花見には少々残念な天気が続いていますが、今年も満開の桜を観ることが出来ました。感謝ですね。
友人と花見をしていて、稽古について話が弾みました。考えてみれば、私は小学生の頃からお稽古三昧でした。小学生の頃はクラシックギターの竹内京子先生に、中学生の時はブラスバンド部でコルネット、高校生の時はジャズギターの沢田俊吾先生、潮先郁男先生に、20代には作曲の石井紘美先、フラメンコの日野道生先生に、そして琵琶という具合によくまあレッスンに通ったものです。その他ちょっと謡曲も習ってました。
習い方も色々あるのでしょうが、私は一貫して個人レッスンでした。一番最初に音楽を習ったのは小学生の時。そのクラシックギターの竹内先生は、今思えばまだうら若き20代の女性で、本当に優しい先生でした。クラシック以外にもフォークソングをアレンジしたものなど、楽しく面白い曲をよく教えてくれました。当時は「かぐや姫」などが人気だったので、日本ではフォークブームだったと思いますが、私はこの頃からとにかく曲を作るのが好きで、フォークソングもどきを作っては母や友達に聴かせてまわっていました。中学の部活でブラバンに入り、コルネットを吹いていた私は、ジャズに目覚め、高校生になってジャズギターの沢田駿吾先生、後に潮先郁男先生の所に通いだしました。ジャズはとにかく自分で作って行く自由な音楽なので、何でもアリなだけに、タッチや音色、リズム、和声等音楽のあらゆる表現力を身につけて行く勉強の場でもありましたね。沢田先生にはジャズの雰囲気や風情というものを、潮先先生には音楽の基礎的な技術や知識理論を徹底的に教わりました。とにかく寝ても覚めても音楽、音楽、音楽という幸せな時代でした。どの先生も「好きなようにやりなさい」という方で、考える道筋を示してくれ、何時も手綱を持っていてくれた。けっして「こうしろ、ああしろ」という先生は居ませんでしたね。楽器で「うたう」というということを知ったのもこの頃でした。

基本的に演奏家というのは舞台に立って表現する人なので、実はあまり教師や師匠には向かないのです。特にソリストタイプは教師に向かない。それは自分が簡単に出来ることが、何故生徒に出来ないのかが良く判らないからです。私が習った先生は皆さん伴奏タイプの先生たちだったというのが良かったのかもしれません。私が教室を開いていないのも、自分が伴奏者タイプからは程遠い、かなりソリストタイプの演奏家だと思うからです。

常にいろんな工夫をして、考えて、試して、作って、壊して・・・。色んなことを試行錯誤しながら、その先に視線を向けられるかどうかは、本人の持って生まれた器もありますが、私の経験からすると、師匠の指導の質に大きなウエイトがあると思います。師匠は生徒の音楽的視野をどれだけ広げてあげられるかが仕事です。他の音楽や芸術に触れさせてあげる機会を作り、現代という時代としっかり向き合うことを教え、自分独自の音楽性を育んで行くことの重要性を教えていくことがお稽古なんではないでしょうか。少なくとも私は今迄の師匠達からこういう事を教えられてきました。
優れた師匠と一緒に居ると、本当にいろんな話をしてくれものです。色んなジャンルの音楽のことは勿論、美術、歴史等々本当に見識が広い。皆さん生き字引みたいな方々だった。師匠は、生徒一人一人に合う道筋を示して、生徒が求める方向、又は良いだろうという方向に導いてあげるのがその役割と考えれば、そういう知識経験を持っている人が師匠という存在に成るとも言えますね。曲や技を教えるだけならカルチャーセンターで充分。

つまり創造性を育むのが稽古であり、生徒の感性を受け止めて伸ばしてやるのが師匠の役割。生徒の中にはプロ志向もアマチュア志向も居るだろうし、のんびりやる人もいれば、がつがつやる人もいる、そういう生徒それぞれに対応するのが師匠の役目です。稽古場はそういう各生徒に合った様々な学びが出来る場でなくては通う意味は無いですね。何か一つのやり方、一つの価値観を押し付けて、生徒をそれに染めさせるようでは、今や誰も通わないでしょう。そういう意味で私は本当に良い師匠達に恵まれたと思っています。
芸は手から手へということを言われています。私も大いに頷く次第でありますが、現代に於いては色んなやり方があって良いと思っています。色々な間口を作ってあげるのは我々の役目だと思うのです。最近では「先生はYoutube」なんて人も結構いるそうですが、私はその人に掴む力があればそれで結構だと思います。今はCDも本もネットも、あらゆる教材が溢れている。稽古するには幸せな時代です。下手な「師匠」に習いに行くよりも、きっかけになる技術やアイデアさえあれば、感の良い人はどんどん自分で作り上げてしまうものです。昔の人は皆レコードを擦り切れるほど聞いて勉強するのが当たり前でした。それが稽古だったし、なかなかレッスンに行くことも出来ず、自分で必死に勉強して第一線のプロとして活躍した先輩も沢山居ます。こうした先輩達のことを想うと、師匠に就いて稽古に通っていなければだめだなんて思考は、ここ何十年かの温室育ちの甘ったれた考え方だとしか思えませんね。
やるやつはSPレコー
ドの雑音の中から、確実に何かをつかみ取り受け継いで行きます。会った事がなくても、永田錦心が本当に素晴らしいと感じれば、その感性と志を受け継いで行くやつがいつの時代にも必ずいる。それはマイルスでもバッハでも同じことではないでしょうか。
武満も竹山も独学です。自分で腕を磨いていったのです。世界一の技術を持つウェスモンゴメリーやジョージベンソンが誰かに習ったという話も聞いた事がありません。皆さん自分で勉強し、自分なりに核心をつかみ、何かを受け継いで世界の一流になったのです。
また自分で師が必要だと思えば、自分に見合う師匠を選んで行けば良いし、自分に合わないと思ったら別の師を探せばよいし、教える側も自由に師匠や流派を選択させればよい。面と向かってお稽古したところで、核心が解らない奴はいつまで経っても解らない。名前を継いでも、名取になっても、ろくに何も出来ない例は、今邦楽には山のようにあるじゃありませんか。
一昔前は教える側の高飛車な態度がとにかく酷かった。「師匠といえば親も同然」「弟子は未熟なのだからつべこべ言わず、考えず、ただ真似ろ」という父権的パワハラとも言えるようなものがまかり通り、弟子の思考を止めて、何が何でも言う通りにさせて、結局師匠に絶対服従を誓うような者だけしか残りませんでした。先ずは師匠のやり方を叩き込むというやり方しか認めないし、他の考え方や弾き方をすると「癖がついている」などと言って、自分のやり方の方が正しいとばかりに押し付ける。そうした一方的で理不尽な洗脳まがいの稽古が現代に通用する訳がありません。
先生と生徒では体格も骨格も筋肉も性差も年齢も違うのに同じ弾き方を強要する。同じフォームで良い音が出る訳がない。年齢が違えば「良い」という感性も当然違って当たり前なのに、自分の感性を押し付ける。指導に対し理論も無ければ、フォームにおける根拠もなく、肉体の構造も知らず、挙句の果てに生徒に腱鞘炎が続出する。まるで腱鞘炎になる方が一生懸命頑張っているとでもいうような雰囲気すら出来上がる。これでは上達や発展がある訳ないのです。
私は2時間のフルコンサートをやってもどこも痛くならないし、大して疲れない体ですが、私と他の人では体格も体力も筋肉も全く違うので、他人が私の真似をしたらかえって体を壊してしまいます。フォーム一つ、発声一つとってもどれもがスペシャルケースであって、ゼネラルケースというものはありえないのです。
生徒の個性を伸ばすという発想が師匠にあればよいですが、システムからフォーム、果ては音楽までも、全て枠の中に収めようとするようでは次代を担う人材は生まれ得ようがないですね。何処までも押し付けて、従わないものは追いだし、中には作曲を一切認めないという流派さえあるのです。その結果が今の邦楽界琵琶界の著しい衰退なのです。小さな視野、凝り固まった思考の中に閉じ込めたら、どんなものでも衰退するのは当たり前です。
現代は自分で情報をつかみ、自分で考え、自分で行動して行く時代。教える師匠が、個々にあった教え方、時代に合った教え方が出来ないということは・・・まあ愛が足りないと言うしかないですね。

もし音楽に伝統という言葉があるとすれば、それは革新とイコールでしょう。永田錦心、鶴田錦史、チャーリーパーカー、マイルスデイビス、ジミヘン、ビートルズ、ドビュッシー、ラベル、シェーンベルク・・・・etc.を見れば明らかです。次代へ受け継がせたいのなら、何でも言う通りになる優等生より、革命児をこそ育てなくては!。
琵琶をどうやって勉強しようが、ピックで弾こうが指でアルペジオしようがそんなことはどうでも良いのです。レコードやテープの無い時代と今では稽古のやり方自体が違うし、奏法などは時代と共にどんどん変わるものです。表面の形ではなく、もっと核心は何かという部分を教えるのが稽古ではありませんか。形骸化した形に惑わされて本質を見失っているのは、実は師匠達の方かもしれません。
長い歴史の中で受け継がれた型や感性にはどんな意味があるのか、それを次世代にどう伝えて行くのか、今琵琶や邦楽は、稽古というものをどう捉え、教えて行くか、教える側のその器と質が問われているのです。