また技術的にはリズム感や、発声に必要な筋肉の動きetc.こういう事はなかなか見ているだけでは判りません。上辺を真似ていても、中身が判っていないと、応用も効かないし、自分の中で必然になって行かないので、結果的に余計な動きをしたり、俗にいう変な癖がついてしまう。当然の如くあるレベル以上には上達もしないし、いつまでやっても深まらないという訳です。武道などでも全く同じですね。
習う側も言われた事を一生懸命やっているだけでは、大して見えて来ません。、色々な面を考えて、試して練習しなければ、いくらやっても会得するものは筋肉痛位なものでしょう。がむしゃらにただやっているのは、やっている自分が満足しているだけです。筋肉痛から何を想い、何を考え、どう工夫して行くかが練習であり、稽古なのです。「練習とは只管考えること」だと私は思っています。けっしてフレーズを何百回も弾くことではありません。
古典として洗練された形を持ったものに関しては、師匠についての稽古は必須だと思います。例えば雅楽、平曲、能、長唄、こうしたものは、土台自体が今の時代の感性とは違うもので出来上がっている上、長い歴史の中で練りに練って仕上げられた洗練も、それにまつわる多くの英知も蓄積もあります。こうした古典は存在自体が文化なのです。それぞれに極めた師匠に習わなければ見えてこない。何故ならば現代人の感覚では推し量れないからです。
だから古典に関しては面と向かって稽古することは避けて通る訳にはいかないと私は考えています。独自の視点で古典を捉えることは賛成ですし、大いにやった方が良いと思っています。私もそうしてきましたが、やればやるほど自分の知らないことが多過ぎて勉強せざるを得ないのです。自分という小さな器ではとても捉えきれないものが古典にはあります。それだけの時間の蓄積と洗練があるということです。だからこればかりは「べき論」ということではなく、まず素直に習ってみることを勧めています。ただ自分に合う先生を選んで学ぶことがポイントですね。先生も自由に選ばせてあげなくては、せっかくの生徒の志はつぶれてしまいます。邦楽界では師匠を変わるということが相変わらず難しいのですが、こういう悪癖ははっきりと変えて行かないと、どんどんと有能な人材が去って行く行くだけだと思います。
平曲などは節を真似したところで何も見えてこ来ません。何よりも平家物語というものに対する深い研究・考察が無い限り、演奏出来る
ものではありません。平家物語に限らず古典をやるには音楽だけでなく、自ずと日本の歴史やその他の芸能にもそれなりに精通していなければ、中身が判りません。古典文学は古今、新古今などの和歌が下敷きになっていますし、平家物語にしても様々な古典が元にあります。「千手」の所など、雅楽の五常樂にひっかけたやり取りなども出てきます。能や歌舞伎は言うまでも無く、古典文学を知らなければ成立すらしません。つまり伝統芸能をやろうとするのなら、古典全体、歴史全体を把握しないと理解が出来ないのです。
もし「古典やってます」といいながら茶道も能も長唄もろく知らず、古典文学にも暗く、短歌も詠めないような「お師匠様」が居たら、そういう輩はいわゆる「もぐり」でしかありませんね。伝統音楽で先生稼業をやるからには、こうした日本文化や歴史には誰よりも詳しくて当たり前なのです。更に現代の生徒達に対し、西洋文化との比較もしてあげられる位でちょうどいい。ただちょっと技芸がお上手な程度では、習う生徒があまりにもかわいそう。CDでも聞いてた方がよっぽどましというもの。
薩摩琵琶は上記の古典とは少し違いますね。薩摩琵琶の中でも江戸時代に出来た正派は、また別の意味合いがあると思いますが、洗練という音楽的な発展が始まったのが事実上錦心流からですので、まだ100年程度の歴史しかないのです。錦は昭和以降、鶴田は70年代~80年代の創流ですから、多くの蓄積や英知云々というものとはまた別の新興の芸能です。こういうものと古典とごちゃまぜにしたら、日本音楽の本質は見えてこないのではないでしょうか。津軽三味線や太鼓も同じですね。古典のような姿をまとっていても現代のものと江戸時代以前の音楽では全くその質を異にします。
薩摩琵琶は他の古典芸能と違い、音楽学的な研究も始まったばかりで、まだ全然手を付けられていないといってもよい状態。これからもっと色んなやり方や視点、演奏家のアプローチがあって良いと思います。またその位でなければ琵琶楽の今後は無いと思います。
昨今は同性婚なども自治体が認めようとしていますが、世間はなかなかそう柔軟な感性を持つには程遠いでしょう。同性婚が良いかどうかは別として、やはり自分が生きてきた中で培われてきた感性からはみ出すものは受け入れがたい。しかし世の中は目まぐるしい勢いで変化して行きます。邦楽や琵琶楽の在り方も変わってきます。琵琶に対する視線も変わり、琵琶に関わる人の想いも変わり、稽古のやり方も変わって行くのは当然、必然なのです。
パンタレイ・諸行無常・万物流転など洋の東西別なく説かれているこれらの原理・法則は、古代ギリシャでも平安時代でも現代でも同じこと。伝統を繋げて行くには変わり続けるしかないのです。それが出来ないものは消えて行くしかないのです。何を変え、何を受け継いで行くのか???
さあ、邦楽はこれからどうする?

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熊本の地震は大変な被害となってしまいました。とにかく今はあらゆる支援が迅速に行き渡ることを祈ってやみません。昨日になって知り合いと連絡が取れましたが、5年前の東北の震災に於いても、今回も報道やネットの情報が入り乱れ振り回されて、結局は何も出来ず鬱々とするばかりでした。音楽は直接的には無力かもしれませんが、こういう時こそ先ず我々が普段の日常を取り戻さなくてはと思います。私はいつものように素晴らしいと感じられる音楽を奏でること。これしかないだろうと思います。一日も早い復旧を祈るばかりです。
そんな中、先日は打ち合わせも兼ねてクリスタルデュオブレイズのお二人とゆっくり話をしてきました。その結果12月1日に近江楽堂で演奏会をやる事になり、私も微力ながら参加することになりました。詳細が決まりましたら、改めましてご報告させて頂きます。
この日は昼間時間もありましたので、かねてから行きたかった、馬の博物館で開催されている山口晃さんの作品展「馬鑑」に行ってきました。
山口さんとは、カリブ海のクルーズで偶然一緒になったのですが、話していると以前私がお世話になった方と繋がっていて不思議な縁を感じていました。
作品はとてもユーモアに富んでいて、過去と現在が混在する楽しい作品が並びました。こういう自由な発想は、ありそうでない感覚で、見ている此方側の心を解放してくれます。添えられている言葉も片意地張らず、ふんわりとしてとてもいい感じでした。それにしても画力の高いこと!。
こんな時期ということもありますが、山口さんの時間を超越した作品を見ていて、「而今」という言葉が浮かんできました。「而今」とは今この時という意味で、道元禅師の正法眼蔵に出て来る言葉です。哲学的な言葉なので、私ごときが解説する訳にもいかないのですが、今この時を大事に生きるということは、今、現代社会の中でとても大切なことではないかと思います。
これだけ複雑で、且つ快楽を極端なまでに刺激し続ける社会は人類史上他に無いと思います。ネットをはじめあらゆる情報が飛び交って、もはや個人のレベルでは判断が付かない状態になっているような事は、これまで人類が経験していないのではないでしょうか。簡単に言えば人間がメディアに振り回されて生きているということです。
未来へのヴィジョンをしっかりと持つことはもちろん大事ですが、こういう時代こそ、自分を見つめ、今自分がなすべきことをしっかりと把握しないと訳わからないままに流されてしまいます。とにかく自分を取りまく物や情報から自分を守らないと!。私がいつも書いている肩書きやら格やらという幻想も同じく、自分の本来の動きを止めてしまうぶ厚い鎧でしかありません。
これからを担える若い世代がそういうもので目隠しをされ、振り回されている姿を見ると何とも心苦しい。またそんな中で頑張っている自分に酔ったり、褒められて有頂天でいたりしているのも、その場では気持ち良い快楽の中に居るのかもしれませんが、振り回されて自分を見失っているのと同じです。今を大事に生きる為にも、鎧も衣も脱ぎ捨てて、何物でもないあるがままの自分自身と向き合うことが大切ではないかと思います。
世の中天災人災あらゆる危険が常に隣り合わせ。何が起こるか判りません。被災地でも地震後に様々なことが起こっているようですが、人間とは残念ながら善意なだけではないのです。今回でも先ず支援を申し出る国もあれば、この機に乗じようとする国もあります。これら世界中からありとあらゆるものが押し寄せ、溢れる情報や物と共に自分を取り巻き、自分の歩くべき道がなかなかすっきりとは見えない。そんな時代に我々は生きているのです。現代社会では国内は勿論、海外からでも直接色んなものが飛び込んでくるので、小さな世界にのんびり居ようと思っても居られないのです。この社会情勢も何も、全て自分自身で判断し取捨選択をしなければなりません。何と煩わしいことか!!
道元禅師は後の世のことが見えていたのかもしれませんね。この多くのものに取り巻かれ、本来の自分を見失いつつある現代という時代を・・・・。でも私達はその中を確実に生きて行かなければならない。私は「今」を生き抜くことこそ現代の一番のキーワードのように思えるのです。
さて、この混迷の時代に琵琶の音をどんどん響かせるのが私の仕事。今週は21日に「日本橋富沢町樂琵会」の第2回目演奏会があります。今回は薩摩vs筑前~敦盛対決。筑前琵琶の平野多美恵さんをゲストに迎え、弾き語りをたっぷり聞いていただきます。
そして25日の月曜日には方丈記でも御一緒させてもらっている、映像作家のヒグマ春夫さんの「パラダイムシフトvol.77」で演奏します。今回は尺八の田中黎山君も緊急参戦となりました。
ここ5年程で樂琵琶ではそれなりに作品も残すことが出来ましたので、今年から薩摩琵琶に舵を切って行こうと思っています。今回は久しぶりに大型琵琶を手に初心に帰って、あの「Orientaleyes」の世界観でやろうと思います。
今を生き、そして次代を生きる。それは生涯変わらない私の指針なのです。これからが楽しみです。

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