静かな暮らしⅢ

すっかり春を感じる陽射しになりましたね。ちょっとご無沙汰してしまいました。今年は花粉症がしっかり始まっていまして、目のかゆみ、鼻詰まり、全身の倦怠感等々しっかり来ていて、ぐったりとしてます。コロナは相変わらずですし、先日の地震もあって、何かこのさわやかな春の陽気も素直に喜べませんね。穏やかな日々が戻って来て欲しいものです。

先日「三蔵法師 玄奘の旅路」という映画を観ました。「西遊記」ではなく、リアルな玄奘の旅が描かれいて、更には途中で立ち寄った中央アジア諸国の音楽や踊りもふんだんに使われている。この点が私の一押しポイントなんですが、玄奘役の役者さんも、ぴったりな感じで、信念を持って過酷な道に挑み進む姿が、変に盛った感じが無く、自然で素晴らしいです。なかなか素敵な作品ですよ。

観ていて俗事に日々振り回されている我が身が、かえって感じられました。俗世の中であたふたしている私のような凡人は、自分が何かをやっているつもりになっているだけなんでしょうね。
玄奘三蔵や、私が秘かに敬愛する道元禅師は、正に選ばれし者なのだと思いますが、私はこうした人達に何とも言えない静寂を感じます。そしてその静寂から多くの力や魅力が発せられているようにいつも感じるのです。きっと彼らの体には、大いなるものの声が響き、且つ導かれもするのでしょう。だからこそ世を超越するような信念を持ち、そしてその信念に従って、人智を超えた行動して行くのでしょうね。「運命はこころざしある者を導き、こころざし無き者を引きずる」。セネカの言葉通りだと思います。

私は凡人ながらも有り難いことに、これまで色々と仕事を頂き、本当に感謝しています。しかしどこか活動を展開するために音楽を創るようになり、活動に合わせた演目・演奏をするようになって、自分の内面から沸き上がる純粋な音楽とはズレが生じて来てはいないだろうか、という事を時に感じます。勿論合わないと感じたお仕事は丁重にお断りをするようにして、なるべく納得のいく形になるようにコントロールしているつもりではありますが、俗世の中にあっては、なかなか思う様には行きません。信念を最後迄貫いた玄奘とはまるで違いますな。しかしそれもまた自分に与えられた器であり、運命であるのでしょう。自分なりにしか出来ませんが、できるだけ自分の行くべき道を進みたいものですね。
池袋あうるすぽっと にて

今は幸か不幸か、割と日々静寂の中に身を置けるので、自分の内面と向き合う事が多くなりました。静寂を持つと言っても良いかと思います。静寂の中に身を置くだけでも、色んな声が聴こえて来るものです。そしてそろそろ色々な所を改めていく時期かな、と思ってもいます。まあ一つの周期が来ているという事でしょうか。形はともあれ、本来聴こえるべき声がしっかり聞こえるような暮らしや生き方をしたいものです。俗物は俗物なりに、自分の事くらい自分で何とかしなくては!。


「才能は静けさの中で作られ、性格は激流の中で作られる」などといわれますが、静寂こそが物事の源であるという事は常々感じています。そして現代社会に一番足りないのもこの静寂です。私があまりエンタテイメントに近寄らないのは、そこに「静寂」を感じないからです。


キッドアイラックアートホールにて 映像:ヒグマ春夫
楽しい、便利、みんなで盛り上がる…というものはとても嬉しい事だし、一見平和で一体感も感じられ、調和の取れたような雰囲気になるものですが、人は実はそんな所で繋がっているとは思えません。調和とはそんなものではないと思います。ネット社会でもフィルターバブルやエコーチェンバーなどという言葉がありますが、何となく調和したように見えるという事は、多様な感性に目隠しして見えなくするものであり、極端なことを言えば、忖度社会を助長し、全体主義的なものに容易に利用されてしまう。表面を演出し、カモフラージュしたエンタテイメントには、逆に危ういものを感じてしまいます。
かつて村上春樹は「人は傷と傷によって結びついている。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がているのだ。悲痛な叫びを伴わない静けさはなく、血を地面に流さない許しはなく、痛切な喪失を抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」と言いました。私はハルキストではないですが、この言葉には共感しきりです。表面的な楽しさを追いかけ、刹那を消費していたら、真実を見つめる眼差しは薄れ、こういう人とのつながりの本質を見失ってしまうように私は思います。


グルジア(現ジョージア)ルスタベリ劇場大ホールにて

私は色々なものに好奇心もありますが、そこに静寂を感じられるか、という部分が判断の一番の基準です。言葉で言い表すのはとても大変なのですが、ジョン・コルトレーンやジミ・ヘンドリックスのような激しい音楽にも静寂を感じますし、高橋竹山や海童道祖、宮城道雄の音楽にも大いに静寂を感じます
。表面の形の問題ではありません。残念ながら近代の琵琶歌には、静寂を感じたことはありません。

静寂とは何か。とても難しい問題ですし、理論化も言語化も出来ません。しかし生命は皆、静寂の中から生まれ出たのではないでしょうか。
山に入れば様々な音に包まれます。ただ人工の音はしません。私が歌や声、言葉に対してかなり厳しく神経をとがらせるのは、そこに個人の感情が乗り、人間の創り出した人口の世界が見えるからです。自然の中にあればあるほど、それらは違和感として目立ってしまう。つまり静寂とは無音という事ではないのです。
私は最終的にはこの静寂を求めて音楽を創っていると言っても良いかと思います。少しづつ、少しづつその静寂が我が手に感じられるような気もしています。今少し時間はかかると思いますが、ただ求めるのはその一点。きっと死ぬまで、こんなことを言い続けるのでしょうね。

静かな朝の陽射しの中で。

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