年末になると、普段飲み歩いている仲間からも「正月は実家に帰るよ」なんて声が良く聞かれます。なんだかいいな~~。暖ったかい感じがしますね。私は既に実家というものが無くなってしまっていて、地元静岡に行っても泊まる所も無いので、都会でのんびり(していられないですが)してます。以前は介護施設に入所していた母の所に年末から正月過ぎまで泊り込むのが毎年恒例で10年程そんな調子だったのですが、今考えると、世話に行っているつもりで、甘えに行っていたのかもしれないですね。

音楽家にとって、帰るべき場所や自分が何者であるのかという認識は音楽活動をしてゆく上で、大きな指針となるし、これを認識しない訳にはいきませんね。まあアイデンティティーと言えば良いのでしょうか。
自分が何者であるかが判るということはなかなか難しい問題ですが、それを追求し、感じて行く姿勢が薄いとしたら、それは本当の意味で音楽はやれてない、とも言えます。自分が演奏するものがたとえ伝統音楽であったとしても、それは本当に自分の音楽なのか?。常に我が身に問いかけ、追求する姿勢を持たないと、振り回されて終わってしまいます。
人間は得てして環境に影響され本来の自分を見失うものです。先生と言われたり、肩書きが付いたり、多少の収入を得ることで満足し、音楽以外のものを基準にするようになってしまう。もうそこからは音楽は響かない。何者でもないありのままの自分自分から発してこそ、音楽は「祈りと叫び」になるのです。そしてその音楽には、格好つける必要も無く、素のままで身を委ねられる、自分の帰るべき場所があるはずです。
小さな村の中に居て、虚勢を張っていても、誰も聴いてはくれない。知り合いと褒め合っていても音楽は世に響かないのです。邦楽にはそんな残念な例が多過ぎます。せめて若い世代だけでも音楽にもまともな眼差しを向けて、取り組んで行って欲しいものです。
30代の頃の私はこんな目付きをしていました。とにかくすべてが音楽という感じで、良くも悪くも純粋過ぎましたね。
まあ反省はともかくとして、この頃はまだ自分の姿が、本当の意味で自分で見えていなかったと思います。ただ自分のやるべき音楽はジャズではない、という気持ちは強く持っていました。もう既にこの頃から独自の塩高モデル(六柱)に改造していたのを見ると、すでに組織には組しない「俺流」を貫いていたようですが・・・・。しかしながら、必死で自分の居るべき場所、帰って行く家を探していた時期だったとも言えますね。
そして今、まだ旅の途中ではありますが、道は見えてきました。現実生活はともかくも、芸術的精神に於いて自分が帰って行く所も強く感じるようになりました。年を追うごとに視野が開け、心も体も柔軟になって来るのを感じます。まあこれが年を取るということでしょうが、色々なものから解放されて行くこの感触はいい感じです。やはり帰るべき所は誰にも必要ですね。心の部分だけでも。

さて、明日は平成絵巻「方丈記」の初演です。
六本木芋洗坂沿いにある、ストライプスペース http://striped-house.com/stripe-space.html
にて19時の開演です。是非お越しください。
日本人の帰るべき所、根幹の感性が見えるかもしれません。乞うご期待!!