先日、9.11メモリアルというイベントに参加してきました。

良寛公演でおなじみの和久内明先生が毎年主催しているもので、私も常連の参加者となってきました。今年も能の津村禮次郎先生、ギターの山口亮志君が参加して、素晴らしいパフォーマンスを魅せてくれました。アラビックなメロディーに乗って舞う津村先生には何とも言えない凄味を感じましたね。さすが!。私は次の日に朝一からの用事が入っていたので打ち上げに参加出来ず、ゆっくりとお話も出来ませんでしたが、津村先生からは楽屋や舞台袖でいつも色々な話やアドヴァイスを頂いています。こういう筋金入りの先輩と時々御一緒出来るという事は本当にありがたい事です。
今回私は、和久内先生が9.11のテロの年にとある学会で発表した「証の墓標」という詩に曲を付けて演奏しました。

例えば「春の海」は何度聞いても刻々と変わる海の姿を思い起こさせ、「みだれ」は様々なドラマを私の中に創り出します。尺八古典本曲には無限の風景と静寂を、「啄木」には大陸の様々な風が我が身にそそがれているかのようです。クラシックの名曲などにも同じですね。素晴らしい音楽がいっぱいあるのです。これらの作品の持つ豊かな陰影、どこまでも広がる世界は、時代に流されて、振り回され続けている現代人の硬直した精神を浄化してくれるよう。だからこそ「こうでなくてはならない」という思い込みを音楽に押し付ける事、権威を誇示しようとする姿勢等は到底好きにはなれません。芸術の対極にあるものだと思っています。色メガネをはずして、無垢で自由な視点で感じてもらう事が大切なポイントだと思っています。
どんな音楽があっても良いと思いますが、音符の先に想いや情景、無限に広がる世界が見えてこそ、聞こえて来てこそ、感じられてこそ音楽ではないでしょうか。お上手に演奏した所で意味は無いでしょう。音楽は技芸ではないのです。

和久内先生が常に3,11や9,11の集まりに音楽や舞等芸術を取り入れ、参加者みんなに感じて、考えてもらおうとするのは実によく判るのです。これらの催しは哲学、芸術に通じている和久内先生だからこそ、ずっと続けて行けるのだとだとも思います。
今回も祈りと共に、音楽というもの、舞台というものの在り方そして芸術の無限の可能性を感じるひと時でした。