深みというもの

穏やかな春の日差しが続きますね。そんな春の陽気を眺めながら、この向こう側に目に見えない脅威があるとは到底感じることはとても出来ません。このまま日に日に追い込まれて行くのかと思うと、なんとも切ないですね。

今年の地元善福寺公園の桜 なんだか今年は寂しげですね。
昨今の状況を見ていると、色んな意味で日本は、もう記憶の中に生きる段階に来ているのかもしれないと、そんな思いが自然としてきました。国家というカテゴリーに於いての「日本」という枠でなく、まあ言えばアジア圏位の感覚で、世界を舞台に活動してゆくような時代に入っているのかもしれません。私が面白いと思う方々は、すでにそういう活動を展開しています。
現代の日本システムでは、もう国家のトップたるリーダーが育たないだろうし、「日本」というものが何かを発信して行くことは、今後あるのだろうか・・・。そろそろこの身を現代日本から遠くに離して行くようになるかもしれません。元々俗世間を離れ、山の中に隠遁したい方ですからね。淀んだ枠の中に留まっていたら、精神が自由になれません。
尺八の晄聖君とヴィオロンにて photo 新藤義久
今は時間だけはたっぷりあるので、先日音楽仲間と、ゆっくり音楽談義をしました。その時に「深み」という事に話が行き着きました。
世の中に存在するものは全て、それまであったものを土台として、時代と共に新しく変わって行きます。工業製品であれば、只管スペックを上げて行くという道も一つの使命だと思いますが、芸術というものは、技術の精度が上がっても、逆に中身は落ちる例が多いと思います。
芸術や武道に於いて何かを受け継ぐには、ある種の否定を通り越さないと、受け継ぐものが見えてこないものです。何故そうなるかと言えば、否定無きままにやっていると、得てして全体を形のままにやることに終始し、何が受け継ぐべき核なのか判然としないまま、形になって満足してしまうからです。
形は整っているのに、だんだんとその核は見えなくなって、何だか判らないけれどありがたがって手を合わせている神社の様になってしまう事が多いですね。人間は常に生み出す力が漲って、どんどんと変化してゆくのが宿命というもの。留まっていたら、本人自身が一気に衰退してしまいます。

従来のものを否定した者は、新たなセンスで新たな形を創り上げてゆくしかないのですが、それをやればやる程、自分の中に残るどうしようもなく消すことのできない「もの」を自覚せざるを得ないし、最後にはそれこそが受け継ぐべき「核」であることを認識せずにはいられない。そこまで追い詰められて、初めて自覚出来るものとも言えます。だから歴史はアウトサイダーによって受け継がれ、次の時代が創られてゆくのです。
日本音楽の核を受け継いでいるのは邦楽人ではなく、実はロックミュージシャンかもしれませんね。

音楽仲間とは、このデヴィッド・シルビアンのソロになってからの3rdアルバム「Secrets Of The Beehive」を聴きながら話をしていたのですが、これを聴いていると、背景にそこはかとなく漂うブリティッシュミュージックの伝統を感じます。ツェッペリンなんかもそうですね。曲も形も手法も皆新しいセンスでまとめているのに、その根底に流れるものを感じるのです。そういう所に、ある種の厚みを感じます。
ロックは常に現状を破壊し、新たな時代の最先端を進むのが運命なので、焼き直しは最も似合わないし、リスナーが許してくれない音楽です。つまりお稽古事も物まねも一切通用しない音楽なのです。破壊と創造こそがその原動力であり、そのスピリット無くしては成り立たないだけに、リスナーは、どのジャンルよりも、その姿勢やセンスをかなり厳しく聴いているとも言えます。だからエネルギーに満ちているし、またただ大暴れしているだけのものも大変多い。
でもリスナーはそんな無駄なエネルギーも含め、破壊と創造を繰り返し、且つばく進しているそのスピリットに魅力を感じるのでしょう。そしてそこに何かしらの背景を見ると、それを「深み」と感じるのかもしれません。

広尾東江寺にて 笛の大浦典子さんと

邦楽をやっていると、「深み」とは、何か練りに練った熟練の技のように思いがちですが、その熟練の技の中に、その演者が継いできた「核」が見えた時に、大いなる深みと感動を覚えるのではないでしょうか。いわゆる上手なお見事さだけでは、まあ関心はしてくれても、リスナーを引き込むような感動は生まれませんね。狭い視野で「己の芸」ばかり見ている演者には、自分を支え育ててくれた風土や歴史・文化は見えません。歴史でも自然でも、それらと調和し、共生してこそ己が成り立つ訳なので、そこを感じずに自分と身の回りしか目を向けていなかったら、やはり底の浅いものにしかならないでしょう。むしろ己を離れ、手放し、自分の身をゆだねる位でなければ、背景にある「もの」や「核」は現れないのは当たり前のことかもしれません。

邦楽の衰退を見ていると、今、その視野を忘れているのかもしれない、そんな風にも思えてきます。デヴィッド・シルビアンのCDを聴きながらそんな想いが募りました。

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