梅花の季節2016

暖かくなりましたね。花粉も結構飛んでいるので要注意ではありますが、春はやはり色々なものが煌めく季節ですね。

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去年の越生梅園にて

今年は梅の見頃の2月が結構忙しかったので、梅の花見はちょっとしか出来なかったのです。3月に入り、また越生の梅林に行ってみようかとも思っているのですが、一人で行くのも何だか侘しいので、とりあえず近くの緑地公園に行ってみたら、何だか今が満開!という勢いで咲いていました。
その上あんず、ハクモクレン、ミモザアカシア、河津桜など、もう色々な花が咲き出していて、日本の風土が持つ豊かさをじわっと感じました。春のこの色彩の饗宴があるからこそ、詫び寂びのような世界が意味を持つのでしょうね。これから桃、桜を始め当分の間華やかな季節が続くので、気分も上々になって行きそうです。

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今は無き吉野梅郷に咲いていた梅 いつの日かまた目見えてみたいものです

私は見かけによらず植物が好きでして、花や樹木を愛でるような日々に結構強い憧れがあります。特に梅の花は何とも言えない詩情を掻き立て、その控えめな姿に惹きつけられます。人間も梅花のような人が良いですね。現代では、人も仕事も華やかな桜の方が断然もてはやされますが、梅花のファンもお忘れなく!!

Photo Mori Osamu
花は綺麗で美しいですが、ただ綺麗なばかりではありません。そこには激しいまでの生へのエネルギーがあり、また厳しいまでの眼差しもあります。今週の3,11の追悼の会で読む、農民詩人 前田新さんの作品「優しい目」という作品には、そんな鋭く厳しい、物言わぬ禽獣草木の眼差しが描かれ、我が身を貫きます。ちょっと一部を御紹介。

「丹精をこめて、育て
 やがて、そのいのちを絶って食う
 そのときに、私にそそがれる
 禽獣草木、かれらの優しい目だ
 そのまなざしで私は世界を見る」

前田さんのこの詩の冒頭は「私のいのちは 日々、生き物のいのちを絶ち それを貪り食って保たれている」という言葉で始まります。
自然と共に生きるしかこの命を保てない人間は、すでにその基本原則を忘れてしまった…とも言えますね。特に現代社会はそれが著しい。私は梅花の密やかな美しさを目にする度に、美しきものの奥底の眼差しを感じることが出来なくなった現代人の寂しさを想うのです。いつから人間はこんなに傲慢強欲になってしまったのだろう・・・・?

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新宿御苑

現代人は創造力、想像力がどんどん失われていると言われます。私もそう思います。自分に興味の無いものには価値を見出さず、自分の感覚が全てだと思っている。一度つまらないと思ったものは、もう見もせず触れもせず、自分には関係ないものとしか思わない。周りの友人も自分と大体同じだろうと、勝手に自分という小さな世界で何ごとも完結してしまう。年齢関係無くそんな姿が「普通」と言われるのが現代という時代です。そういう自らの姿を「普通」だと思い、皆世の中を闊歩している。現代人は、表面の美しさだけを見て、綺麗な花が終われば、用が無いとばかりに見向きもしない。そこにはもはや創造性も無ければ、知性もほとんど無いのかもしれません。
現代日本ではなんだかんだ言っても、まだ平和で安定しています。それは素晴らしいことですが、人々が観の目を失って、ものごとの表面しか見ることが出来なくなり、詩情も何も失っているとしたら、その虚のような社会はほどなくつぶれて行くでしょう。体裁ばかりを追いかけ、形を保つことに執心している世界に未来はないのです。

3,11-2016
今年もルーテルむさしの教会で開催します。18時30開演です

美は、生への激しい衝動があってこそ、その美しさを開花させることが出来る。花も、音楽も皆、内にその衝動を持って存在している。その内に在るものは確かに目には見えないでしょう。しかし花を見て、その美を観ることが出来なくなったら、音楽を聴いて感動することが出来なくなったら、人間は「愛を語り届ける」ことはもう出来なくなるのではないでしょうか・・・・。その時、詩は、音楽はもはや人間に必要ではなくなるのかもしれない。そして人間という存在も、この地球に必要なくなるのかもしれない。

春の日の想いはどこまでも広がって行くのです。

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