聖夜に集う

今年もクリスマスミサに行ってきました。もう何だか毎年の恒例行事化しつつあります。琵琶奏者はそれでなくても、壇ノ浦やら敦盛やらと、人の死ぬ話ばかりやっているので、世の中のおめでたい時期には仕事が来ないのです。という訳で毎年年末年始はのんびりしているのですよ。以前は忘年会と称して毎晩繰り出していたのですが、地元のルーテルむさしの教会とご縁を頂くようになってからは、心身ともに一年間の溜まりに溜まった罪業を清めるためにクリスマスミサに参加してます。

ルーテルクリスマスミサ2016年

ルーテル教会は「歌う協会」といわれるくらい音楽が盛んで、武蔵野教会では私も何度か演奏しています。和久内明先生主宰の3,11の集会に参加しだしてからのご縁なのですが、当時の牧師 大柴譲治先生との出会いが私を教会に向かわせました。何故か大柴先生の話はいつ聴いても私の体にす~と入ってきました。不思議なものですね。私自身が色んな話を受け入れることが出来る時期で、そのときに大柴先生に出会ったということでしょうか?。
壇上からの説教はいつも素晴らしく、今でもよくその内容を覚えていますが、個別にも色々と声をかけてくれて、どこか解き放つことが出来なかった私の心と体が随分とほぐれて行きました。まあこれも縁ということなのでしょう。またこの教会は散歩にちょうど良い距離にあるということもあり、イースターコンサートやバザーなど暇に任せて通わせてもらってます。

教会はとにかく先ずどんな人でも迎え入れて、みんなで歌おうというあの姿勢が嬉しいですね。中身は勿論、姿勢からして愛情に溢れているということは、この時代にあってとても大切な事ではないかと思えるのです。今年から大柴先生は大阪の教会に転任になり、新たに浅野直樹牧師に代わったのですが、浅野先生もとても爽やかな感じの方で、今日のミサも楽しく、いつもしかめっ面している私も穏やかな顔つきになりました。

11-9ルーテル武蔵野教会ではクリスマスイヴ音楽礼拝といっていて、毎年東京バッハアンサンブルが演奏してくれます。ここは豪華で大きな教会ではなく、小さな街の教会なのですが、弦楽合奏とオルガン・合唱、それにソプラノ独唱が付き、派手ではなくとも、とても豊かな雰囲気になります。今年もソプラノ歌手の歌声が染みましたね。やっぱり声の持っている力は凄いものがありますね。
聖書の中にも「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉のうちに命があった」と書かれていますが、日本の言霊にも通じます。それだけ言葉を声に出すという事はどの国においても重要な事だったのでしょうね。

毎年恒例の、ミサのあとにやる野外でのキャロリングも勿論参加しました。冬空のした、ホットワインを飲みながら皆で歌うというのは、何とも愛に包まれている感じで嬉しいですね。普段知らない内にささくれ立っている心の棘も消えてゆきます。中にはキャロリングに行くといつも会えるという人も居るし、今回は9,11の会に何度か参加してくれている高校生のお母様からも声をかけていただきました。

ルーテル武蔵野教会3

殺伐とした世の中が続く昨今ですが、「橋をかけ」て色々なものを愛を持って迎え入れたいものです。つながってゆく事を忘れてしまっては、社会全体が疲弊してしまいます。競い合う事はレベルを上げることに繋がって行きますが、自分の優位を誇り、他を排斥して争いあっていては何も生まれません。壊れてゆくだけです。

私はいわゆるエンタテイメントの音楽はやりません。ただ何をやっても根底に「分かち合う心」や「迎え入れる心」を忘れないでいたいですね。私のやっている音楽は賛美歌のように誰でも口ずさめるものではないですが、独りよがりの小さな世界にはまり込んで、稽古で習った得意な曲を披露するような、自己満足の演奏だけはやりたくないのです。ただただ音楽、そして私の表現する世界を、その時々の時代の感性で聴いてもらいたいのです。

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時代とともにあってこそ音楽。時代の中で響いてこそ音楽。そしてどの時代にあっても「愛を語り届ける」音楽を奏でたいものです。琵琶の響きも、もっと多くの人に届いてゆくと良いですね。

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