先日、オペラシティーで行われた、コンポージアム2015武満作曲賞の本選会を聴いて来ました。今年はカイヤ・サーリアホ氏を審査員に向かえての開催とあって、サーリアホ作品に関心のある私としてはぜひとも聞いてみたいと思っていました。
HP:http://www.operacity.jp/concert/compo/2015/schedule/150531.php

今回ファイナリストに残ったのは80年代90年代生まれの若い海外の作曲家4人。皆力作で、個人的にはトルコの作曲家イーイト・コラット氏の作品「difeʁãs」が気に入りました。一度聞いただけでは細かな手法やアイデアは読み取れませんが、オーケストラの響かせ方に独自のものを感じました。皆さん色々な手法を駆使しているし、感覚的にグローバルな感じで、民族性に拘ったりするものはありませんでした。6月21日と28日の朝8時10分からFMの「現代の音楽」で放送されるとの事ですので、是非興味のある皆様には聞いて頂きたいと思います。
ウズベキスタン イルホム劇場 現地の現代音楽グループとの共演
作曲というものを論じる程の技量と知識を私は持っていませんが、複数の要素を構築して建築物のように創り上げて行くヨーロッパ的な手法は、そろそろ卒業しても良いのではないかと、個人的に思っています。別に民族的な手法に戻れという事ではありませんし、ジョン・ケージを賛美している訳でもありません。積み上げて創り上げて行くという考え方ではなく、人工的な構築とは別の方向で作曲しても良いのではないかと思うのです。勿論昨今の作曲家がマーラーやシェーンベルクのような論理の所で留まっている訳ではないし、今回の作曲家たちを見ても大変アイデアに富んでいます。しかし要素を構成し、積み上げるようにして曲を構成して行くという点では以前と変わらない。オーケストラを使う以上、秩序が必要ですし、法則も無ければ音が鳴りません。これまでも12音やセリーの技法などあらゆる考え方や手法が出ては消え繰り返されてきましたが、アイデアの果てに何が生まれたのだろう?というのが正直な所です。

今回はグローバルな感じと共に、どれもがいわばヨーロッパ的でもありました。元々経済力、政治力、軍事力などで世界を制覇したヨーロッパの文化がグローバルという名の下で世界の基本として広まった訳だし、日本もそれを取り入れて、世界の一員となって行った訳ですから、とにかくヨーロッパが中心なのは当たり前でしょう。しかしもうこれからは経済も政治も何もヨーロッパの時代は過ぎ去る事も見えてきました。それを考えると世界音楽としてのクラシック音楽はそろそろ終焉を迎えているとも考えられます。クラシック音楽がグローバルな視点をこれ以上拒否するのであれば、それはそれで良いでしょう。ただクラシックの奔流がこれからも続いて行くためには、新しい概念が必要なのは目に見えているのではないでしょうか。
時代はどんどん動いて行きます。次の時代を感じさせるような視点をもう少し聴きたかったですね。
現代音楽について、ここ20年程思っていたのですが、生っぽい感じがあまりにも無いのです(ポップス分野でも感じますが)。一時は肉体性を排すなどというものが流行った事もありました。洗練と言ってしまえばそれまでなのですが、クラシック音楽の延長である現代音楽が、どこか地に足がついていないと思うのは私だけではないでしょう。論理や構成こそはクラシックのクラシックたる所だと思いますが、そろそろそこを乗り越え、もっと人間の生を謳歌して良いのではないでしょうか・・・・・。私の個人的な意見でしかありませんが、ずっとそんな感じを持ち続けています。

邦楽でもクラシックでも、何か大きな概念の転換が必要な時期に来ていると思います。日本も世界もこれから10年で大きく変わって行くでしょう。テクノロジーももっともっと進んで、これまでの哲学が通用しなくなるところに行くと思います。アジアが世界の中心になるとは私は思っていませんが、欧米中心の世の中はもうこれ以上続かないと思います。アジア圏だけでなく、。アラブ圏やアフリカの情勢もこれから刻一刻と変化して、それに伴い時代の価値観、センスはこれから目まぐるしき勢いで変わって行くでしょう。音楽はそれに就いて行けるだろうか・・・・?