先日、キッドアイラックホールにて「三倍音」のライブをやってきました。灰野敬二、田中黎山そして私という組み合わせはこれまでも何度かやって、レコーディングもしてきたのですが、本格的なライブを張ったのは初めてでした。


即興による演奏なので、何も決められたものがないのですが、その分、何を考え、どこを見て、どのように生きているのか、というところを厳しいまでに問われます。型も何もないだけに、今の自分の姿がそのまま出てしまうのです。
さすがに灰野さんは強烈でしたが、今回はお互いの質の違いと共通点、また今後の可能性など色んな点が見えて来ました。やっぱり即興という音世界では観客だけでなく、自分の目の前に自分という存在が嫌がおうにでも突きつけられるのです。あらためて身を晒して生きて行く舞台人としての我が身を実感しました。
サウンドはなかなか凄いものが出てきて、最初のセットはもう「新世界が出現したか」!?というような新鮮なものでした。2回目のセットはどうもちぐはぐになってしまいましたが、もう少しお互いの意見が統一されていたらもっと良くなったでしょう。しかしながら、かなりの可能性があることは確かです。このトリオが今後活動をしていけるかどうか判りませんが、私なりに大きなヒントを得たように思います。

私は色々な活動をやっています。節操のないやつと思っている方もいるかもしれませんが、樂琵琶での活動も、薩摩の弾き語りも、こうした即興演奏も皆私の中では一つに繋がっています。また色々な側面から琵琶に取り組む事で、常に刺激と発見があるのも確かなこと。琵琶=弾き語り、古風などという固定概念をぶち敗れるのは、これら様々なアプローチを常にしているからに他ならないですね。逆に言うと、お教室で習った弾き語りしかやらないというのは、私には理解が難しい。
一つの形やスタイルに拘るのは判らないことではないですが、ようはスタイル云々より、自分の世界を表現しているかどうかということが大事なのです。お稽古した曲ではなく、純粋に自分の世界を表現し、活動をしている琵琶人はどれだけいるだろう・・?
私がやろうとする世界はとても一つのスタイルじゃ表現しきれないですし、溢れ出る想いを表現するには、多様な形がどうしても必要です。美なるものは一つではない。いつの時代も美は多様ではないのでしょうか。これだけで良い、というのはある意味他を拒否して、小さな世界に逃げ込んでいるようにも思えます。自分の世界を柔軟な姿勢を持って、どこまでも突き詰めて行くのが音楽家でしょう!。
また私は琵琶という楽器を選択した時から、自分に繋がる歴史、琵琶の持っている歴史、日本社会の歴史など存在が背負っている歴史に興味が沸いて来ました。その受け継いでいるものを受け私、表現して行くかというのも大きなテーマになっています。
今に生きる音楽を演奏し、創り上げて行くのには、むしろ形は変えて行かないと、核心は伝わらない。それは言葉だろうと、食事だろうと生活だろうと、人間に関わるすべてに言えることです。時代とともに、社会とともに、その様式は変化してゆくのが自然なのです。万物は流転し続けますが、人間という存在は変わらない。感性や生活様式が変わっても、人間は人間でしかない。とにもかくにも核心を伝えられるか、そこだと思います。
そして日本というものに拘りすぎるのもまた大きな落とし穴。日本文化の形成には、古代から現代まで、海外との関わりの中で形成されていったことを考えれば、ある特定の時代しか見ない小さな視野は、結局日本という歴史ある国を全く見ていないといいう事でもあります。
「三倍音」のライブでは「アジアの風」を感じたというご意見が多かったですが、私はとても嬉しかったです。日本ではなくアジアというところが嬉しいですね。このオリエンタルという感じは、どこで演奏してもよく言われますが、私の音には日本よりもアジア全体の文化が土台にあるのかもしれません。
またその中に日本というかなり具体的なものが出てきても、それが作為的でなく自然であるのであればOK。染み付いた型をはずすにも、それが作為的になってしまうと、音が死んでしまいますが、自分の顔かたちが変えられないように、自分の血肉となったものは素直に晒す覚悟もまた必要。型のない即興だからこそ、無国籍にはなれないのです。生きる土地の無い人間というのは居ないのですから。
刺激的な夜でした。琵琶の可能性に乾杯。