先日稽古について書いたら、反応が沢山ありました。まあその反応を狙ったともいえますが、お前の言う通りという人もいれば、お前は判っとらんという意見もあり、それぞれの意見が皆、その人「らしいな」と思えました。

小さな島国でしかも、ほぼ単一の民族だけで歴史を継いで来たからでしょうか、日本人は多様なものを受け入れるということが苦手ですね。そういう精神的土壌が無いのでしょう。急激なグローバル化に、ある一定以上の世代の意識がまるでついて行ってない。時代の流れに乗れないその感性が、今の国や経済の状態をそのまま表しているような気がします。
日本人の代表的感性として「べき論」ということがよく言われます。何か一つのやり方を貫くことが美徳で、色々な選択をしようとせず、「かくあるべき」という考え方からどうしても抜けられない。邦楽のような超の付く保守的な世界では、まあお決まりの「これは◯◯ではない」などということが未だによく言われます。どんな邦楽や琵琶楽があっても、判断するのはリスナーですし、別に法律がある訳じゃなし自由だと思うのですが、どうしても自分の関わっているものとそれ以外を区別し格付けし、正統だの亜流だのと、「◯◯でなくてはならない」という排他的とも言えるような頑なな態度から離れることが出来ない。このままで本当に良いのでしょうか・・・・・?。
そしてまた体裁というものを整えないと落ちつかないのも大きな特徴ですね。琵琶は明治から大正にはそれこそ、30も40も流派会派があり、それぞれ宗家やら代表やらを名乗っていたそうですが、まあ今も「俺様一番」のような小さな村社会意識は相変わらずですね。
厳島神社にて
先のブログにも書いたように、私は「芸は手から手へ」というやり方がとても良いと思っています。しかしその他のやり方を認めないという姿勢はいただけない。CDやYoutubeを聴いて勉強するのは結構だし、独学だろうが何だろうが、良い音楽が出来上がればそれで良いのです。力のある人は、みるみるまに伸びて行くし、人が出来ないことをどんどんと実現して行きます。しかしながら、一人でやるにはかなりの感の良さや、様々なスキル、素養が必要なこともまた確か。独学で一流になるには並の力では到底出来ません。誰もが出来るというやり方ではないですね。
今の邦楽教育の問題点は、どういう人にも一律に同じ教え方をしようとする所だと思います。生徒それぞれの個性や能力を見極め個々に合わせて教え方や内容を変えることをしない。つまり先生側のスキルが時代に追いつかず、対応できていないのです。時代と共に変わることが出来ないものが衰退して行くのは世の習いですね。

師匠について稽古する事の良さはどんな所にあるのでしょうか。それは、形の上からでは見えないものを教えてもらえる事ではないでしょうか。例えば日本の土壌が育んだ深い感性、更には舞台上での所作の持つ深い意味、また技術的にはリズム感や、発声に必要な筋肉の動きetc.こういう事はなかなか見ているだけでは判りません。上辺を真似ていても、中身が判っていないと、応用も効かないし、自分の中で必然になって行かないので、結果的に余計な動きをしたり、俗にいう変な癖がついてしまう。当然の如くあるレベル以上には上達もしないし、いつまでやっても深まらないという訳です。武道などでも全く同じですね。
習う側も言われた事を一生懸命やっているだけでは、大して見えて来ません。、色々な面を考えて、試して練習しなければ、いくらやっても会得するものは筋肉痛位なものでしょう。がむしゃらにただやっているのは、やっている自分が満足しているだけです。筋肉痛から何を想い、何を考え、どう工夫して行くかが練習であり、稽古なのです。「練習とは只管考えること」だと私は思っています。けっしてフレーズを何百回も弾くことではありません。

古典として洗練された形を持ったものに関しては、師匠についての稽古は必須だと思います。例えば雅楽、平曲、能、長唄、こうしたものは、土台自体が今の時代の感性とは違うもので出来上がっている上、長い歴史の中で練りに練って仕上げられた洗練も、それにまつわる多くの英知も蓄積もあります。こうした古典は存在自体が文化なのです。それぞれに極めた師匠に習わなければ見えてこない。何故ならば現代人の感覚では推し量れないからです。
だから古典に関しては面と向かって稽古することは避けて通る訳にはいかないと私は考えています。独自の視点で古典を捉えることは賛成ですし、大いにやった方が良いと思っています。私もそうしてきましたが、やればやるほど自分の知らないことが多過ぎて勉強せざるを得ないのです。自分という小さな器ではとても捉えきれないものが古典にはあります。それだけの時間の蓄積と洗練があるということです。だからこればかりは「べき論」ということではなく、まず素直に習ってみることを勧めています。ただ自分に合う先生を選んで学ぶことがポイントですね。先生も自由に選ばせてあげなくては、せっかくの生徒の志はつぶれてしまいます。邦楽界では師匠を変わるということが相変わらず難しいのですが、こういう悪癖ははっきりと変えて行かないと、どんどんと有能な人材が去って行く行くだけだと思います。

平曲などは節を真似したところで何も見えてこ来ません。何よりも平家物語というものに対する深い研究・考察が無い限り、演奏出来る
ものではありません。平家物語に限らず古典をやるには音楽だけでなく、自ずと日本の歴史やその他の芸能にもそれなりに精通していなければ、中身が判りません。古典文学は古今、新古今などの和歌が下敷きになっていますし、平家物語にしても様々な古典が元にあります。「千手」の所など、雅楽の五常樂にひっかけたやり取りなども出てきます。能や歌舞伎は言うまでも無く、古典文学を知らなければ成立すらしません。つまり伝統芸能をやろうとするのなら、古典全体、歴史全体を把握しないと理解が出来ないのです。
もし「古典やってます」といいながら茶道も能も長唄もろく知らず、古典文学にも暗く、短歌も詠めないような「お師匠様」が居たら、そういう輩はいわゆる「もぐり」でしかありませんね。伝統音楽で先生稼業をやるからには、こうした日本文化や歴史には誰よりも詳しくて当たり前なのです。更に現代の生徒達に対し、西洋文化との比較もしてあげられる位でちょうどいい。ただちょっと技芸がお上手な程度では、習う生徒があまりにもかわいそう。CDでも聞いてた方がよっぽどましというもの。


薩摩琵琶は上記の古典とは少し違いますね。薩摩琵琶の中でも江戸時代に出来た正派は、また別の意味合いがあると思いますが、洗練という音楽的な発展が始まったのが事実上錦心流からですので、まだ100年程度の歴史しかないのです。錦は昭和以降、鶴田は70年代~80年代の創流ですから、多くの蓄積や英知云々というものとはまた別の新興の芸能です。こういうものと古典とごちゃまぜにしたら、日本音楽の本質は見えてこないのではないでしょうか。津軽三味線や太鼓も同じですね。古典のような姿をまとっていても現代のものと江戸時代以前の音楽では全くその質を異にします。
薩摩琵琶は他の古典芸能と違い、音楽学的な研究も始まったばかりで、まだ全然手を付けられていないといってもよい状態。これからもっと色んなやり方や視点、演奏家のアプローチがあって良いと思います。またその位でなければ琵琶楽の今後は無いと思います。

昨今は同性婚なども自治体が認めようとしていますが、世間はなかなかそう柔軟な感性を持つには程遠いでしょう。同性婚が良いかどうかは別として、やはり自分が生きてきた中で培われてきた感性からはみ出すものは受け入れがたい。しかし世の中は目まぐるしい勢いで変化して行きます。邦楽や琵琶楽の在り方も変わってきます。琵琶に対する視線も変わり、琵琶に関わる人の想いも変わり、稽古のやり方も変わって行くのは当然、必然なのです。
パンタレイ・諸行無常・万物流転など洋の東西別なく説かれているこれらの原理・法則は、古代ギリシャでも平安時代でも現代でも同じこと。伝統を繋げて行くには変わり続けるしかないのです。それが出来ないものは消えて行くしかないのです。何を変え、何を受け継いで行くのか???
さあ、邦楽はこれからどうする?