絃は歌うⅡ

先日、Viの田澤明子さんとPの相馬泉美さんのデュオによるサロンコンサートに行ってきました。

場所は渋谷のラトリエby APCという所。小さなサロンでしたので、じっくりと目の前で堪能出来ました。とにかく素晴らしいの一言。田澤さんはクラシックファンなら知っている人も多いと思いますが、素晴らしい実績を重ねて来ただけあって、演奏に迷いが無く、けれんも無く、豊かな音楽が鳴り響いていました。このクオリティーをま近で聴けるというのは本当に幸せです。

曲はヴェートーベン、ブラームス、ドヴォルザーク、チャイコフスキー等でしたが、ちょっと定番ものよりも通好みの選曲でした。あそこまで弾きこなすには、どれだけの修練を重ねてきたんだろう??と、聞きながらそのレベルの高さに驚くやら、感心するやら、ドキドキしながら聞いていました。特に最後のチャイコフスキーの「メロディ」「ワルツ・スケルツォ」では、絃が直接語りかけてくるような、歌いだすような、滅多に味わえない類い稀な空間がそこにはありました。

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津村禮次郎師 戯曲公演「良寛」にて

何か突き抜けるには、それなりのレベルが必要ですね。単なる技術というものよりも、想いの深さとでも言いましょうか・・・。ジョンレノンもボブディランもジミヘンも皆そうだったと思います。頑張っているだけでは、まだまだレールの延長線上に居て、本来の自分は表に出て来ない。既にある価値観ではなく、そこを乗り越えて次の世界へ、自分の世界へ進まなければ、本当の意味での音楽は鳴り響かないのではないか、最近そんなことをつらつらと考えてきましたが、田澤さんの演奏を聴いて、何かピンと来るものを感じました。きっと田澤さんは壮絶な修練を小さな頃からやってきたのでしょう。更に様々な人生経験も経て、今またチャイコフスキーに向き合った。だからこその演奏だったと思います。今年聞いた、灰野さんや中島由紀さんと同じく、音楽が自分の人生そのものになっている。素晴らしいですね。

1私は壮絶な修練を経てきた人生でもないし、竹山のようなどん底から這い上がるような経験もしてきていない。まあせいぜい高円寺のアパートでくだ巻いていた程度の事。毎日悶々と己のやる事を見つめ、何にも振り回されず、自分らしくあろうと思いながら現実にへばりついて生きているだけ。残念ながら人の真似は出来ないし、優等生にも成れない。この自分というものを受け入れて行くしか私の人生は全う出来ないのです。
田澤さんや、先日のストリングラフィーの素晴らしい音楽に触れて、あらためて自分のやる事をもっとポジティブにやろうと思いました。頑張るという事でなく、もっと素直に自分の行くべき所を歩んで行こうということです。また自分の出来る事と出来ない事があるということも、今までずっと思っていましたが、あらためて思いました。彼らのようには出来ない、でも私にも私にしか出来ない事がある。それをやろう。こんな思いが自分の中に満ちて来ました。

日の出1

過去の作品であろうが、自分のオリジナルであろうが、演奏するのは今生きている自分以外に無いのです。たとえスコアがあっても、自分という存在がそこに介在する以上、自分の肉体を通して出て来るものは自分の命の一部となって初めて音楽としての命が響きだす。その時に余計なものが付いていたら、自分の音楽として鳴り響かない。化粧も派手な衣装も肩書きもキャリアも何にも要らない。何者にも囚われる事無く、何処までも自分自身でなくては音楽は呼応しないのです。音楽の前には何処までも私自身のありのままの姿であり続けたい。

良い音楽を聴かせて頂きました。


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