
この間の日曜日は、地元のルーテルむさしの教会で行われたイースターコンサートに行ってきました。この教会では、以前のブログでも報告した通り、ここ数年私自身も何度か演奏しているのですが、色々なイベントで演奏会をやっているので、毎回楽しみにしています。この教会は住宅街の中にあって、けっして荘厳で豪華という訳ではないのですが、何とも気持ち良い場所なのですよ。礼拝堂はノアの方舟を模して造られたとの事ですが、まあ私にとってはちょっとしたパワースポットですかね・・・?
私は毎日のんびり生きているつもりでも、知らない内に普段の生活で、ストレスやら毒が溜まるようで、ここに来るとそれがス~っと消えて身が軽くなり、気分が変わるのをいつも感じます。不思議なもんですね。私は神も仏も判らん者ですが、この教会の大柴牧師はそんな私に常に声をかけてくれます。教会の皆さんも「愛を語り、届ける」という姿勢に溢れている。この殺伐とした世にあってありがたい事です。貴重な場所ですね。かつてお寺なんかもそういう所が街の中にいくつもあったと思うのですが、残念ながら今、街中のお寺では気軽に集まれる所は見かけなくなってしまいました。たまにはこういう所に来て、心身共に清めなくては。

昨年同様、バロックを中心に弦楽合奏、協奏曲、歌とヴァリエーションのあるプログラムで、オーボエの姫野徹さんやソプラノの田村桂子さんなど、素晴らしいソリストの演奏も堪能させて頂きました。出演の皆さんがクリスチャンなので、皆さんにとってバロック音楽はとても身近な音楽なのでしょうね。無理も無ければ、けれんも無い。正に万物への愛情に溢れていたコンサートでした。
私はクリスチャンではないですが、民族色の強い音楽よりもバロックや現代音楽の方が断然しっくりと来ます。土着性のある民謡や、いわゆる民族音楽にも結構魅力を感じるのですが、どうしても最後には洗練の極みのような世界に行き着いてしまいます。これは昔から変わらないですね。私が雅楽や能に惹かれるのは、そこにハイレベルな洗練を感じるからです。
どんな音楽が在っても良いし、どれも魅力があるからこそ皆に受け入れられ、世に存在していると思いますので、優劣は無いと思いますが、自分にとって無理のあるものをずっと聞いたりやったりするのは難しいですね。しかしまだまだ保守的な世界では、どうでしょうか・・・・?。
音楽をやっている人の精神が何かに囚われているようでは音楽は響きません。音楽がイデオロギーで固まったり、意味の無い因習や形式等で形骸化していたり、権威を示すようなものに成ってしまったら、そこからは押しつけしか聞こえて来ない。音楽はどんなものであれ「 A Love Supreme」に溢れていなくては、聞き手に届きません。それはコルトレーンでもマイルスでも、宮城道雄でも永田錦心でも、モーツァルトでもマーラーでも皆同じです。

ルーテル教団は歌う教会といわれているそうです。だからいつも気持ち良く音楽を聴くことが出来るのでしょうか。私はあまり器用な方ではないので、すぐに周りの事柄に振り回されてしまうのですが、ここに来ると、いつも気持ちが軽くなります。
「〇〇のようでなくてはいけない」、「〇〇でなければならない」という事は、何事に於いても無いのです。ただ只管に己の人生を生き、この身から湧き上がる自分の歌を歌えば良いのです。意地で歌っても自分の歌にはならないし、歌いながら戦っていても何もならない。
本来の自分の歌がなかなか歌えないのが世の中というものかもしれませんが、自分の歌を歌える場所、そんな歌を聴ける場所を持つことは、人生の幸せかもしれません。
私の歌を、あなたの歌を、存分に歌おうではないですか。