歌の姿

梅雨が明けましたね。夏の耀くような日差しは見ているのは好きなのですが、暑さにはとにかく弱いので、昼間は部屋の中から眺めています。

2016江の島2
梅雨明けの江の島

先日は久しぶりに、福原百七さんが同人として頑張っている「長唄五韻会」に行ってきました。皆さんその道の玄人さんなので、さすがのレベルでした。
私はこの会や他の会でも出演させてもらっているのですが、やる度に家元のもとで修行してきた邦楽の演奏家と自分とは、雰囲気が随分違うなと思っていました。こうして少し離れた所からじっくり聞いてみると、と改めてその違いを実感しました。

10郡司敦作品個展にて
御存じのように薩摩・筑前の琵琶は歴史が浅く、組織が出来上がってまだ100年程。特に私の弾いている錦琵琶は昭和になってから楽器が出来上がり、流派として創流され、その錦琵琶の中でも私が少しばかり習った鶴田流は、「流」と言われ出したのが80年代以降ですから、何百年と組織を維持してやってきた長唄とは、もう歩く姿から何から何まで違って当たり前なのです。
それにしても五韻会の皆さんは所作が良いですね。若き家元のHさんも落ち着いた、「らしい」風情になっていました。そして面白いことに、彼らの風情は能や雅楽の人ともまた違うのです。実に興味深いですね。

私は小学生の頃からギターを弾いているので、作曲したり演奏したりする時にギターの知識と経験がとても役にたっていますが、そういう所も一つの私の風情となっているんでしょうね。先日の神戸の方丈記公演の時なども、美術評論家のMさんが「塩高さんはロックですね~~~」と言ってくれましたが、それが私という人間なのだと思います。最近はそういう自分の風情をすんなりと受け入れることが出来るようになりました。また本来の自分のありのままに生きることは年齢を重ねれば重ねる程に、大事なことのような気もしています。
私のこういう風情は、やればやる程、どんどんと邦楽の型や枠から外れて行きます。普通にやっているつもりでも、人から見るといつも俺流という風に見えるようです。こんな感じで常にno borderであるのが私の姿です。このスタイルですから。お付き合いする人も皆、枠に収まるような人は居ないですね。外国人のお客様が多いのもまあ私らしいですね。

2014年阿佐ヶ谷ジャズストリートエピフォン8

          阿佐ヶ谷ジャズストリートにて  最近は相棒がepiphoneに変わりました

最近ギターを弾くのも良いなとよく思います。毎年出ている阿佐ヶ谷ジャズストリートには今年も出ますが、とにかく思うことは、何をやろうが自分の中で繋がっているのだから、外側の目を気にすることはないということです。どこまでも自分らしく生きることに尽きると思います。今自分が感じることは何かのきっかけと必要があってこそなのだから、素直に身を委ねれば良いのです。だからこそ自分の音楽が具現化されるのです。

最近はよくブログにも書いていますが、歌に関して本当に色々と感じることが多く、弾き語りに於いては自分の歌を歌いたいという想いがとても強くなりました。「経正」「敦盛」は自分の歌として作詞の森田亨先生と創り上げましたので確かに申し分ないのですが、これだけでは足りない。歌や声をメインにしていこうとは思っていませんが、声や歌を一つの表現の形として行くのは、自分の音楽に必要だと感じていますので、もっとレパートリーに歌が欲しいのです。歌に限定しなくても語りでも、別の形でも良いのです。

150920-s_演奏冲4岡田美術館にて
単に得意な曲ではなく、自分が人生賭けて歌いたい歌。そんなものを歌いたい。自分の中からそのまま出てきた歌を歌いたいのです。一人一人顔も声も違うように、自分だけの歌を歌いたいのです。借り物の歌では何も届かない。どんな名曲も、自分の懐に入って来て、尚且つもう一度私の中から歌が湧き上がって来ない限りは演奏は出来ませんね。

やっぱり私は創るしかないですね。まだ薩摩琵琶には古典というものが無いのですから、創るしかないでしょう。


果てしないですね、音楽は。

夏の日の徒然に・・・・・・、。

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