昨日、第16回日本橋富沢町樂琵会「薩摩琵琶と筑前琵琶聴きくらべ」をやってきました。今回のゲストは田原順子先生。

その時は笛の相棒大浦典子さんと私の代表曲(当時は出来たてほやほや)の「まろばし」を演奏したと思います。まだ私が勢いだけで中身も何にも考えずに突っ走っていた頃でした。田原先生は、そんな私にその時から着かず離れず、ずっとエールを送ってくれたのです。

私はあの頃も今も、自分で作曲したものだけを演奏して廻っています。流派の曲は今迄舞台では一切演奏したことがありません。楽器もオリジナルモデルですし、流派や協会というものにも属していません。こうした今私がやっているような独自の活動をもう30年40年前から展開してきたのが田原先生なのです。私はいわば先生の背中を見て、これ迄やってきた訳で、紆余曲折、幾多の失敗を重ねながらも、あまり迷うことなくやってこれたのは、田原順子という先達が居たからこそです。私が田原先生の新しい琵琶楽を創造するその姿に憧れて、その轍を乗り越えようと、がんばってきたのです。
声をかけてもらってから20年以上経ち、やっと私の会に先生をお呼びする事ができたことは、実に実に嬉しい事でした。私は滅多に「あがる」なんて事は無いのですが、昨日は妙にそわそわしてしまって、ミスを連発してしまいました。

こんな2ショットが撮れるとは、あの20年前の「和音」のライブの時には思いもよりませんでした。ずっと演奏活動をやってきて良かったな~~~~。
昨日の会で、先生は筑前のご祝儀曲「千代の寿」、そして宮沢賢治の「龍と詩人」を演奏してくれました。「千代の寿」は何か日本橋富沢町樂琵会を寿いでくれているのかな??なんてことを思いながら聴き、「龍と詩人」は私の好きな文学作品でもありますので、その物語の世界にすっかり入ってしまいました。
田原先生はご自分でもよく言っていますが、いわゆるテクニシャンではありません。大声が出るとか、コブシが廻るとか、早弾きできるというものとは対極に居ます。邦楽人はともすると目の前の「お上手」「お見事」を追求してしまって、音楽を忘れてしまう人が多いのですが、いくら技術が見事でも、音楽が聞こえないようでは、ただの素人の手慰みでしかありません。
先生の演奏は、何よりも音楽が聞こえてくる。そして語っている世界に導かれる。お見事な声で宮沢賢治を語るのではなく、先生独自の声と語り口で、その描かれている世界に誘ってくれるのです。

琵琶人の中に田原先生のような方が居て本当に良かった。こういう人が居なかったら、琵琶はただのお稽古事となり、衰退どころか絶滅していたかもしれません。永田錦心~水藤錦穣~鶴田錦史と続く創造の精神が、今、田原先生に受け継がれているのです。
時代と共に在り続けるのが音楽。新しい時代に新しい琵琶楽を創り、琵琶の新時代を築いた永田錦心の精神は、残念ながら組織の中では今や全く忘れ去られしまいました。既に永田錦心存命の時から、門下の中で目の前の技巧に走り、お見事を自慢する風潮が吹き荒れていましたが、永田錦心はそれをたいそう嘆いていました。しかし彼の創造の精神は、水藤・鶴田という女性達によって細々ながらもしっかりと受け継がれ、現在では田原先生に受け継がれています。
昨日私は「風の宴」という曲を弾きました。先人の起こした風を我が身に受け、それを次世代へと届ける、そんなメッセージを込めた曲です。
永田錦心から田原先生まで受け継がれた風を私が受け、そして次世代へとその風を渡す事が、これからの私の仕事です。
昨夜は、この20年を振り返り、そんなことに想いを馳せた一夜となりました。