急に忙しくなって来ました。今月はあちこちに出かけフル回転となりそうです。



昨日は安田先生のサポートで野村総研のセミナーでしたが、お仕事とはいえ、いつも安田先生のお供をしていると本当に勉強になりますね。ありがたい事です。明日(もう今日ですね)は熱海未来音楽祭のプレイベントで演奏収録、明後日は池袋あうるすぽっとでの本番舞台と続きます。
H氏が良く弾いていた樂琵琶
この時期になると毎年急に忙しくなるのですが、同時にふわっとH氏の事を思い出します。もう8年という時間が経っているのですが、私にはまだあの頃の時間がそのまま延長しているような気がしてならないのです。特に樂琵琶を弾いていると、もう物理的時間を速攻で飛び超えてしまいますね。氏とのお付き合いも短い間といえば確かにそうなんですが、本当に色々な事を教わり、様々な面で助けられました。先日も音楽家の仲間がまた一人虹の彼方へと旅立って行ったのですが、私の中では、まだ一緒に演奏した時間が続いている感じがするのです。
物理的時間の事をクロノス。身体的時間をカイロスと言うらしいですが、私は年を追うごとに、カイロスの方が強くなって、物理的時間を忘れてしまう傾向にあります。
以前ブログで書きましたが、昨年そして今年と、ギャラクシティープラネタリュウムでの演奏は、私にカイロスとしての時間を実感させてくれました。実に25年ぶりでしたが、もはや私の中の25年というクロノスはすっかり無くなって、私の心と身体はカイロス的時間の中を浮遊していました。
現代人は人類史上一番物理的な時間に支配されているようにも感じられます。生活全般に何でも時短でこなす事が出来るようになったのに、史上一番忙しく且つ時間に追われています。何かが変だと思いませんか。私はこの現代の社会や生活の在り方が、ずっと以前より、おかしいと思っています。
コロナの中で色々と想いを巡らせた方も多いと思いますが、正に今、時代は次の段階へとステップを踏み出し、心も身体も生活も社会も、大きな変化をする時期に差し掛かっているのかもしれません。人間にはどうしてもクロノス的時間では割り切れない身体=カイロスを捨てる事は出来ないのだと私は思います。
デジタルで区切れないこの身体は、不安定な「心」とも連動し、現実の中に新たなレイヤーを生み出し、芸術や宗教を通して過去に立ち帰り未来を志向し、クロノス的な時間を乗り越えて行きます。これから時間の概念そのものが変わって行く時なのかもしれませんね。
私にとって時間は過ぎ行くものではなく、また重なり行くものでもなく、漂うものとという感覚がつ言うです。たとえ何十年も前の事でも、私の中では現在と直結していて、日常の中に漂っていて、いつでも手の届く所に、その記憶は在るのです。
また自分の記憶だけでなく、古典に触れる事によって、古典世界と一体になるような感覚も年を追うごとに感じます。万葉集や新古今などパラパラとめくっていると、色んな情景が目の前に広がり、速攻で時間も空間も飛び超え、描かれている情景と一体化してしまいます。単なる変わり者とも言えますが、私はそこでいつも、何と豊かな、何と大きな、何と情感溢れる世界なんだろうと、毎度心が広がって、人間の営みの素晴らしさを感じます。言語芸術の究極は和歌だろうと私は思っています。

私が過去の記憶の中にすぐさま飛んで行けるのは、和歌に普段触れているからかもしれません。想い出は「想い出す」のではなくふと「想い出る」ものだと言われますが、H氏もギャラクシティーも、昔を懐かしんだりするというよりも、その頃の記憶と、今現在の私の心身が「ふと」一体化してしまうと言った方が合っているように思います。
現代の人間は、欲望を消費することで生きているようなもの。そんな欲望の消費を繰り返していたら、時間はただ過ぎて行くだけになってしまうのではないでしょうか。物理的なクロノス時間に追われ、追いかけているような人生では、万葉集や新古今の世界に心をゆだねるなんてことは難しい。そう思うのは私だけではないと思います。人間が本来の姿を取り戻すには、カイロス時間の感覚も同時に取り戻すことが必要だと私は思っています。つまりクロノス時間に支配されている現代人は、本来持っている身体を忘れさせられ、歪んだ状態に在るのです。私にはそう思えて仕方がないのです。
漂う時間の中に身を任せ、また想いを膨らませて、和歌や想い出を通して過去とも繋がりを感じられるような感性をいつまでも持ち続けたいですね。