闇夜の国から

随分と気温も下がり、秋も深まってきましたね。都内ではまだ紅葉は楽しめませんが、冬に向かうこの感じ、結構好きなんです。

奥多摩の紅葉

今日はすっきり秋晴れ。しかし天邪鬼な私は、秋晴れのさわやかさも大好きながら、どんよりとした雨や雪の日の風情も好きで、そんな日は何とも詩情が掻き立てられます。加えて夜の闇は私にとってとても大切な友であり、大好きな時間なのです。夜の闇中に身を置いていると創造力が掻き立てられ、本当に様々なものが思い浮かび、妄想も想像も含め自分の感性が沸き立つのです。なんといっても夜の闇こそは、孤独に浸れるひと時なのです。孤独は芸術の源。それは人間の存在が本来は孤独だからではないでしょうか・・・。
現代の世の中は楽しくて、気分を紛らわせてくれるものがいっぱいありますが、そこに遊んでいるだけでは、個としての存在の孤独は見えてこない。その孤独に対峙するからこそ、詩が生まれ、芸術が生まれるのです。闇あればこそ光があるというもの。闇こそは創造の神なのかもしれません。闇の無いところに光は差さないのです。

室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの~」という詩は有名ですが、犀星の生きた人生を思うと、彼も孤独に対峙し、且つ孤独に負けなかったからこそ、あの詩が出てきたのだろうと、いつも思います。私の本当に好きな詩なんです。興味のある方は犀星の生い立ちなど調べてみると良いですよ。

燦々と照り輝く太陽の下には、笑顔や楽しさが溢れていますが、ただ楽しい、綺麗なだけのものは、あまりに弱々しい。楽しいのも綺麗なものも人生にとって大切なことですし、素晴らしいですが、美しさと醜さは一体であり、どんなものであれ、いつか朽ち果てるからこそ輝いているのです。闇があるからこそ、個としての孤独を実感しているからこそ、楽しさも喜びも際立ち、混沌の中に身を置いてこそ洗練が生まれるのです。私があまり現在の邦楽に魅力を感じないのは、はっきり言って闇を感じないからです。

闇や孤独というと何かネガティブで、精神的疾患のように思う方もいるかもしれませんが、孤独とはただ寂しいことではなく、自分自身を見つめることです。そして社会の中における自分の存在も認識し、自分はどうあるべきか確信することです。寂しさに負けて酒をあおることではありません。
「人の心は調和よりも傷と傷によって深く結びついている。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ」と某作家は言っていますが、傷や脆さを経験するということは、我が身の孤独を知ることでもあります。何事もままならぬ現実の中で、自らの孤独を自覚している人は、人間は一人では生きることが出来ないということを心底感じていることでしょう。また他に寄りかかることの怖さも感じているでしょう。だからこそより多くの友を得て、且つ必要以上に寄りかかることをせず、己の力で素晴らしい仕事も成し遂げるのではないでしょうか。私はいつもそう感じています。
かのゲーテも「涙と共にパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない」と言っています。涙の意味は色々だと思いますが、孤独と対峙することは、人生においてとても大切なことなのではないでしょうか。

人間の懐の深さは、常に闇を見据え、孤独と対峙しているかどうか・・・。私はそんな風に感じています。
同じ傷は共感できても、違う痛みは受け入れられない。自分と同じ価値観のものしか判らない、近寄らない、常にお仲間とつるんでいるような、そんな小さな心が増えて欲しくないですね。
我々舞台人は常に、我が身を晒け出すことで生きています。己の傷を抱え、脆さを悟り、孤独である自分を認識し、そんな自分の身を晒さない限り舞台には立てないのです。肩書きをまとい脆さも傷も隠し、己を飾り、スポットライトだけを浴びたい人は、お稽古で楽しんでいる方が幸せです。自分の居心地の良い所だけに安住せず、あえて波騒の中に身を置き、闇を心に持ってこそ舞台に立てるのです。そんな隠す所も無い生身の心と姿で居るからこそ、同じ生身の人間同士、色んなジャンルの人とコミュニケーションが取れ、あらゆる価値観の共存共生が出来ると、私は思っています。

福島安洞院にて津村禮次郎氏と

少なくとも音楽は人間の小さな心を開放し、目を開かせ、感性を無限に羽ばたかせて、感動を分かち合えるものであって欲しいです。

今は無きキッドアイラックホールにて。SOON・KIM、牧瀬茜、ヒグマ春夫各氏と

人間の弱さ、いやらしさ、小賢しさがあぶりだされるのも、また芸術の持つ闇なのかもしれません。

今宵の闇は私にどんな世界に誘ってくれるのでしょう・・・・?

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