GWも終わり、外は新緑に溢れ、もう暑い位の日差しですね。身体もやっと季節に慣れ、色んなものが動きだしてゆくようです。

GW前後は、毎年何故か演奏の仕事が少ないので、色々と雑用をこなし、譜面に向かって、夜は夜で、毎夜面白い連中と出歩いていることが多いのですが、今年はそんな中で、よくお世話になっている舞踊作家協会の公演「奇才?天才?北斎!」を観て来ました。
昨年の3月には同じ作家協会の定期公演で、「ただありて~白道の章」という創作の舞台を、私の樂琵琶と花柳面先生、萩谷京子先生とでやりましたが、近年の舞台の中でも記憶に残る作品となりました。舞踊作家協会では本当にいくつもの舞台をやらせてもらって、良い勉強をさせてもらいました。
さて今回観に行った作品ですが、色々な踊り手が夫々短い作品を持ち寄るオムニバス形式で構成されいて、面先生は鼓の福原百之助さんと一対一で作品を上演しました。
これが本当に凄かった!!。短い作品でしたが、これほどに充実した気迫を感じるレベルの高い舞踊作品は滅多にお目にかかれないと思いました。二人とも近世邦楽の古典が身に沁み渡っているだけに、創作なのに古典を十二分に感じる作品でした。ああいうものはちょっとやそっとじゃ成立しません。徹底して古典を習得してこそ成り立つ創作であり即興でした。長唄や歌舞伎の歴史と底の深さを感じましたね。まさに日本芸術の最先端。終演後には、一緒に観ていた歌舞伎マニアのサウンドクリエーター 清水弾君と「あれは凄すぎた」とひとしきり盃を重ねてしまいました。
鼓の百之助さんの演奏も久しぶりに聞きましたが、「良いキャリアを重ねてきているんだな~」と実感しました。私が琵琶の活動を始めた頃に共演して以来の知人ですので、こうして邦楽の世界で夫々の道を歩んでいるというのは嬉しいですね。久しぶりに話も出来て楽しい夜でもありました。それにしても洗練された古典の力は凄いです。こういうところが薩摩琵琶との大きな違いです。
厳島神社演奏会にて
基本というものは、流派のやり方というものとは違います。能の様に長く深い歴史のある芸能だったら、洗練を経た型の中に精神や感性が満ち、流派の基本、哲学を含め、日本文化の根本が溢れている事でしょう。しかしたとえ能といえども単なる流派のやり方をなぞっているだけでは日本文化の本質は見えてこない。その奥にあるものに目を向けない限り、見えては来ないのです。
薩摩琵琶のように歴史も浅く、先生によって歌い方から弾き方までまちまちで、芸術的な精神や感性、哲学、発声法さえも確立しておらず、更には琵琶を生業としている先生もほとんど居ないという状態では、ただ先生個人のやり方があるだけであって、それは琵琶の基本、日本音楽の基本とはおそよ遠いものでしかありません。流派というものが本当の意味で確立している能などとは、残念ながら程遠い。
基本とは何か。とても難しい問題ですね。現代の日本人はすぐに「感覚、直感」と云い、考える事を止めてしまいますが、その感覚や直感はどこから発せられているのでしょうか?。寄って立つところはどこなのでしょうか?。感じるということとは何かの土台や基準があってこそ感じるのであって、それぞれの哲学の上に立って出てきます。哲学は風土や歴史、伝統の上に成り立っています。そういうものがあるから人間なのであって、そういう根底に目をやらないとしたら、唯の動物でしかない。これだけものが溢れ、情報に振り回される時代だからこそ、我々の基本を再確認することが、今重要なのではないでしょうか。
上述の清水君とも話していたのですが、その人が何を基本としているか結局舞台にすべて現れるのです。自分が何を基本とし、どんな哲学を持って舞台に挑んでいるのか、そういうところを我々舞台人は問われているのです。
自分の基本となるものをしっかりと理解している人は、先ずぶれが無い。その上、広く日本の文化や歴史に目を向けている人は、多くの分野から得るものがあるだろうし、更に世界と繋がる現代という時代を捉えている人は、「世界の音楽・芸術の中での日本の芸術」という意識と大きな視野が生まれるから、面先生のように最先端でありながら深い日本の精神や哲学を表すことが出来る。そしてその眼差しや精神は、世界の人が見たら驚くようなレベルの作品を創り出して、千年以上に渡り古典から続く日本芸術の豊かさを世界へと発信して行くことでしょう。
逆に視野がお仲間や流派などという、小さく狭い、自分を取り巻く極小世界しか観ることができない人は、いつまで経っても仲間内から抜け出せず、お稽古事のお浚い会以上の舞台は張れない。
