凍れる月

「4月は残酷な(きわまりない)月だ」これはT.S.エリオットの長編詩「荒地」の出だしの一節。第一次大戦後の不安を描いたものとして知られていますが、有名な言葉ですので、いろんなものに引用され、どこかで聞いたことがあるかと思います。またこれは4月を春の恵みの季節としているチョーサーの「カンタベリー物語」の出だしに対して書かれているそうです。この心地よい春の陽気とコロナウイルス。その真逆が混在する現実に身を置いていると、ついついエリオットのこの一節が口を継いて出てきてしまいます。

私はアイルランドの詩人W.B.イェイツが結構好きなので、イェイツの秘書でもあったエズラ・パウンドやパウンドと交流のあたエリオットなど、この周辺の作品は少しばかり読んでいました。このエリオットの「荒野」の編集にはパウンドも関わったとのことです。

世界を見れば、今や大戦やペスト同様の状況。しかし地元に居ると、皆マスクをしているくらいで、公園も商店街もいつもと全く変わっていないので、正直な所あまり実感はないのです。今後どうなって行くのでしょうね。
私はお陰様で今の所健康でいますが、さすがに演奏会はもぅ3月4月は全て中止、5月も少しづつ中止の連絡が来はじめ、多分全滅に近いと思います。西日本への長いツアーもあったのですが、これも無くなるでしょう。本当に残念です。9月に予定していた横浜能楽堂での津村禮次郎先生との共演も流れてしまいました。演奏会の無い音楽家程つまらないものはありませんな。
そんな訳で、夜は暇ついでについついお酒を頂く日も多くなりました。なんだか世の状況もしっかり把握出来ず、手も足も出ないとどうも気分もすっきりしないですね。一杯呑りながら部屋から夜空を眺めていますと、月も凍れているように見えてくるのです。この月明りの元、和歌が詠まれ、物語が始まった時代はまた来るのだろうか?。
今は無理に「〇〇をしなくては」と思わないようにしています。一杯呑るのもいいし、肩の凝らない映画を観たりしながら、自分の中に湧き上がるものを感じるまで、ゆっくりしています。毎日一応譜面なぞ机の上に置いて、思いついたフレーズなどを書き留めてはいますが、とにかくあるがまま身を任せています。こういう時期にゆっくり出来るかどうかが、創作に大きく関わってくるのです。安田登先生の言う、「魔術的時間を呼び出すための無為の重要性」つまり「而」という訳です。

善福寺緑地
音楽に関わって長い時間が過ぎましたが、どうしても音楽は音楽だけでは成り立たないという気持ちが、年を追うごとに益々強くなりまりますね。音楽が一人称のものでなく、リスナーや場所との関係、季節そして時代など、それぞれとの関係の中で成り立っていることを強く感じずにはいられません。自分を取り巻くあらゆるものの中で、私の音がどのように響き、調和しているかどうかにとても関心があります。その調和が最後には自分に還って来て、その時にはじめて「独奏」というスタイルが成立すると思っています。今は、あえて言えば世の中と調和する時でしょうか。
季楽堂にて photo MAYU

今、世界中に何が起こっているのか、正直な所、私には把握できていません。様々な情報を目にしますが、今後の人類の在り方に関して、何が良いのかはとても判断が下せません。しかし音楽活動に関しては、今後、これ迄のやり方ではもうやっていけないと思っています。
私は琵琶を手にした早い段階から流派や組織というものと距離を取ってやってきました。それはとても良かったと思っていますし、だからこそここまで活動を広げ展開出来たと思っています。しかし今後は同じ思考と視線では音楽家として生きて行けないだろうと思います。今迄もそう思っていましたが、それが急に目の前に突き付けられている感じがしますね。
今は、激動の渦の中に居る気分ですね。こんな時代に自分の今生が遭遇するとは・・・。でもまあ不謹慎ではあるかと思いますが、この世の中の変化が「面白くなってきた」とも感じるこの頃です。

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