東京では少し寒さが和らいで、気の早い梅もちらほらと咲き始めました。そんな春の気配とは裏腹に、もしかすると戦争が起こるというような崖っぷちの状況が世界に起こっていますね。出口の見えないウイルスの脅威といい、日本も今後どうなって行くのか、なかなか先の事が見通せません。そして私という個人もまた岐路~というと大げさですが~の時期にあると感じています。

最近はあまり新しい曲は浮かんでこないので、曲のブラッシュアップを淡々とやっています。面白いもので曲が浮ばない時には、これ迄の作品の譜面を開く度に細かな所が見えてくるのです。これはこれで大事な作業ですので、熟成をかけるつもりでコツコツやってます。そしてこの所ヴァイオリンと組むことが多くなったので、そのレパートリーを来月録音する予定です。もうCDを制作する時代でもなくなってきましたし、コンセプトアルバムの時代も過ぎつつあるので、作品個々のコンセプトが大事になってくるのですが、私は元々曲ごとに明確なコンセプトを持って創っていたので、私にとっては良い方向になってきたような気がします。まあ今迄アルバムが8枚、オムニバスが2枚出ていますので、ちょうど一区切りで次の段階へと進むには良い時期だと思います。音楽活動の在り方も変えて行く時期だと思いますし、また同時に自分の生活環境についてももう少し整えて行きたいとも思っています。
枯木鳴鵙図 宮本武蔵
時代はどんどんと変わってきているのに、それに追いつけないのが時代の中心に居た人達です。歴史を見ても、平安から鎌倉になって武士の時代になると、荘園のあがりで生活していた貴族達は、世の仕組み自体が変わってしまって、どうにも出来ず没落していった者も多かった事でしょう。中世ですと戦国が終わり江戸時代になった時でしょうか。もう武力としての刀は必要無くなり「世の海を渡りかねたる石の舟」と自らを歌った柳生石舟斎のような、生き方も感覚も変える事が出来なかった武士が多く居たことと思います。同時期に居た宮本武蔵は後半生で、独行道として武道を哲学的に掘り下げる方向に独自の剣の道を見つけて行きましたが、達人が次世代の武道の在り方を示したのだと私は考えています。明治維新の頃も、第二次大戦後も同様に急激な価値観の転換が起こり、世の中心に居た人ほど、変化について行けなかった事と思います。
そういう時代の流れの中で邦楽は、世の中心にあった訳でもないのに、権威や因習等の幻想に囚われて、その価値観もスタイルも変えられなかったですね。琵琶樂も同様です。明治期に新時代の琵琶樂を創り上げた永田錦心は今、この現状を見て、冥界でどう思っているのでしょう。
もう少し身近な所では、70年代から80年代初頭辺りまでは、何事にも大きく、重く、強くというパワー主義的な男性主導の価値観が幅を利かせていました。「大きい事は良い事だ」なんてフレーズを覚えている方も多いと思います。オーディオ専門誌などには、マウントを取るかのように超高価なオーディオセット自慢するおじ様達が毎回載っていました。私は2002年に「おとこの隠れ家」という雑誌で、それもオーディオ関連のコーナーで取材されたことがあるのですが、先日読み返していたら、オーディオ自慢の方々に交じって、私の華奢な(?)オーディオセットが並んでいるのが実に面白いです。私は結構な音オタクなので、自分のセットは個性的且つシンプルに選び、音には絶対の自信をもって組んでいたのですが、大きく、重く、そして高価という当時まだまだ幅を利かせていた、おじさんマウント路線の真逆でした。その真逆の代表として取り上げてくれたんでしょうか??。
当時の巨大ともいえるアンプやスピーカーは、今や邪魔者のように扱われ、音質もスマホ&イヤフォンの方がよっぽど良いという事もあるでしょう。これが世の流れというもの。70年代に高価な家具みたいなセットを並べて、それをステイタスだと悦に入っていたおじ様方が、スマホにダウンロードされた曲をイヤフォンで聴くことが出来るでしょうか。
形やステイタス等の目に見えるものに囚われていると、しなやかに変化して行くことが出来ないものです。それは自分で自分の身を縛り上げているともいえますね。それがかつての貴族や武士たちであり、現代では旧価値観に凝り固まった人達です。
音楽や芸術は時代と共に在ってこそ、その存在意味も意義もあると私は思っています。姿をその時々で変えながら、この風土から紡ぎ出された感性を脈々と受け継がれて行くのです。世の中は社会も生活も、市井に生きる人の感性もめまぐるしく変わって行きますが、日本の感性は古代から変わらない。ここにアイデンティティーや矜持があるのであって、目に見える豪華な形や肩書は幻想でしかありません。視点を変えると、変化の時に凝り固まった感性と戦うのが芸術家というものかもしれませんね。

ここ数年で配信動画が一般的になりましたが、生の楽器の音を欲する人間の欲求は本能的な部分で変わらないと思いますので、生楽器の音を聴く新たな形が今後出てくるのではないかと私は思っています。私がこの岐路に立たされた世の中で、新たな流れに対応しやって行けるかどうかは判りませんが、周りには生き方そのものを変えて動き出した人が少なからず居ます。全世界が岐路に立っている今、私という小さな存在もまた勝負どころに立たされているという事ですな。