今日も暑い一日でした。今年の夏も厳しくなりそうですね。
左:塩高モデル大型1号機 右:大型2号機
私の使っている塩高モデル大型2号機が、最近良い感じに鳴り出してきました。1号機が1999年、2号機が2001年の作品ですので、もう共に20年以上経って、材のポテンシャルルがいよいよ表に出て来たのでしょう。実は1号機、2号機で随分と性格が違います。同じ作者なのに面白いですね。1号機はほんの少しだけ2号機よりボディーが薄造りで重量も少しだけ軽いのですが、その分、元気の良い音とでも言えばよいでしょうか、例えて言うのならフラメンコギターのようにガンガン鳴ります。小さめの会場での演奏に向きますね。2号機の方は材がもう少し厚く全体ががっしりしていて、音が直線的に飛び出て行く感じで、いわゆる遠鳴りするように品良く響くので大きなホール等ではこちらを使います。ギターでも何でもまともな材質で丁寧に作られている弦楽器というのは、時間が経つと良い感じになりますね。
1号機はもうかなり前からバンバン鳴り出していましたが、最近は2号機の鳴りが半端なく、特に低音がどんどん豊かになってきました。それににしたがって、4・5の糸が時々埋もれ気味かな~という感じも同時にしていました。先日挙げた「平家幻想」の舞台
こちらの舞台でも後で録音などを聴くとちょっと4・5が埋もれる感じがしないでもないかな、という気がしました。まあマイクもマイクのセッティングもそこそこでしかなかったので何とも判断は出来ないですが、低音の圧倒的な存在感に比べ、少し高音が出て来てない感じがしたのです。そこで早速4・5の糸を21番に変更した所、とてもいい感じでバランスが取れました。これ迄大型は第1絃が45番、第2絃が35番、第3絃が2ノ太目、第4・5絃は20番を張っていました。ほとんど問題は無かったのですが、21番を試したところドンピシャでした。これはちょっとした発見でしたね。
それに伴って中型の方も見直しました。ここ1年程で中型2号機(分解型)が良く鳴るようになってきまして、これはもう実践でガシガシ使えると思っていたのですが、気持ち第4・5絃が少しばかり弱い(というか響きが足りない)感じがしていましたので、こちらも21番を張ってみた所いい感じなりました。更に第2絃も35番にした所、バランスが取れて来ました。中型1号機の方はいつもの調子でバランスが取れているので今まで通り、第1絃が45番、第2絃が1ノ太目、第3絃が2ノ太目、第4・5絃が20番というセットにしてあります。
絃の変遷はそのまま私の音楽と演奏スタイルに直結していて、大型を手に入れた当時、最初は第4・5絃は15番でした。すぐに17番に上げ、その後19番になり、ここ4.5年は20番で定着してました。
私の演奏スタイルは弾き語りではなく器楽ですので、一般的な弾き語りの薩摩琵琶に比べかなりダイナミックに弾きます。作品は現代音楽~プログレ・フリージャズの土台が相変わらずしっかりと固定されて変化はないですが、表現はここ30年で少しづつ変化して行ってます。最初はただガンガン鳴らしているだけでしたが、消え入るような繊細さも、メロディーを歌い上げるような息遣いも重要な表現になって来て、同時に爆発するような強靭さも更に充実を目指したい、という訳で、それらを表現出来るように全体がセッティングされています。低音のサスティンもとても長い。多分弾き語りをやっている琵琶奏者とは目指している音が随分と違うと思います。まあ私の肉体も年齢を重ね変わって来ているし、音楽性も深化しているという事ですね。
40代前半の頃
上の写真は40代前半のもので撥も今より少し薄めのものを使っていました。大型二号機を弾いているのですが、楽器もまた生きものと同じで、材質も微妙に変化するし気温や湿気でも大きく変わってきます。写真で見ても何だか琵琶がまだ若い感じがしますね。
私は手入れだけは人一倍やっていますので、毎日サワリの調整などは怠らないですが、日々絃も琵琶本体も変化して行くのを感じます。この変化を感じようとせず、昔と同じで良い。流派のやり方はこれだ、なんて思考停止して目の前の形に寄りかかっているようでは、その人独自の音は出て来ません。音色は演奏家の命ですから、常に色んなタッチや指使いなどをいつも考えていて、自分の音色を求め続けているのが演奏家というものです。どんな演奏をしたいのか、何故そうしたいのか、その根底には何があるのか。そしてそれを実現する為にはどんな音色と技術が必要なのか。こういう事を常に頭の中に抱えて生きているのが演奏家の日常なのです。
先生の音が良い音なんて言っているのは子供の発想。音楽家のセンスではありません。そういう色んな追求や思考・勉強・研究をする事が面倒くさくて、ライブで盛り上がっているだけで楽しいなんて人はプロの演奏家には向きませんね。ライブハウスで楽しんでいる方が良いと思います。
まあやり方はどうあれ、ギタリストでもヴァイオリニストでも、どれだけベテランになっても音色を追求し、音楽を創造し続ける事が出来る人だけが、現役の演奏家としてずっと舞台に立てるのです。それにそうやっていつも音色を追いかけ音楽を創って行く事が喜びであり、また新たな世界の扉が開いて、次のステージへと上がって行く事が楽しくてしょうがないのです。
私は、琵琶を「生きもの」として認識をしています。木は楽器に加工しても、常に呼吸し、湿気や温度に反応しますし、年月が経てばその時に応じて音色も変わってきます。特に私の琵琶は一切の塗装をしていませんので、とても敏感に反応します。絃も絹糸なので正に「生きもの」。絃は直ぐに音となって出てくるので、いつも絃に語り掛けるような感覚で扱っています。それくらいその時々の状況で変化して行くのです。琵琶も絃も命あるものとして扱ってはじめて、答えてくれますし、素晴らしい音となって響いてくれます。
絃は張ったばかりの時だけでなく、しばらく張っていたものでもなかなか音程は安定しないものです。毎回演奏前に引っ張って伸ばしてから弾きますが、その時々で音程が落ちやすい絃があったりするので、その日の絃の調子を診ておかないと、せっかくの音色も生かせません。特に第4と5絃はどちらかが落ちてしまう事が多いので、演奏前にその日の絃の状態を把握する事は必須ですね。
絃でも楽器本体でも自分の思い通りにコントロールしてやるなんて思ったら全然答えてはくれません。私は常に楽器と対話するように一体となって一緒に音楽を奏でる相棒という感覚で弾いてます。ほったらかしていたら全く答えてくれません。日々あれこれと世話を焼いて初めてあの妙なる響きが出てくるのです。絃も琵琶も時々、どうにも安定しなくて、響いてもくれなかったりする事もありますが、私はそういう時に絶対無理に鳴らすような弾き方はしません。むしろ丁寧に静かに鳴らすようにしています。
毎日のようにサワリの調子を診て、絃の状態を診て、一番良い状態を保ってあげる事は、命あるものに相対していると思えば、私には当然の事です。まあ手のかかる子供が沢山居るのと同じです。私の琵琶部屋には、いつもこいつらが控えていますので気は抜けません。しかしながらさすがにもうこれ以上扶養家族は増やしたくありませんな。
このほかに平家琵琶や標準サイズの薩摩、稽古用のもの等がありますのでなかなかの圧迫感です。こういう暮らしをもう30年もやって来れたというのは有難い事ですが、面倒くさいと思ったことはありませんね。逆に毎日いじって、この琵琶たちが理想の音色が出るようになって行く様は、本当に楽しくてしょうがないのです。どれか一面でもサワリや絃の具合が悪いとどうにも気になってしまいます。
こうやって日々を過ごし、これ迄琵琶弾きとして生きて来れたんだから最高でしょう!!。
photo 新藤義久
絃はまず最初に手を掛けられるところなので、弾く度に様子を診て、より良い状態で弾いてあげたいですね。是非自分の琵琶を持っている方は、そいつにたっぷりの愛情をかけてあげてくださいね。
先日の琵琶樂人倶楽部は新規のお客様が結構来てくれて、更にゲストの鈴木晨平君の友達も駆けつけてくれまして大盛況でした。
photo 新藤義久
晨平君も彼独自の世界を披露してくれまして、お客様も喜んでいました。どんなジャンルでも言えますが、リスナーが求めるものと自分のやりたい事は必ずしも一致しません。まあアーティストはいつの世も悩みは尽きないものですが、是非自分の想う所を貫いて行って欲しいですね。私自身その辺はギター時代からよく感じていましたので、琵琶に転向してからは、徹底して自分で作曲した曲以外は弾かないと決めてやっています。先日の琵琶樂人倶楽部では本当に久しぶりに自作の「壇ノ浦」を演奏しましたが、出来は、薩摩琵琶の特徴は聴いてもらえたかな、という程度でした。やはり私は歌い手ではないですね。しかし久しぶりに長い弾き語りをやってみて、色々新たな発想も湧いてきました。
Msの保多由子先生と photo 新藤義久
私は普段から声の専門家と組んでやっているので、声を出すという事に関して、生半可な姿勢では舞台で声は出せない、といつも感じています。私のように常時声の鍛錬をしていないものは、上手い下手という事以前に、声が音楽に乗りません。琵琶奏者として活動している方は皆さん歌う事を前提に活動している人がほとんどですが、週に何本も仕事で歌うプロの現場に行ったら、ちょっと上手なんて程度では通用しません。リスナーは皆黙っているけれど結構厳しいものです。今日は調子が悪い、なんて思ってはくれないのです。
これはどんな職業も同じで、料理人でもドライバーでも接客業でも、常に毎日高いクオリティーを持続出来て、それも何十年と持続出来て初めてプロとして認められ、職業として成り立つという事を音楽家は忘れている人が多いように思います。
箱根岡田美術館 尾形光琳作「菊花屏風図」前にて
舞台に立って仕事をして行くのなら、他には無いオリジナルな世界を常に安定して聴かせることが出来なければ評価がもらえないし、収入にもなりません。そう考えると「壇ノ浦」のようなスタンダードな曲をやるのはとても挑戦なのです。それは常に師匠や名人達と比べられてしまうからです。老舗の料理屋さんでも先代と同じ味を出していては評価されません。先代を超えて、尚且つその店の独自のセンスも継承して初めてお客さんに納得してもらえるのです。
音楽家も「こいつがやったらこの曲もこうなるんだ」と思われる位に独自のスタイルと魅力を表現して初めて何かしらの評価が付いてくるのです。リスナーは決して師匠の演奏をコピーしたようなお上手さを求めてもいないし、そこを聴いてもいません。これが解らない人は一生お稽古事から逃れられないでしょう。ヴァイオリニストが研究と研鑽を重ねて重ねて、満を持してバッハの無伴奏に挑戦するように、琵琶奏者も守・破・離の更にその先まで突き詰めて、自分にしか出来ない世界が確立が出来たと確信するまでやって、初めて流派の曲に挑戦する位で良いのではないでしょうか。教室で習った得意曲をご披露している内は、まだアマチュア。先生の弟子の内の一人でしかないのです。
厳しいですが、代わりはいくらでもいるし、若くて上手な人はどんどんと出て来るので、ちょっとちやほやされるのも、ほんの短い時期で終わってしまいます。そんな所で喜んでいるようなメンタルでは長く続けて行けません。他の音楽ジャンルを見れば一目瞭然でしょう。クラシックでもジャズでもロックでもポップスでも、独自の魅力を持っていなければプロデュースしようがないし、オリジナルな魅力の無いものにはリスナーは付かないのです。お稽古事をやっていると、上手さを求める事ばかりに意識が傾いて、そこが判らなくなってしまいがちです。お稽古事の罠ですね。
晨平君
晨平君はギターでライブ活動をやって来ているので、その辺の所がしっかりと解っているのが、実に頼もしい。確かに彼の音楽はまだまだかもしれませんが、きっとこれから30代、40代を迎え、年を重ねて行くと魅力のある音楽を創って行くだろうと期待しています。
私がプロ活動を始めた頃、約25年程前に、某邦楽雑誌の編集長に「琵琶で呼ばれている内はまだまだ。それはただ珍しいだけだ。代わりはいくらでもいる。塩高で呼ばれるようになれ」とアドバイスを頂きましたが、あの時に本当に貴重な言葉を頂いて、今その言葉が大切なものとして心の中に刻まれています。
舞台に立つという事は、「自分には何が出来て、何が出来ないか」という己の質と姿を己自身でしっかり把握する事なのです。お稽古事の人とプロの舞台人との違いはにはここに尽きます。
私は琵琶奏者としてのスタートが遅く、30代でやっと活動をはじめ、1stアルバムを発表してガツガツやっていました、樂琵琶での活動もやっていたので、器楽の作曲作品は薩摩・樂琵琶共に次々とリリース出来て活動は順調ではありましたが、声に関しては心が徹底していませんでした。40代の半ば過ぎ迄はまだまだ舞台で声が出なくなったりして失敗を重ねていました。それが50代に入って、声を使う事に関して、自分のスタンスが徹底し、器楽の演奏家として心が決まって来たてきたことで、色んな呪縛から解放されて、作品も更に思う形をどんどんと発表できるようになりました。自分の音楽とスタ
イルをやっとしっかりと掴むことが出来たという訳です。
羽黒山
音楽を生業にして行くというのはなかなか難しい。上手なだけではやって行けないし、面白いアイデアだけでもやって行けない。売る事を前提にすると、やりたい事はなかなか出来ない。けれども生きて行く為には収入の事も考えなくてはいけない。時に周りの事が気になったり、演奏が上手く行かず自信を無くしてしまったり、様々な事がありますが、とにかく途中でやめてしまったらそれまで。続けて行かないと音楽は生まれて来ません。生きる事と音楽を創ることがイコールになる位でないと。小さな所に囚われて、目の前の技術に寄りかかったり、人に寄りかかったりしていてはいつしか何も見えなくなってしまいます。なるべく余計なものは捨てて、身軽になって自分が素晴らしいと思える音楽の為に、自由にこれからも生きて行きたいですね。やはり「媚びない・群れない・寄りかからない」は大事ですね。
この夏はあまり演奏会は入っていないので、とにかく新曲を仕上げる事に専念出来そうです。秋の特別講座のレジュメもそろそろ描き出さないと。のんびりじっくりやらせて頂きます。
今月10日(水)の琵琶樂人倶楽部は、発足当時の初心に戻って、薩摩琵琶の発祥から現在までを辿るレクチャーをやります。琵琶樂人倶楽部を始めたきっかけが正に、薩摩琵琶の歴史をしっかりと伝えようという想いで始めたので、200回目を目前にもう一度初心に立ち返ろうという訳です。
こちらは17年前琵琶樂人倶楽部が発足した時に邦楽ジャーナルに載った記事です。私が琵琶で活動を始めた25年程前は、琵琶史観が全くめちゃくちゃで、琵琶樂の研究者もまだろくに居ませんでした。一番新しく80年代辺りに流派として認知された所が「古典です」なんて言ってはばからないような状態で、私自身も最初は薩摩琵琶の歴史をろくに知らず、そんなもんかなと思っていました。
若手が格好つけたくて大げさに言うのは可愛いものですが、「琵琶は千年以上の歴史」があるなんてキャッチコピーで、先生方までもが宣伝しているようでは、さすがによろしくない。そういうものに対して誰もがだんまり状態というのは情けないと思うと同時に、琵琶樂衰退の原因はここだなとも感じていました。ようは琵琶に対する意識レベルの低下という事です。何故胸を張って「最先端の琵琶樂です」と言えないのでしょうか。古典というと何だか権威がありそうで立派に見えるとでも思っている人が多いかと思いますが、そんな所に寄りかかっていること自体が既に音楽家でも芸術家でもないですね。大概新しい流派程「古典」と言いたがるのは何の分野でもそうなのですが、これは田中裕子先生が言っている「伝統ビジネス」と同じセンスだと思っていました。
若き日
また私は活動の最初から何故か大学や市民講座等でレクチャーの仕事もしていました。私にはキャリアもアカデミズムも何も無いのですが、どういう訳か、そういう所に呼ばれて喋るという運命が、琵琶を手にした頃から与えられたのです。これも勉強だと思って毎年やれるところはやっていますが、そんなアカデミックな専門研究の場で、まだ何十年しか経っていないものを古典とはとても言えないし、相手にもされません。2003年にヨーロッパツアーに行った際にロンドンシティー大学で世界の作曲家に向けてレクチャーをやりましたが、その時にも「薩摩琵琶は日本音楽の中でも、近代に新しく成立したジャンルであり、特に私が持っている5絃タイプのものは昭和時代に開発されたモダンスタイルな楽器です」と言ってレクチャーと演奏をやりました。
私は最初から日本音楽の最先端をやってやるという想いで琵琶を弾いているので、捏造のような歴史観には違和感以外のものを感じませんでした。薩摩琵琶を古典と言っている人は未だに居ますね。何か寄りかかるものが無いと自分を保てないのでしょう。私には自己顕示欲とコンプレックスに囚われているとしか思えないですね。
左:大分能楽堂公演の前日、長唄笛方の寶山左衛門先生と。
私は随分と気合の入り過ぎた硬い顔してますね。まあ無理もないですが
右:演奏会終了後の打ち上げにて大役を務めた後、一気に気が抜けて吞んでしまって、寶先生、百華さんの横で腑抜けてます
まだ私が30代の頃、長唄の寶山左衛門先生の舞台などに出させてもらいましたが、長唄という数百年の歴史のあるジャンルの中で、数十年の歴史しかないものを古典だとはとても言えませんし、40代からは能の津村禮次郎先生や日舞の花柳面先生とも何度も共演させてもらって、こちらがしっかりと正しい日本文化の歴史観を持たないと、とてもじゃないけど一流の芸能者とは一緒にはやって行けないという事も学びました。日本の音楽をやっているのなら、歴史も古典も一通り精通していて当たり前。習った事しか知らないなどと言うオタクレベルでは全く通用しないのです。
今はネット配信で即刻リリースしたものが世界に流れる時代。日私の曲も聴いて買ってくれる外国の方にアピールするのなら世界の歴史の流れや文化もある程度視野に入れておくのが常識な時代です。仲間内の小さな琵琶村感覚をいい加減脱しないと、誰も相手にしてくれません。既に永田錦心が生前同じ事を熱く語っています。琵琶樂人倶楽部発足当時は、同じ思いを持っている人が誰一人居ませんでした。そこがとても悔しかったですね。
鈴木晨平 photo 新藤義久
だから琵琶樂人倶楽部を立ち上げ、まともな琵琶樂の歴史について知ってもらおうと思ったのです。今回はそんな発足当時に立ち返り、薩摩琵琶の発生から現在までの変遷をお話させてもらおうと思っています。また現在の姿という事で、今ライブ活動を頑張っている鈴木晨平君に、現在進行形の薩摩琵琶の姿も披露してもらいます。お稽古事ではなく、一から薩摩琵琶という新しいジャンルを創り上げ盛り上げて行った永田錦心、水藤錦穰、鶴田錦史の各先人のように、彼も現在進行形で自ら創って行こうと頑張っています。そんな彼の今を聴いて頂きたいと思います。
何とか流という名前があると、何だか凄いもの、偉いものに思えてしまうものですが、そんな名前やありもしない権威に寄りかからないで、どこまでも自分の軸で、先人の志をこそ受け継ぎ、微力ながらも次世代へと繋げたいですね。「媚びない、群れない、寄りかからない」は何ごとにも必須の精神だと思っています。
薩摩琵琶樂は魅力ある現在進行形の音楽です。現代、そして次世代の人にアピールできる薩摩琵琶の音楽をどんどん創りたいのです。それはそのまま永田錦心や水藤錦穰、鶴田錦史たち先人がやってきたことに他ならないのです。微力ではありますが、先輩たちの志を次世代の琵琶人に伝えていきたいですね。そして次世代の琵琶樂を創り出す人材を応援したいですのです。
先週は四谷区民センターホールにて「祭りの刻」という舞踊公演で演奏して来ました。
私は大谷けい子先生率いるダンスネオシノワーズチームの一員として、笛の玉置ひかりさんと演奏して来ました。大谷先生とはもう随分前に天王洲のアートスフィア(現 天王洲銀河劇場)で共演したことがあるのですが、今回はその時に上演した「平家幻想」というダンス作品を改変しての再演でした。
私は琵琶で活動を始めてもう25年以上経ちますが、最初から毎年舞踊家と舞台に立っています。ジャンルは様々で、舞踏のような前衛からバレエ、モダンダンス、フラメンコのような洋舞系、そして能や日舞、地唄舞等の和ものまで、色んな舞台で一緒にやって来ました。舞人と一緒にやると毎回いろんな発見があるのですが、それは何と言っても空間の使い方ですね。音楽家は音楽に集中するので、空間の把握はあまりしませんが、舞人は隅から隅まで空間を見て、照明効果も考えて舞台を創ろうとする。この姿勢・感性にいつも大いに刺激されるのです。今回はスタジオでの練習時には漠然としか全体が見えていなかったのですが、当日ゲネプロ動画を見返していて、自分が創造している遥か上を行く素晴らしい空間になっている事にびっくりしました。照明の使い方が絶妙で、実に美しい。更に各セクションの切り替え部分が、舞台全体で観ると実にスムーズなんです。音だけではちょっとつなぎがどうかなと思っていた部分も映像で観ると全く無駄がなく、且つ自然な流れになっていました。今回も舞台への視野をまた一歩広げてくれました。
大谷チームの面々 左から笛:玉置ひかり 舞踊:杉本音音 大谷先生 私 舞踊:工藤史皓
今回は笛の玉置さん、舞人の工藤君、杉本さんと若手が揃い、大谷先生が要所を締めるという形でしたので、とにかくフレッシュなエネルギーが満ちていて、全体にとてもさわやかな雰囲気がありました。良い経験をさせてもらいました。
何故舞人とずっと共演してきたのか自分では判らないのですが、縁があるのでしょうね。花柳面先生や津村禮次郎先生、バレエの雑賀淑子先生には何度も声を掛けてもらって、いくつもの舞台をやらせてもらいましたし、モダンダンスの萩谷京子先生や田中いづみ先生、フラメンコの川崎さとみさんなんかと御一緒したり、アンサンブルまろばしの公演では花柳面萌さんと新作を上演したり、そのいずれもがとにかく刺激的で、楽しく想い出深いものでした。舞踏の方は皆即興でやるのですが、そういうスリリングなものも面白かったです。本当に共演する度に多くの事を学びました。舞人によって私は育てられてきたのではないかと思う程です。こういう経験こそが私の琵琶人としての25年程の活動の財産ですね。是非次世代の琵琶人もこんな経験をして行って欲しいと思います。

左:人形町楽琵会にて津村禮次郎先生と 右:ルーテル市谷ホールにて花柳面先生と
左:横浜ZAIMにてヤンジャさんと 中:キッドアイラックアートホールにて 牧瀬茜さん SOON・Kim(ASax)さんと
右:武蔵野スイングホールにて かじかわまりこさんと


左:本木ストライプハウスにて 坂本美蘭さん 尺八の藤田晄聖君と
右:西横浜エルブエンテにて 藤條虫丸さん 魔訶そわかさんと
9月28日(土)には注目の若手の舞踊家 西川箕乃三郎さんと、今回共演した笛の玉置ひかりさんを迎えて、人形町楽琵会のラストライブをやりたいと思っています。人形町楽琵会はコロナでずっと休止状態でしたが、これで一区切り。規模は小さいですが、若手と一緒に今後の発展を期待して盛り上げたいです。
代々木公園でやっていたジョージアフェスティバルに行ってきました。
私がこのブログをはじめたのが2009年の秋なんですが、書き始めてすぐに中央アジアへツアーに出て、そのツアーの最後にジョージアに行ったのです。これ迄色んな国に行って演奏して来ましたが、ジョージアはとても記憶に残っていて、是非また行ってみたいと思っている国なのです。あれからジョージアの文化やワインなどずっと関心を持って来ましたので、日曜日の舞台で繰り広げられるパフォーマンスを見ていて、溢れるように想い出が甦って来ました。考えてみればもう15年も前なんですね。時の経つのは早いものです。この時のツアーは国際交流基金の主催公演で、トルクメニスタン・ウズベキスタン・アゼルバイジャン・ジョージア(当時はまだグルジア)と半月ほどかけて、コンサートホールや音楽大学などで演奏やレクチャーをやって来ました。
ルスタベリ劇場正面
ジョージアでのコンサートは首都トビリシのルスタベリ大劇場という大変立派な劇場でやりました。日本人としては我々が初めてだったようです。トビリシに行くまで10日以上ずっとイスラム圏の国を回っていたので、さすがに食事に関しては飽きて来ていて、メンバースタッフ共にそろそろ限界に来ていたのですが、ジョージアは野菜も豊富だし、豚肉料理やニンニクなどの味付けもあり随分と助かりました。勿論ワイン発祥の地ですので、ワインもたっぷりあって大満足。
左はトビリシに到着した日に日本大使館の方々に連れて行ってもらったレストランでの料理です。緑色のものはホウレンソウ(?)を使ったもので、なかなか美味しかったですね。あと川沿いのレストランで食べたちょっと癖の強いソーセージ(右)や、写真中央の小籠包みたいなヒンカリという料理も美味しかったです。
大使館でボイラーを担当している日本人の方の勧められて、オフの日に「ヒンカリハウス」という専門店に皆で行こうと待ち合わせたのですが、私は方向音痴なのか皆に巡り合えず焦りました。でもそのお陰でたっぷり時間をかけて市街をくまなくぶらついて、石畳の道(旧市街かな)に無数にある古い教会などを巡って歩き、街の雰囲気を楽しむことが出来たのです。街は治安も良く、全く心配無かったので、手作りのパン屋さんでちょっと変わったホットドックみたいなのを買って食べたりしながらぶらぶらと歩いていていると、バスの運転手さんも買い物途中のおばさんも、教会の前に差し掛かると皆十字を切って頭を垂れている姿になんかとても好感が持てました。大通りでは古本市が出ていてバンドが演奏していて、絵に描いたような素晴らしい街を、はぐれたお陰で堪能することが出来ました。後日、心優しい照明担当の方が改めてヒンカリハウスに連れて行ってくれて爆食してきました。
左:終演後ダイアスポラ担当大臣婦人、日本大使夫人と 中:終演後舞台にて 右:終演後メンバー・スタッフらと共に
演奏会場のルスタベリ劇場はそれはそれは素晴らしい劇場で、充実した演奏が出来ました。とにかくトビリシには良い想い出しかないのです。古の文化を感じさせるような旧く美しい街並み、親切に招き入れてくれる教会、美味しい食べ物、ワイン等々旅の最後の公演地としては極上のものでした。
左:旧市街の教会の夜のライトアップ 右・左 少し外れた所にある古い教会
久し振りにジョージアの文化に直接触れて、15年前が甦るようで本当に楽しい時間でした。ジョージアの料理もまた食べてみたいです。以前はジョージア料理の専門店が東京にもあったようなんですが、今は無いのが残
念ですね。私はロシア料理のお店はしょっちゅう行っていて、行くと必ずジョージアワインを頂いてますが、是非またヒンカリなんか食べてみたいですね。ここ数年松屋がジョージアの代表的な料理「シュクメルリ」などメニューに出していましたが、マジデガチなやつが是非とも食べたいですな。そしていつかまたジョージアに行って街と文化を堪能してみたいです。政治的にはなかなか大変なようですが、いつか実現したいですね。
ルスタベリ劇場での演奏
このフェスティバルは、探したわけでもなく、ネットで見つけたのですが、これも何かの縁なんでしょうね。導かれたかな。東京でジョージアの文化に触れることが出来る場所もきっとあるのでしょう。探してみようかと思います。ワインも1本買ってきたので、今夜はこれを呑りながらのんびりツアーの写真など眺めて過ごしますよ!!。
本当に楽しい一日でした。