こころの風景

雑賀バレエくるみ割りもう秋というよりは冬を感じるような日々になって参りました。都内では紅葉が見頃という所でしょうか。
この秋は、演奏会に次ぐ演奏会で、本当に飛び回っていましたが、これから年末にかけてもう少し続きます。ただちょっと背伸びをしないと出来そうにないと思われた会も、終わってみれば楽しいひと時として想い出になって行きますね。まあこうして一つ一つ経験を重ね、自分自身が充実して行くんでしょうね。色々な機会を与えられるというのは本当にありがたいものです。
左のチラシは、今週末にバレエの雑賀淑子先生からのお声掛かりでやる会で、何と「くるみ割り人形」を琵琶で弾いて、バレエ・日舞・中国舞踊・インド舞踊が踊るという何とも面白い会です。雑賀先生にはかなり前から毎年、舞踊と琵琶という形で機会を頂いていて、アートスフィア(現 銀河劇場)やティアラこうとう、ルーテル市ヶ谷等で何度も公演をやらせて頂きました。毎回毎回作品全て作曲と演奏をするのは私にとってとても良い機会だったし、そこからReflectionsのオリジナル作品に発展して行った曲もいくつかあります。

琵琶のプロ奏者として活動を始めてもうそろそろ20年近い年月が経ちますが、こうした機会を最初から与えてくれた先輩方々には本当に感謝しています。
そしてこれまでやってきて思うのは「心の持ちよう」ということが一番大きなことでしょうか。例えば何か人に苦言を呈するにも、ただ見下して言っているのか、愛情を持って言っているのかで随分違います。勿論こちらの心が伝わるとは限らないし、伝わらないことも多いと思いますが、言葉とは正直なもので、言った本人の心に一番帰って来るものです。汚い言葉を平気で口にしたり書いたりしていると、自然と自分もそのレベルになってしまうし、相手からも愛情は持っていただけません。どんなに取り繕っても、姿や目つきは勿論、口元が全てを語ってしまいます。自分がどんな心で居るのか。自分の心の風景がどうなっているのか。とてもとても大事なことなのです。
テグジュペリが言うように「大事なものは目に見えない」のです。

日の出1

私が尊敬する古武術のお師匠さんから、最近良い教えを頂きました。
私が「座っている状態から、なぜさっと立ち上がって剣を構えられるのですか」と聞いた所、「座ってないのですよ」という答えが返ってきました。私は「どうやって筋肉や骨格を動かして立ち上がるのか」という物理的なことしか考えていなかったのですが、答えは全く違う方向のもので、「姿は座っているように見えても、常に立ち合いをしている時と同じ心で居るから、いつでも立てるのです」というものでした。このお師匠様の流派では「「心は理、技は形」といって心を練る事を重要視するそうで、「形は心が作り出すもの、心が直であれば形も直、心がゆがめば形もゆがむ」とされています。正にその通りだなと、深く納得しました。そのつもりでいればすっと立てるのです。

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お師匠様曰く「あなたも舞台で座ってないでしょ?」。はっとしたというのは正にこういう事です。そうなんです。舞台の姿としては座っているように見えますが、座っていないのです。あらゆる所に気が張り巡らされ、且つ固まらず柔らかく場を把握して、最初の一音はその場に浸透させてゆくつもりで弾き出すのです。
私は舞台に於いて独自の構えがありまして、先ずは撥を持って右ひざの上に置きます。それから弾く直前には、撥の刃を立てて、客席に向けて垂直に構えることで気を漲らせます。場の空気を感じ取ったら、一呼吸おいてに第一音を響かせる。こういう手順を常にやっています。まあ剣を持って構えるのと全く同じですね。弾く姿勢も胸をそらしたようなこれ見よがしな形にはしません。それでは威嚇しているのと同じで、自分の弱さを曝け出しているだけです。そんな小さな心に囚われていたら、自分より強い刺激やもの人にすぐに崩されてしまいます。まるで自然に座っているような姿をしていながら、精神は漲り、且つ柔軟に周囲に対応出来、そして何にも囚われない心持で居る。こうでなければ舞台は務まりません。

1お師匠様の言葉を聞いて、自分の未熟さを痛感しました。「舞台」だけを特別視していた自分の甘さが身に沁みました。舞台も立合いも、また日常も同じなのです。いつも緊張しているということでなく、普段からの心構え、心の持ちようが一致していないと、舞台でのレベルも深まりません。自分自身の心の風景はどうなっているか、今一度自らを振りかえってみようと思います。良い勉強をさせてもらいました。達人とのこういう会話は楽しく、そして身に沁みますね。

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