ここ数年、語る人との共演が随分とあります。以前から、俳優の伊藤哲哉さんをはじめ、色んな人とやってはいたのですが、昨年あたりからさらに語り手から声がかかるようになりました。京都では馬場精子さんと、先日は櫛部妙有さんと御一緒して、その他にも語り部さんにはどうもモテモテ状態です??。樂琵琶での共演が多いですが、やはり色が一つになり易く、情念的になってしまう薩摩琵琶よりも、個の想いを越え、どの方向にでも飛んで行ける樂琵琶の方が合うんでしょうね。
今週末3日の土曜日には、この所演奏しているキッドアイラックホールにて、馬場精子さんと2度目の共演をします。樋口一葉の「十三夜」をやるのですが、今回は尺八の田中黎山君に音楽を任せました。馬場さんが田中君のCDを気に入ってくれたこともあるのですが、田中君も自分の作品が自分のライブ以外で世に出るのは初めてで、馬場さんも本格的な東京での公演は初めてだそうです。二人とも気合を入れて取り組んでいますので、是非是非お越しくださいませ。私は珍しくサポートに徹します。
19時30分開演です。
私は1stCDから器楽として琵琶を弾いていて、琵琶の音色で色んなものを表現しているので、弾き語りを安易には演奏出来ないですね。稽古しただけの得意曲を唸っているようなことは到底できないし、聴いてもいられません。琵琶弾きと言っている以上、琵琶の音で自分の世界と哲学を表現出来てナンボ、というのが私のスタイルであり信念です。
こういう私が語り部さんとやるのですから、語り部さんも大変でしょうね。馬場さんとは、東京、京都で離れているので、しょっちゅうメールであれこれとやり取りをしています。私も共感する題材でないと一緒に出来ませんので、とにかくたっぷりと話をしながら高めて行く作業が必要になりますね。
岡田美術館にて
「語るとは何か」この命題を考えるとかなりはまってしまいますが、そもそも言葉を声に出すということは古代において、大変な霊力があると思われていました。言霊ということもよく言われますが、現代に於いても詞を口にするということはとてもとても大変なことだと思います。
何故自分がこの言葉やストーリーを語るのか、何故今語る必要があるのか、こういうことが自分の中で納得できない限りは、声は発せられません。舞台でやるにはそれだけのモチベーションが無いといけませんし、何よりも哲学が無いようでは表現することも出来ません。
邦楽全体で今、本当に想いを持ち、表現をしている人がどれだけ居るだろうか・・・?。ギターの弾き語りでライブをやっている若者は、皆自分の想いしかない所でやっている。上手いも下手もないし、ただ自分の湧き上がる衝動にのみ支えられている。しかし邦楽は幸か不幸か、お稽古をして、得意になったものをやっている。現代の社会に於いてどちらがより聴衆に届くのだろうか・・・・。
どんな上手に発音する事よりも、言葉にもならない思い、衝動を持って声に出そうとする方が私にはぐっと来るのです。言葉を声に出す以上、伝わってナンボ。いくら伝統だろうが何だろうが、リスナーの心に届かなければただのお上手。厳しいけどこれが現実です。
語るということ、言葉を発するということの重みは年々私の中で大きくなるばかりなのです。