先日、シアターXにて「踊る妖精」という舞台を観てきました。この舞台は4年前、同じタイトルでチェーホフの「かもめ」を題材とし、アキコカンダ、花柳面、ケイタケイ、折田克子、倉知外子らが其々ソロの作品を作り上演したもので、このブログにも感想など書きましたが、アキコカンダさんが亡くなった事もあり、今回は追悼公演という事で再演する事になったそうです。

先日、同じくシアターXにて行われた「イェイツと能」のレクチャーの時に、花柳面先生から、私の「良寛」の舞台の感想を伺っていて、「歌ってはいけない」、「歌っているけど、歌っていない」というアドバイス頂いたのですが、何とも抽象的な言葉で、何か大事なものがありそうだと、もやもやしながらずっと思いながら、その時点ではよく判らなかったのです。それが今回、それぞれの作品を観ていて、おぼろげながら気付かされました。
私は何時も、「その先の世界を表現する」という事をここに書いています。「上手を目指してはいけない」という事も書いています。それは「歌っているけど歌ってない」という状態に通じるのではないかと思えてきました。動き一つ、音一つでも表現の為にあるのであって、歌でも踊でも、踊りが踊りのまま見えるという事は、その先の世界に至っていないという事。言い方を変えると、その部分は日常を超えていないとも言えます。歌を超え、踊りを超えた所が表現できていなければ、まだ出来上がっていないという事です。上手が見えてしまうなんてのは単なるアマチュアレベルですが、舞台上の全てが表現となって初めて作品となるのです。つまり「歌っている」「踊っている」という風に観えてしまうという事は、プロの舞台人にとって大変残念な事なのです。

音楽でも何でもそうですが、上手かどうか等と思うのは、その業界人だけでしょう。観客にとっては上手なんて事は当たり前なのです。いくら部分的に上手でも、舞台全体がが良くなければ、かえって舞台として未完成であることを露呈しているようなものです。
舞台というものは日常を離れ、観客を異次元へ駆り立てるような場になっていなくては、人は作品に対しお金は払ってくれません。お稽古事の無料の会だったら、頑張っているというだけで、拍手もしてくれるし、褒めてくれるかもしれませんが、プロはそうはいきません。そこに非日常の空間を作りだし、観客に表現が伝わってナンボです。先ずそういう舞台が出来ていなければ、良いも悪いも評価しようが無いのです。この前も書きましたが、技芸ではないので、いくら早く体を動かしても、瞬時に沢山の音を弾いたとしても、そういう表面の技術では作品にはならないのです。あくまでも作品を見ていただくのが我々の仕事なのです。
私の事を振り返ってみますと、面先生が指摘したように「うたっている」というのが見える所がまだまだあるように思います。器楽の部分に於いては、自分自身の想いなり、表現なりを演奏に託し投影する事が自分の中で、極々自然な行為として成り立っています。特に樂琵琶では、自分の思うように弾けているという感じもあります。しかし歌はまだそうはいかない。「薩摩琵琶は弾き語りをやらなくてはいけない」という呪縛がまだ自分の中にはあるのでしょう。先日の観世銕之丞さんの謡を聞いても思いましたが、私は、歌ではなく、声を使った「表現」という形にしてゆくのが私らしいのではないかと思っています。私にとってメインは器楽。あくまで琵琶の音です。これからは弾き語りはどんどん減り、器楽に特化して行く方向に向いていますが、声に対しての考察もまだまだだ必要なようです
その為には、そういう作品をどんどんと作る事ですね。1stアルバムを出した頃は、そんな歌ではない、声を使った作品もいくつか書きましたので、今後はその辺りをあらためて加速させていきたいと思います。
私がこれまで聞いて感激してきた音楽は、皆世界最高峰のものですが、技が凄いなんて事は二の次三の次でした。そんな事よりとにかく作品自体に圧倒的なものがあって、その作品に魅了されたのです。もうキリが無いほどに夢の世界を味あわせてくれるアーティストを聴いて来ました。私は及ばずながらも、こういう側に居たい。舞台を観ていて、あらためて想いが湧き上がりました。