伝えるという事

先日群馬県の榛東村耳飾り館というところで演奏してきました。館からは「耳繋がり」ということで声をかけて頂きました。なかなか粋ですね。今回は当初、私一人の独演会だったのですが、フリーアナウンサーの久林純子さんが全体のコーディネートをしてくれましたので、せっかくだからちょっと共演してみようと、私から声をかけて、地元の民話の語りと琵琶による短い作品「六月一日の氷もち」もやってきました。
榛東村は縄文時代の耳飾が多く出土している所で、その他遺跡なども多く、旧い時代には文化の中心地だったと推測されるようなロマン溢れる興味深い土地です。また雄大とも言えるような景色が素晴らしく、赤城山の裾野が夕日に照らされる様などは感動的でした。館内も響きの良い所でしたし、地元の方々の暖かい視線も感じられて、演奏も上々。暖かい時間を頂きました。

音楽は聴かせるだけではなく、伝えるという所までやりたいと、何時も思います。私のような地味且つ珍しい音楽をやっていますと、ともすると「やっている」という自分の中の小さな自己満足で完結してしまいがちです。音楽はリスナーあっての音楽ですから、何かしらリスナーとの共感というところまで出来るように、演奏して行きたいものですね。

  

最近話題の「ボヘミアン・ラプソディー」も先日観ましたが、バンドの演奏と観客との一体感は半端ないですね。ライブエイドでの映像では、何万人という人たちが一つになって、歌い共感し、熱狂し、特別な空間と時間が出現する様は、観ていてぞくぞくしました。クィーンはリアルタイムで聴いていたので、ぐっと来るものがありましたね。

邦楽と比べるのは勿論筋違いではありますが、演奏家とリスナーが心を一つにするような状況は、現在の邦楽では考えられないですね。もちろん邦楽なりのやり方があってよいのですが、邦楽にも邦楽なりの熱狂と一体感が欲しいものです。かつての永田錦心の活躍や、鶴田錦史が「ノヴェンバー・ステップス」を初演した時は、そんな熱狂がきっとあったのだと思います。

以前「良寛」の舞台公演のラストシーンでは、能の津村禮次郎先生と私の樂琵琶のデュオで、奇跡ような8分間を味わった事があります。その時は客席が早朝の湖面のように清浄静謐な雰囲気に包まれ、確かに会場の方々と我々二人は、何かを共有したという想いが満ちて来ました。
その時の津村先生は、良寛ではなく、良寛を取り巻く人々の総体と言えばよいでしょうか、能でいうとことの翁のような存在として舞台に存在していました。そこに言葉は無く、淡々と弾く私の「春陽」という作品で、抽象を超えた姿が舞台に現れたのです。

伝えるということは、こちらの想いを吐き出す事ではありません。力を込めて声を張り上げたところで、まあ関心はしてもらえても、そこに共感も感動もないのです。技術の問題ではないので、声が出ていようが、上手に弾こうが、一方向で押し付けても何も伝わらないのです。舞台は常にインタラクティブでなければ成立しません。邦楽はここの部分を忘れているように思えて仕方がないのです。

日本橋富沢町樂琵会にて photo Mayu

今、音楽は世界に配信出来るようになりました。私の作品も既に40曲以上発信しています。勿論世界から反応が来ますし、交流も広がっています。しかしただ配信するだけでは、大声張り上げているのと同じ。伝わらければ・・・・。国境を越え、世代を超え、時代を超えて行く音楽を日本から発信したいものです。

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