ちょっとご無沙汰しました。4月は例年ですとわりに時間があるのですが、今年は妙に忙しく、演奏会で手一杯でした。
先日、第19回日本橋富沢町樂琵会にて、尺八の矢野司空さんをお迎えして演奏して来ました。

矢野さんはご存知の方も多いかと思いますが、現役のお坊さんであり、「尺八説法」という形で長いこと活動を続けている方です。今回は本曲「本調」「松巌軒霊慕」を演奏してくれましたが、説法の方は、「息」について色々とお話を頂きました。

ビュービューと鳴らして、ポップスを吹いて喜んでいるような尺八奏者が多い中、久しぶりに本来の尺八の真髄「一音成仏」を聴いた気分でした。
日本橋富沢町樂琵会では今迄にも、能の津村禮次郎先生始め、こういう日本文化の真髄を演奏する方にお越し頂きましたが、これからもこういう本物の和の文化をどんどんと応援して行きたいですね。
この日はもちろん拙作「まろばし」も演奏しました。「まろばし」は「一音成仏」という尺八の世界観を現代に新たな形で表してみたい、という志で作曲したものですが、リズム・メロディー・ハーモニーという洋楽の3要素を用いず、琵琶と尺八が音で会話をしてドラマを造って行くように作曲されています。尺八奏者にとっては、自由に思いっきり自分の世界を出せる曲であるだけに、奏者によって全く異なる表現が可能であり、且つ奏者の持っている世界やレベルがそのまま出てしまうという、ある意味恐ろしい曲です。
若手の演奏と、ベテランの演奏では全くアプローチが異なりますし、同じ世代でも視点や感性の違いなども、そのままダイレクトに出てしまいます。もうかなりの数の尺八奏者と演奏しましたが、実に面白かったですね。
司空さんはジャズも聴いてきた方ですし、アンサンブルもやって来た方なので、いわゆる尺八オタクのような狭い視野の演奏家とは全く違うのです。音程やリズム感などの技術もしっかりしていますが、洋楽的なそれではなく、尺八らしく表現されているのがいいですね。
正に現代の一音成仏を目指した「まろばし」にはぴったりの方とも言えます。

「意識して普段から呼吸をしている人は居ないですね」という所から始まり、呼吸をしなければ人間は生きて行けないのに、意識して呼吸をしていない、自分の意思ではなく何かによって生かされている。いったい何によって生きているのか・・・・。この辺から仏教的な話しを色々としてくれたのですが、
言われて見れば、普段は何の意識もせずに呼吸をしていますね。毎日自分で「生きてやる!!」といって呼吸をしている訳ではないですからね。こうした当たり前のことをよくよく考えてみれば、この命は何なのかというというところに辿り着くのは必然だと思います。私も説法を聴きながら、あらためて感じる事が大いにありました。
遠い昔、音律は物理の原則を究極的に表したものとされ、音律はとても神聖であり、音楽は政治支配には欠かせなかったそうです。大陸では何千年も前の古い遺跡から調律を施された楽器が出土していますが、そういうことを見ても、音律そして音楽は国にとって大事なものだったのでしょう。音律は世の成り立ちを表すものであり、音楽は正に生命そのものを示すものとして考えられていたようです。事実日本の雅楽でも、各調子には季節や方角、色など色々な決め事があり、人体や社会の何処に対応するかまで理論付けられていました。権力者がいかに音楽を重要視したかが伺えます。
まあ権威権力は別として、音がそのまま生命であると感じた古代の人の感性は、随分と鋭かったのではないでしょうか。きっと雷鳴や風の音にも多いなる命を感じていたことと思います。今のように音楽=エンタテイメントとしてしか受け取ろうとしない世の中では考えられませんが、尺八の古典本曲などは、その一息がそのまま命の一息だったのでしょう。そういうものがまだ現代に脈々と受け継がれているというのは素晴らしいですね。

歌って踊って、みんなで楽しんで・・というお祭り的な舞台が今やどんな分野でも主流ですが、じっくりと音楽を味わい、感性を羽ばたかせて、心を豊かにする音楽や音色は、しっかりと受け継いで、次世代に伝えて行きたいですね。それが私の使命のような気がします。
毎度小さなサロンコンサートではありますが、素晴らしい時間となりました。