力を抜くⅡ

先日の第193回琵琶樂人倶楽部は伊藤哲哉さんをゲストに迎え、大変賑々しく終えることが出来ました。伊藤さんと組むのは久しぶりでしたが、その語りは益々円熟していて本当に映画を見ているように目の前に映像が見えて来ました。勿論お客様も大満足。素晴らしい夜となりました。伊藤さんは70代に入り、技と身体と意識が良いバランスになって来ているのでしょうね。演目は宮沢賢治の「二十六夜」でしたので、正に今、語るべき内容の作品であり、また伊藤さんの数多くの舞台や映画の経験に養われた深い年輪を感じさせる充実の会となりました。是非再演をしたいと思っています。

昨年秋に「力を抜く」というタイトルで記事を書いたのですが、年齢を重ねる程に「力を抜く」という事がいかに重要か、よく感じます。いつも琵琶を教えている生徒には、先ず呼吸の話と共に、最初に手と指、そして身体全体の力を抜いて、正中線を意識して座るように言っています。そしてある程度弾けるようになった時点でもう一度力を抜く事をアドバイスするのですが、自分の正中線でなく、今度は琵琶を持っている状態での自分の軸と重心の位置を意識させ、両手を放しても琵琶が安定して動かないように指導します。その上でもう一度体全体の力を抜いて、特に手首や指の力をぶらぶらになるほどに抜く事をアドバイスします。皆さんそこに気づくとぐっと上手くなりますね。今まで何度練習しても弾けなかったものが、左手の親指のこわばりを開放して、無意識に持ってしまっている「これをしてはいけない」みたいな固執を取ってあげると、一気にスムースに弾けるようになります。

きちんとするのが好きな日本人は、どうしても根性や気合で弾くこと=善であり正解みたいな人が多く、特に琵琶人は力技で抑え込むように身体を固くしている人が多いですね。力ずくで叩きつけるように弾き、大声を出して満足してしまう猪突猛進的な単純な意識しか持てないと、当然良い音は出ません。声一つとっても固い体からはろくな声は出ない事は皆さんもお解りかと思います。何か技を使おうとするときに、余計な力が入っていると技も体も充分に使えません。お刺身を切る時、包丁を握る手ががちがちに固まっていたらせっかくのお刺身も台無しになってしまいます。
そして人間、力を入れているつもりはなくても、結構あちこちに力が入っているものです。それは身体だけでなく意識もそうで、根拠もなく何かに拘っていたり、常識だと思い込んで視野思考が固く狭くなっていたりします。心身共に脱力できるかどうかという事は何をするにも一番基本になるものだと私は思っています。

固いものはちょっと角度を変えてウィークポイントに当てられただけでひびが入り、もっと固いものに出会うとあっけなく壊れてしまいます。しかし心も体も柳に風という位しなやかに、柔軟な状態を保っていると、どんなものが来ても受け流し、またそれを受け入れ取り入れながら倒れる事がありません。強いメンタルとは打たれてもへこたれない硬い意思ではなく、柔らかな心を持つ事です。そこを履違えている方が多いように思いますね。

先日の伊藤さんも全く硬さを感じませんでした。私は朗読や語りをする人とは随分仕事をしてきましたが、まだまだ力を入れる事で表現している、頑張っているという意識になる人が多いですね。力を入れて身体を硬くさせると、出てくるものはかえって単純で薄っぺらいものになってしまいます。大声出して何かやっている気分になるというのは、あまりに素人っぽいという事に気づいていないという事です。特に少し経験や技術がある人、またはあると思い込んでいる人は、その硬さがなかなか取れないように思います。初心の人はこだわりもプライドも無いので、アドバイスをするとすぐ取れるのですが、妙に自信があり、私はプロだなどとプライドを持っている人はなかなか取れませんね。

私の最初の先生は高田栄水先生という方で、当時すでに90歳の方でした。いつもひょうひょうとして軽やかな感じだったのをよく覚えています。最初にああいう師匠に就いたのが良かったと今でも思いますが、とにかく毎度の稽古で色んな事を教わりました。高田先生も若い頃はコブシ回して歌うのが格好いいと思って、コブシ回しで有名な方にくっついて回っていたそうですが、ある時からそれが「けれん」に聴こえて来たと言っていました。何か脱力したのでしょうね。私の今の感性は高田先生や作曲の石井紘美先生から受け継いだものが多いような気がしています。

若い頃は力で押し切って豪快に歌って弾いていた人が、ある年齢に達すると途端に演奏できなくなる例をよく見て来ました。40代50代60代と年齢を重ねて行くと、いくら本人が「何も変わっていない」「まだまだいける」と思っていても、肉体は正直なもので、そんな力技は通用しなくなるのは当たり前です。私も40代の時に急に声が出ずらくなったり、ぎっくり腰をやったりして、なかなか自分の肉体の衰えを自分で受け入れられなくてもがいていました。そんな時に古武術の稽古に通い、その稽古を通して脱力する事の大切さを知り、同時に自分には何が似合っているか、何が出来、何が出来ないのか、自分で自分を見つめ直し、自分の心と体の性質が良く解りました。自分に現在備わっている肉体は人と比べられませんし、根性を入れたからといって何とか出来るものではありません。逆に痛めるだけです。特に声帯は粘膜・筋肉ですから、多少鍛える事は出来ても、そもそも持っている以上のものは出来ないのです。

体と心の硬さを取る事は、年齢と共に、時代と共に、しなやかに変わって行く事
であり、その変化が出来ない人は苦しくなるばかりです。実はそんな先輩が何人も周りに居るのですが、そんな姿を見るのはつらいですね。先ずは体をほぐして脱力して、そこから得る事を実感すると、心の中の何がストッパーになっているか気が付くものです。肉体と精神の両輪で脱力をして、しなやかに変化して行く事の大切さを私は琵琶を通して実感してきました。

先日の舞踊作家協会の舞台でも、花柳面先生や尾上墨雪先生は全然力みが無く、その動きは淀みなく流れるようでした。観ていて実に自然な感じがしました。やはり一流は力みが無いのです。私もそうありたいものです。

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