体・響・感

ちょっと間が空いてしまいました。今年も桜は見事に咲きましたね。もう都内ではピークを過ぎたくらいでしょうか。ここ二三日が見頃の最後という感じですね。この時期は花粉症もしっかり来るので少々難儀していましたが、能楽師の津村禮次郎先生に声をかけて頂きまして、レクチャーの会を何度かやらせてもらってました。

左:善福寺緑地 右:浜田山

桜を観ていると詩情も溢れて出て、ちょっと一首詠んでみようかなんて風流な気分になるものですが、私もそれだけ年を重ねてきたという事なのでしょう。肉体を持つ人間は、その感性も常に肉体を伴ってはじめてその感性を育むのだと思います。喜怒哀楽は勿論の事、驚いたり、理解したり、分かち合ったり、人間の感覚というものは実に多様で面白いのですが、それも全て、頭の中だけの話ではなく、この変化する身体、さらに言えば留まる事無く移りゆく人生があっての感覚であり、感性ではないでしょうか。

今はエンタテイメント全盛の時代ですから、感じ方の質も変わってきているのでしょうね。これも不易流行という事なんでしょう。しかしながら何でもすぐ楽しい、面白いという所に、もう少し和歌を詠むような間合いが欲しいですね。受け手が対象に一歩踏み込んで行くような能動的な時間と感性があるといいなと思います。

芸術は人の想像力や創造力で創り出され、また楽しまれてきたものですから、受けて側の想像力を掻き立てる事で作品は成り立っている訳です。しかしそこから身体性が失われてゆくと、果して音楽や舞台は成り立って行くのでしょうか。今迄とは違う新たな領域に進むのでしょうか。私にはこれからの事は解りませんが、身体性を失った時、舞台は一つの死を迎えるだろうと思っています。VRなどでも、自分の変わりにアバターが動いたりして自分という主体がある以上、そこに何かしらの身体性は残って行くと思いますが、身体無くして物事を感じる事が出来るとは私は思えないのです。

昨年の「良寛」舞台より。津村禮次郎先生、中村明日香さん、私 於:中島新宿能舞


私は今迄、演奏会の舞台で多くの感動を得て来ました。音色が耳ではなく皮膚が感じるかの如くピリピリとしてきたこともあるし、色になって見えてきたこともあります。時々書いていますが、毎度参加させてもらっている戯曲公演「良寛」のラストシーンは、8分に渡り津村先生の舞と私の樂琵琶独奏のみによるエンディングで、その8分間は正に精緻とも言うべき異次元のような空間が現れました。早朝の湖の澄み切った湖面のような、あの静寂感や空気感を今でも忘れる事は出来ないですね。それらはとても身体性を伴った感覚であり、身体を通して感じた瞬間でした。

感性や想像力・創造力は皆身体を通して育まれたものであって、脳の中だけで出来上がったものではないと私は思っています。しかし一方で感覚というものは、時に身体を超越してしまう事もあると思いますし、西行のように「心は身にぞそはずなりにき」という感覚も判るような気がします。私如きが論じる事の出来るものではありませんね。
ただ西行のような感覚を感じる為には、個人の小賢しい知識や経験という小さな器を超え、一度自ら身体を捨てる位の行為や過程があっての実感ではないでしょうか。そこにはある種の壮絶がきっとあったことと思います。

年齢を経たから物事がよく判るなんてことはありませんし、逆に人によっては感性が鈍くなる事もあるでしょう。子供の無垢な心は大人はとうに忘れています。20代の頃のような肉体が瞬時に反応するような瞬発力も、その時だけのもの。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という言葉も、色んな意味を持っていると思います。結局はその時々の肉体を通した、時分の感覚なんでしょうね。

源平桃

音楽も最終的には音色に行き着くと私は思っていますが、その音色を作るのは感性であり、そしてこの肉体です。一つの音色に向えば向かうほどに離れがたき我が身というものを感じるのではないでしょうか。その音色を際立たせるためにはシンプルが一番です。余計な衣は要りません。個人の小賢しい自己顕示欲やら承認欲求やらは、音色にとっては添加物みたいなもので、なるべくそんな添加物が無い方が良いですね。そこにも身体性はあるのでしょうが、あまり良いものではありません。肉体がある以上無添加には成れないかもしれませんが、せめてオーガニックでありたいものです。

今はサウンドエフェクトの分野はものすごい発展をしているのですが、鐘の音を表現するのに、シンセで鐘の音をサンプリングして出すより、ギターでもピアノでも、そのつもりで弾いた音色の方が想像力が働くというのが私の意見です。リヴァーブや色んなエフェクターでキラキラになっている音は、まるでリゾートホテルのようなもので、至れり尽くせりのお膳立ては、かえって人間の身体性は薄れ、人間の感受性に於いてはかえってマイナス効果だと私は感じます。表面の綺麗さ、目の前の快適さよりも、ある種生々しいまでの息遣いやリアルさがあって初めて、その深い音色を感じることが出来るのではないでしょうか。

慈愛に満ちた眼差しや、さわやかな風、嵐のような激しさや、時に破壊的なまでのエネルギー等々、自然から、そして人間から発せられる等身大の響きを感じていたいものです。
コロナ、戦争、更に地震なども重なって来る今の時代に、どんな音色が響き渡って行くのでしょうね。音色を失った所に音楽はありえません。自分の音色を一番素直に出して行きたいのです。

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