モダンスタイル

すっかり秋らしい風情になりましたね。私は夏があまり得意でないので、やっとこれから存分に活動が出来ます。

スーパームーン2014-9昨日のスーパームーン

先日色々なスタイルの踊りの方が出る会に行ってきました。創作的な作品のみの会でしたが、いつもは舞台の方に居るので、久しぶりにゆっくりと観客席から鑑賞することが出来ました。私は琵琶を始めた最初から、どうも踊りの方と縁が深く、毎年何かしらの公演を一緒にやっています。もう十数年、踊り関係の方との公演が無い年はありません。日舞や能舞、地唄舞、巫女舞、やまと舞等、和の舞が多いですが、バレエ、モダン(コンテンポラリー)ダンス、フラメンコ、舞踏、あらゆる踊りの方々にとにかく声をかけられることが多いです。

 3s0s

様々な試みに接する事は面白いし、これからも踊りの方とはどんどん舞台を創って行きたいと思うのですが、新しい形をつくり表現するという活動は本当に厳しいものがあります。ともすると自己満足の世界で終わってしまい、「やった」という充実感に浸ってしまって、その表現が観客まで届いていないという事が、往々にしてあるのです。特に新作に関してはそれが強いですね。だからといって観客に媚びるようなものや、安易なエンタテイメントに走ってしまうものは愚の骨頂。表現しようとするものを観衆に伝えて行くのは本当に難しいと、何時も反省し、痛感します。

言葉を伴わない身体表現というのは、基本的に大変純粋な行為だと私は思います。私は声に大変興味があるのですが、言葉や歌詞を発するという事に対し、とても気を遣います。良寛の戯曲を書いた和久内明先生も戯曲の中のセリフに書いていました、「言葉には虚偽が潜む」と・・・。「悲しい」と歌っても、その裏側には様々な感情が潜むように、芸術でも日常の生活でも、言葉というものは大変重要ですが、事舞台に於いてはイメージの固定化を招き、想像力を阻害するものでもあり、また一件具体的でありながら意味をなさない事も多いです。いわば諸刃の刃なのです。だから身体表現という行為は、言葉という媒体を経ないでそのまま出て来るので、表現しようとするものがダイレクトに伝わる可能性がとても高く純粋なものだと思えます。しかし・・・・・。

日舞や能、歌舞伎、舞楽、バレエ等、古典として成立していて、長い時間を経て継承されているものは、すでに文化となって認識されているという事ですし、それぞれの型自体に哲学美学があり、当然人々を魅了する力もあります。
ただ毎度書いているように、「古典とは何か」という命題を常に己に科し、研究し、考え抜かなければ古典といえどもただの「なぞり」になってしまいますので、プロとして舞台に立つ以上、古典をやるからには徹底的な研鑽を積み、あらゆる側面から研究・追及が必要です。一流は皆さん盛んに研究していますね。だからこそ残っているのです。

一方前衛やモダンと言われるコンテンポラリーダンスや舞踏等は、元々従来のものから脱却しようとして生まれてきた新しい芸術表現であり「モダンスタイル」です。にも拘らず形骸化を一番感じるのは、実はこの「モダンスタイル」なのです。新らしいものだけに型として認識されているものが無いので、同じような事をやると、「二番煎じ」という風に捉えられ、それは時に陳腐でさえあると思えてしまう。こういう事は新しい分野の難しさではありますが、あまりに「なぞっている」と思えるものが多いですね。演じ手に力が無いのか、そのもの自体に深みが無いの
か・・・?

鶴田&武満創り出すという行為は素晴らしいけれど、ただの焼き直しでは、新しいものは生まれない事は誰にも解る事だと思います。お稽古したという充実感だけで舞台に出ては表現にはならない。古典にしてもモダンにしても、先ずは旺盛な創造性が無くてはいけません。その上で、どのように過去を継承し、相対して行くか、その姿勢と器が問われるのだと思います。創造性無き継承は継承ではない、ただの「ものまね」なのです。その継承の仕方で、モダンというものも生まれて来ると思います。従来のものからの脱却なら、先ずは従来のものに真っ向対峙して、それらを知らなくてはならない。「神は死んだ」と言ったニーチェも、神というものと対峙したからこそ(あるいは逃れられなかったからこそ)、こういう言葉が出る来たのではないでしょうか。
自分では新しいものを創っているつもりでも、外側から見ると「なぞっている」ようにしか見えないものも多々あります。薩摩琵琶の現状を考えても、未だにあの琵琶唄の節から逃れられず、永田錦心を超えられないのではないでしょうか。チャーリーパーカーのビバップフレーズの如くだと思います。鶴田錦史が示した現代琵琶楽の方向性も、その志は継承されているのでしょうか・・・?

IMG_3405[1]私の音楽がどのように聞かれているか、私自身にはなかなか判りません。ギターのようだという人も居るかと思うと、古風だという人も居る。またビートが効いていてロックのようだという人も居ます。人の印象は様々ですね。
樂琵琶の方では、特に雅楽を基本にしているという訳でもなく、雅楽を見据えながらも好きなように、汎アジア的な視点で作曲・演奏をやっていますが、薩摩琵琶の方は、何かしら背負うものを感じながら曲を作り演奏しています。千年以上も前からあるものは、軽々とその歴史を超えて、新しいものに向かえるのに、まだ100年程の歴史しかない薩摩琵琶の方には、何か日本の歴史や文化を背負わずにはいられない。不思議なものです。

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少なくとも聴衆にとって魅力ある音楽として、私の音楽を聴衆に響かせたいですね。
踊りの舞台を観ながら、創るという事の難しさと魅力を我が身に重ねて感じ、また自分のやるべき音楽に対してのアイデアも色々と浮かんできました。

何しろ舞台は面白い!舞台への想いは尽きないですね。

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