先日、西新井ギャラクシティープラネタリュウムで行われた「冥界から現世へ~イザナギの冥界下り」を観てきました。

第一部がドームに映す映像作品「HIRUKO]、第二部が安田登先生率いる「ノボルーザ」による演劇という構成で、なかなか興味を惹かれる内容でした。作品の感想は色々とあるのですが、今回はそれよりも、自分自身のこれまでの事が色々と甦って来ました。
実は、私は25年前にこのギャラクシティーが開館した時に、映写技師としてここで働いていたんです。ここは東京で初めてのIMAX常設劇場として開館した所でして、私はIMAXの研修を受けて、映写を担当していました。
ここは西新井という東京と埼玉の境にあったこともあって、とにかくお客さんが少なく、入場者0の事も多く、待機ばかりの所でしたので、このドーム内で琵琶の練習を日々やっていました。作曲も色々として、それが元となってプロ活動へと歩みを進めたのです。5年程みっちりと(?)ドームで練習させてもらって、琵琶一本で活動を始める決心をして映写技師の仕事を止めたのですが、ありがたいことに、すぐに仕事が色々と舞い込んで、1stアルバムの発表へと突っ走って行きました。ここには若き日の様々な記憶が詰まっているのです。
20年ぶりの来館でしたが、なんだかワクワクしましたね。安田先生から現在運営をしている会社の方にご紹介を頂き、特別にコンソールルームなどを見させていただいて、もう感無量でした。今は機材も最新のものが入り、IMAXも撤退してしまっているのですが、25年前の記憶の中に、しばし浸ってしまいました。

今回は映像作品も良かったのですが、ノボルーザの「いざなぎの冥界下り」がグッと来ました。メンバーに笙の演奏家が入っていたのですが、その効果が絶大で、笙の音に導かれて、自分自身の過去から現在へと想いが巡るような気分になりました。
ノボルーザの演目はイザナギ・イザナミの古事記の物語でしたが、イザナミは火の神を生むことで死んでしまいます。一説によれば、そのこと自体が火山の噴火によって国が創られた象徴でもあるとされ、「いさな」は「鯨」を意味し、「き」は「男」、「み」は「女」とも考えられています。つまり海から生まれたという事を名前が象徴しているそうです。何か人間の記憶の根源を探るような感じがしますね。
人類は文字を持ったことで文明が栄え、特に現代は加速度を増してAiやITの技術が人間を脅かすほどなっていますが、文明は発展したものの、何か大きなものを見失っていると考えている人も少ないないはずです。個人を考えても、何か専門的なことを勉強すると、確かに知識も技も感性も鋭くなりすが、かえって知識がある分、その視点以外の所が影となってしまい、光を増す代わりに、影もまた増して行くものです。
芸術はそんな人間の根源に改めて光を当てる事も一つの役割ではないかと私は感じていますが、いわゆる「芸」はある特定のまなざしを持つことに特化していて、見えない部分を作り出してしまうとも考えています。何かを表現することで、色々なものと繋がり、光と影を内包させて行くのが私の理想です。しかしながら「芸を練る」などと考えてしまうと、芸を見せる聞かせることに心が執着してしまい、本来の芸術の姿を忘れて、お見事さを披露し、自己顕示欲を満足させる方向へと、どんどんと傾いて行ってしまいます。

30代の終わりころ組んでいたバンド、フルート・琵琶・ターンテーブル・シンセ
私自身も琵琶を演奏することで、大きなものを得てきましたが、同時に失ったものもあるのかもしれません。専門家に成れば成る程に、初心の頃の気持ちや感動を忘れたり、どこかに奢る心も芽生え、音楽家としての純粋な根源の姿を見失ってしまいがちです。自分の視線の届かない所は見えないものです。今回は琵琶を手にしたあの頃に今一度立ち戻ることで、何か浄化されたような気持になりました。

実はこのプラネタリュウムでは、来年私も安田先生と舞台を予定しています。まずは2月18日。この時はいつもの「耳なし芳一」を上演予定なのですが、ゆくゆく折口信夫の「死者の書」をやろうという話になっています。私にとってはまるで凱旋公演のような感じで、実に楽しみなのです。
今回は、まるで自分のルーツをたどるような時間を頂きました。そしてあれからもう25年が経ったのかと思うと、あっという間としか言いようがないですね。これからまた25年、自分のペースで、多くのものと繋がり、光を当てるような音楽をやれたら嬉しいです。まだまだ旅は半ばに差し掛かったところなのです。